三、四人立ち
いつかの正月、獅子舞は神社を練り歩き、見物の子どもたちを順に噛んでいった。おれだけ噛まれなかった。となりにいた姉があたまをぱくりとやられ、きゃっと声をあげ、つぎはおれの番だとどきどきしていたのだが見過ごされた。おれの背が低かった。獅子舞に噛んでもらうと魔除けになるのだと母が言っていた。じゃあおれはどうなるのだと泣いたが、どうもしないよばかだねと、母にも姉にも笑われた。父がなんと言ったかおぼえていない。
そうしていまアパートの電気を止められて、思った。やはりあのとき獅子舞に噛まれなかったのが、よくなかった。いや金がまったくないわけではなかった、どうにも払うのを忘れがちで、今度こそ引き落としにしておこうかなあと思うことは思うが、おっくうだ。銀行に行けばいいのかな。電力会社にいうのかな。そういうことをじょうずにできない。どぎついピンク色の督促状が届いていたかもしれないが、見慣れちまったし、紙っぺらや封筒を郵便受けから取り出すとか封を開けるとかめくるとか読むとか、苦手だ。獅子舞が噛んでくれていたらこうはならなかった。
あわててコンビニで支払いを済ませ、もう夜中だった。電気がもどるのはどんなに早くても明日の朝だろう。涼しいマクドナルドで夜明かしすることにした。
さっき冷蔵庫はぬるくなりはじめていて、といってもたいしたものは入っていない、ペットボトル、マヨネーズ、目薬……一晩くらいどうってことはない、とは思ったが、なんとなく梅干しだけ気になってマクドへ連れてきた。ずいぶん前に買って、三粒残っていた(残しちまっていた)梅だ。夜更けに梅干しのパックを手に持って歩く自分はどのように見えるのだろう。このあいだ蚊に食われたところがふくらはぎで跡になっている。バイト中にぶつけてつくったあざも残っている。なんで梅干しなんか買ったんだっけ。まだ食べられるかな。においも嗅がないし味見もしないが大丈夫だろうと思った。いや大丈夫ということにして、においや味をたしかめるのを避けた。おれはここしばらくこいつを冷遇している。古くなったものをどうにかするのがめんどくせえ。冷蔵庫の中でいないもののように扱い、目を合わさないようにし、つまり、どうせ食べずに干からびさせる梅だった。だのになぜいま涼しいマクドへ運んだのだろう。トレイの上、コーヒーのとなりに梅干しを置いた。端から見たらおれは梅干しをつまみにコーヒーを飲んでいる。一粒だったら食っちまった。みっつもあるからペットみてえに連れてくるはめになった。名前をつけてみようか。飼い主面をしてみようか。思いつかない。想像力がはたらかない。
となりの席では女と女がしゃべっていて、最近頭痛がひどい、もう頭をとっちゃいたいと言っていた。おれはコーヒーをすすった。梅干しのパックがトレーの紙、「クルー募集」の文字と女の顔を隠していた。女Bが女Aに頭痛薬をわけてやった。胃薬もいっしょに飲みなとやさしく言った。ぱきんと錠剤を押し出す音がした。
「あいつを殺すよ」
「よし、手伝うよ」
朝まで放っておくうち、梅干しにかびが生えたらどうしよう。緑色がぽやぽや生えてくる。想像できることを想像した。パックの中に赤いつゆがたまっている。泣いている、ちょっとすねてうずくまっている、そのように思うこともできた。おい、じゃあ、子どものころの話をしてやろうか。おれは小学校のとき鼓笛隊でトランペットを吹いたことがあるんだぜ。
「おれは王子の役をやったことがあるよ」
男は言った。こいつはとんでもないこわがりで採血のたびにおおげさにおびえ、さっきも、ナースに手を握っていてくれと泣きついた。ナースは大柄のクマみたいな男で、そんなに痛くないからがんばってと励ました。男は神妙にうなずいた。ほんとうに針をこわがっているのだった。
「白いタイツとかフリルのブラウスとか、おれはそういうの似合うんだ」
男はソファに寝そべっている。テーブルではおっさんがクロスワードを解いている。大学生はずっとスマホをいじっている。全員揃いの入院着で、男は背が高く、ズボンがつんつるてんで脛が出ていた。中身以外は似合いそうな気もすると言おうとして口ごもり、そのためおれの無言はまっすぐな肯定になった。男はよろこんだ。
治験のバイトに受かった。新薬の効果や副作用を検証するのにおれの体を使ってもらう。病院に二週間泊まりこんで二十万、体になにか影響があるかもしれないが、よくわからん、ともかく病院でめしを食って寝て薬を飲んですれば金がもらえるというのだからありがたいことだった。……電気を止められて、いてもたってもいられなくなった。というわけでもない、たんに、前に応募して忘れていたバイトだ。連絡がきたので、のった。
二週間外出できないので退屈するかと思ったが休憩室には漫画やゲームが山のようにあった。裕福な家の子ども部屋のようだ。起床も消灯も食事も時間が決められているからしぜんと規則正しい生活になり、おれはちょっと健康になった気がしている。
そうして、治験バイトは集団生活だった。集められた何人かは検査や病室や休憩室をいっしょに過ごす。ベッドはいちおうカーテンで仕切られているしずっと黙って寝ていたっていいが、どうせ二週間だけのつきあいだと思うと気楽に接することができた。タクシーの運転手とか風俗嬢とか、行きずりの相手にはかえって正直になれる。
おれのほか三人。クロスワード雑誌をどっさり持ち込んでいるおっさんはくしゃみの声がでかくてイライラするが、おっさんだしなとも思う。食事についてくるふりかけをいつもおれにくれる。のりたま二倍のめしを食いながらおれだっておっさんだと思い直す。大学生は資格の勉強をするといって問題集を積み上げているが解いているところを見たことはない。
そうしてこの男だ。たぶんおれと同年代だ。ソファの横にはみだしていた足につまづいたら、「足が長くてごめんね」とうそぶきやがった。
男が言った。
「むかしバレエやってたんだよ。たいしたダンサーにはなれなかったけど」
なんの話をしていたんだったか、前後がわからなくなっていた。このあいだ電気をとめられちまったと、おれは武勇伝のように話したかもしれない。やがて男はあくびし、おれにもあくびがうつったが、うつったと思われるのが恥ずかしいので鼻をすすってごまかした。文脈が途切れた。まあいいやと思った。男は足を広げて前屈してみせ、床だったらもっとうまくいったかもしれない、ソファの上だったのでわかりにくかった。でも体がやわらかいのは伝わった。
「いまもダンサーに見える」
おれはいいかげんなことを言ったのだが男は照れくさそうにした。いろんな無職がいるなと思う。薬の検証じゃない。ひまで金のない男どもをひとつところにとじこめておいたらどうなるかという実験かもしれない。妄想をもてあそぶ。
マクドの翌朝、電気はすぐにもどった。おれは梅干しを冷蔵庫に戻した。だいぶぬるくなっていたがやはりかびは生えなかった。ぜんぜん、食べられる。でもにおいは嗅がない。梅干しはそのままで治験に来た。夜に連れ回したことは夢だったみたいな気がする。病院のめしにはよくカリカリ梅がついてくる、果肉を奥歯でこそげながらあいつらのことを思い出す。冷蔵庫の奥でおれを待っている。
何日かしてから男が言った。
「こんど獅子舞のバイトすることになっちゃってさ」
硬いベッドで仰向けになっていた。カーテンは閉めきりだし蛍光灯は明るいが、夜だということはわかる。夜の気配がする。
「地元のお祭りで、やってくれって声かけられた。むかしはここの家の血筋がやるとかよそから引っ越してきた人はお祭りには来ちゃだめとかあったんだけど、田舎だから人がいないんだろうな。三人立ちっていって、めずらしいんだ。三人で一匹の獅子になる。先頭がいちばん面白そうなポジションだけど、どこやるかわかんない」
むかしおれを噛まなかった獅子舞は、ぬらりぬらりと踊っていた。地下足袋で足音がなく、あれは一人だけの獅子舞だった。先頭がやりたいならやはりダンサーじゃないかと思った。
あの晩マクドの女たちは誰か殺しに行ったのだろうか。終電と始発のまんなかくらいで店を出て行った。手伝いますよとついて行きたかった。ちょうどそのとき、店のBGMが「We Are The World」だったからそう思った。梅干しを持ったまま、ぶっそうな夜をやってみたら、きっと楽しかった。香港映画みたいだ。そういうことをできねえのも獅子舞に噛まれなかったからだ。むかし好きだった子は「We Are The World」のシンディーローパーの真似がうまかった。
やがて男は言った。
「ごめんうそをついた。ほんとはバイトじゃない。ぜんぜん金は出ない。でもそう思わないと、地元の祭りなんか参加したくない」
男はもそもそ着替えながら言った。うそを告白してちょっと高揚しているみたいだった。そうして、おれの背中にはほくろがふたつ並んでいて顔みたいに見えるらしいよと笑ってみせた。背中にできものができてかゆいとナースに塗り薬を頼んでいた。おれに背中を見せてきた。
「このへんかな? ほくろが顔みたいだって好きな子が言ってたんだ。ある?」
そう指をさすが、見当たらない。背骨の横でおできが腫れている。ないよとおれが言ったら、へんだなと首をかしげた。自分で自分の背中は見えない。鏡でも難しい。
「スマホで写真撮ってやろうか?」
男は首を振った。
「好きな子とあんた、どっちかが嘘をついているんだなあって思うことにするよ」
いやおれは嘘ついてないぜ、なぜかちょっとムキになっちまい、男は笑った。
梅干したちがみっつならんで獅子舞になるところを想像する。赤く皺の寄ったすがたはたしかに獅子の顔だ。憤怒の形相でおれの帰りを待っている。おれも獅子舞にまぜてもらいなだめるために噛んでやる。想像できることを想像し、唾があふれた。
サークル名:ザネリ(URL)
執筆者名:オカワダアキナ
一言アピール
新刊「アイドルタイム」の習作のような感じで書きました。働きたくないおじさんと働いていないおじさんが、一緒にバイトをしたりVtuberをやろうとしたり、友だちになっていく話です。