かつてわたしの全てだったあなたへ
ここはこの街にある唯一の修道院。おれがこの修道院で暮らし始めてからもうだいぶ経った。だいぶ経った時間のうち数年は、とある使命を受けて東の国へと旅立っていたけれども、無事に帰ってくることができた。
東の国から帰ってきてしばらく経って、この修道院に入る前のことを思い出す。ここに来る前、音楽院に所属してオペラ歌手として暮らしていた頃のこと。自分の歌など誰も聞いていないのではないかと不安を抱えていたおれにある時、おれの歌が好きだと声を掛けてきたやつがいた。彼は音楽院で一番人気の歌手で、はじめはただからかっているのだろうと思った。けれども、彼は一生懸命に、飾らない言葉でどれだけおれの歌が好きなのか、それを言って聞かせてくれた。それがどうしようもなく嬉しくて、それ以来、彼とおれは親しい友人として日々を過ごした。
そう、あの日おれが音楽院を辞める日までは。
音楽院を辞めた理由は、たったひとりの神父様を除いて誰にも話していない。そのことを話すどころか、思い出すだけでもつらかった。あんなおそろしい目に遭うなんて、思ってもいなかったのだ。だから、彼はおれが音楽院を辞めた理由を知らない。そのことを彼がどう思っているかはわからないけれども、音楽院を辞めると伝えたとき、彼がひどく疵付いたような顔をしたのが今でも忘れられない。
この修道院に入って、それから、東の国へ旅して。その過程で、おれの心の中のおそれはだいぶ落ち着いたように思えた。だから、今なら音楽院を辞めた理由を彼に伝えられるような気がした。
今更音楽院を辞めた理由を伝えたところで、彼もおれもなにかどうこうできるわけではない。彼は舞台の上での華やかな生活を、おれは修道院での静かな生活を続けるだけだ。
やめた理由を彼に伝えたいというのは、おれのわがままだ。彼はそんなことへの興味はもう失っているかもしれないし、知ることで気分を悪くするかもしれない。それでも、彼にあのことを告白すれば、赦されるような気がしてならないのだ。
夕食後、司教様の元へ行って、外の世界で暮らす彼に手紙を書いて送っていいかを訊ねた。すると、司教様はすこしだけ悲しそうな顔をして、必要以上に俗世と関わりを持つのはいけないことだと、そう言って、手紙を送ることを許してはくださらなかった。
気落ちしながら部屋へと戻る。ベッドに腰掛け、いつも使っているロザリオを手に取って珠を手繰りながら彼のことを考える。彼は今どうしているのだろう。俺がいた頃と同じように、栄光の中で輝いているのか。それとも、そろそろ引退して貴族の音楽教師になることでも考えているのか。思いを巡らせる。
けれども、ここでどれだけ考えても答えはわからない。ロザリオの珠を一巡する間だけ考えて、ベッドの中に潜った。
手紙を出すことを戒められたあの日から数日、この修道院併設の教会で、葬儀が行われることになった。今回見送るのは、この街の富豪の子供で、聖体拝領も受けられないほどに幼いそうだ。
それを聞いて、おれは改めて友人であった彼に手紙を書こうと思った。これだけ幼い子供の葬儀をするのであれば、音楽院から天使役を呼ぶであろうと思ったからだ。
おれもまだ子供だった頃、音楽院からの言いつけで何度も旅立つ幼い命のために、天使役として葬儀に行ったことがある。厳めしい顔をした引率に連れられて各地の教会に行き、言葉も交わしたこともない冷たい子供のために、祈りの歌を歌うのだ。
そのことを思い出し、音楽院から天使役が来るのであれば、天使役の子供本人は無理でも、引率に友人への手紙を託して届けてもらえるのではないかと思った。
誰かを見送るための儀式を、自分の都合のいいように利用するのはどうかという気はしたけれども、それでもおれは、彼に伝えたいことが沢山あった。
そして葬儀の当日。俺が子供だった頃と同じように、天使役が幼い亡骸の前で歌を歌う。高く澄んだ声は入り組んだ構造の教会の隅々まで染み渡り、幼い魂を天へと送り届けるのに相応しいと思ったのと同時に、この子供達と同じように、高く澄んだ声を持っていた友人のことを思い出させて涙が滲んだ。
葬儀が終わり、参列者が教会から去ったあと、片付けをこっそり抜け出して応接間へと向かった。そこで天使役の引率を待たせているからだ。
おれがそっと応接間を覗き込んで、軽く扉を叩いて中に入ると、引率の人が驚いたような顔をした。
「これはこれは修道士様、何かご用でしょうか。
もしかして、天使役がなにか粗相をしましたか?」
天使役がなにかをやらかしたとき、責任を負うのは引率だ。だから、こう言った反応をしてしまうのは仕方ないだろう。けれども、おれの用件は天使役どうこうとは全く関係のないものだ。
引率に微笑みかけて、ポケットにしのばせていた手紙を取りだし話し掛ける。
「音楽院の方ですよね。
実は、音楽院にいるとある方に手紙を届けて欲しいんです。お願いできますか?」
すると、引率は不思議そうな顔をして返す。
「郵便屋に頼むのではいけないのですか?」
「実は、司教様に俗世に手紙を出してはいけないといわれて、郵便屋には頼めないのです。
ぜひ、内密にお願いしたいのですが」
すると引率は、そういうことなら。とおれの手紙を受け取った。差出人の名を見て、ちらりとおれに視線をやる。もしかしたらおれの名前くらいは聞いたことがあるのかもしれない。それから、宛先を見て眉をひそめた。
「申し訳ありませんが、このお手紙はお預かり出来ませんね」
ああ、いくら元々音楽院に所属していたとは言え、やはり修道士の手紙を受け取ることは難しいのだろうか。思わず視線を落とすと、引率は手紙をおれに返して、固い声でこう言った。
「この宛先の方は、数年前に疫病で亡くなりました」
なにを言ったのかわからなかった。引率の言葉をもう一回頭の中で反芻して、それでも上手く飲み込めなくて、震える声でこう訊ねた。
「その、彼の最期は……どうだったんですか」
どう、と訊くのもおかしいのかもしれない。けれども、それを聞かないと受け入れられないような気がした。
引率が、伝え聞いただけですが。と言って語る。
「彼はカーテンコールの時に舞台の上で倒れて、そのまま、その夜のうちに亡くなったそうです」
ああ、彼は舞台の上に最期まで立っていたのだ。それは彼らしい最期だと思ったし、そうやって死んだのであれば、彼の栄光はきっと永遠のものになるのだろうなとも思った。
彼はどこに葬られているのだろう。故郷であり音楽院の置かれている都の墓地だろうか。それとも、オペラの巡回先のどこかの街だろうか。
「彼は、どこにどのように葬られたのですか?」
おれがそう訊ねると、引率は少し顔をしかめた。
「聞かない方が良いですよ」
どういうことだろう。魔女として焼かれたわけでもなく、罪人として処刑されたわけでもない。彼は普通に、悼まれながら眠りについたはずだ。
きっと、納得できないという顔をしていたのだろう。おれを見て、引率が溜息をついてこう言った。
「埋葬されているのは、ブルターニュにある街です。
その街を襲った疫病はあまりにも凄まじく、死者が山のように出たそうです。
その死者を埋葬するために掘られた、地獄の釜のように大きな穴の中に、無名の人々と一緒に埋められています」
それを聞いて、おれはなにも言えなかった。聞かなければ良かったとさえ思った。どこでどのように埋葬されたのかさえ聞かなければ、彼はおれの中で永遠に栄光の中で輝き続けたのに。けれどもおれはもう、彼が無名の人々のうちのひとつになってしまったのを、知ってしまった。
扉を叩く音が聞こえる。天使役が帰る準備を整え終わったのだろう。外からかけられた高い声を聞いて、引率はおれに一礼をしてから応接間を出て行った。
手に持った手紙を呆然と眺めて、握りしめる。この手紙はもう届かない。彼に去った理由を伝えることも、謝ることも、もうできない。かつて舞台の上で鳥のさえずりのような歌声を響かせていた彼のことを思い出す。
もうどこにもいない。栄光も残っていない。
かつておれの全てだったあいつはもう。
サークル情報
サークル名:インドの仕立屋さん
執筆者名:藤和
URL(Twitter):@towa49666
一言アピール
現代物から時代物まで、ほんのりファンタジーを扱っているサークルです。
こんな感じの少し堅めの物からゆるっとした物まで色々有ります。
基本読みきりですが、いっぱい集めるといっぱい楽しいよ。
中世のヨーロッパの雰囲気が、それとなく感じられて、興味深かったです。ただ、もうすこし、具体的描写があると、より美しく仕上がる気がしました。また、歌手の死を告げられたときのおれの反応が、どことなく不自然な気もしました。でも、とても面白かったです。
感想ありがとうございます。
描写を省いてしまうのは悪い癖ですね。ご指摘ありがとうございます。
楽しんでいただけたようで嬉しいです。