ビューティフル・ワールド 最終章 ウツクシキコノセカイ 最終節 beautiful morning with you
「きれいだ」
おもわずそうつぶやいた。
「そんなこと、言わないでよ」
彼女は面食らったらしい。ぼくの身体の半分くらいしかない、華奢で小柄だったひとのそれはもう存在しない。目の前にいる漆黒の巨大な竜が、彼女のほんとうのすがただったのだ。
ぼくは最初からわかっていた。だってこれはもともとぼくが書いたはなしだ。十年以上前のぼくが最初に書き残して、何度も何度も潜り込んで、ついぞ、ぼく以外のだれもが途中で力つきたはなし。
彼女がきれいでないはずがなかった。彼女はぼくが昔思い描いていた、女のひとが持っているであろう魅力をすべて持っているように「書いた」のだから。このはなしを考えたとき、ぼくはほんとうの女のひとがどういうものかを全く知らなかった。教えてもらえるような、学び取れるような世界ではなかったから。ほんとうの女のひとは、ずるいしみにくいしきたないしなにを考えているのかてんでわからないような気がして仕方がないけれど、彼女と違ってしっかり生きているのはたしかだろうと思う。
「そう、わたしは、だから、死神」
彼女は生きていなかった。
そのように書くことができなかった。
いや、仮に書けていたとしても、今のぼくがそれを許しただろうか。違う、許せなかったからこそ、過去の「ぼく」たちは途中で力つきることをえらんだ。ぼくだけが、ほんとうにぼくだけがここにたどりつくことができた。たどりつくことが、できてしまった。
「わかるでしょう。ここから出る方法」
力つきる以外で、この世界から出る方法は、このはなしをこのかたちで終わらせることだ。ぼくはずっとわかっていた。わかっていたけれど、むしろわかっていたからこそ、今までたどりつくことができずにいた。
「もちろん」
ぼくは万年筆を取り出した。この世界において、ぼくは正確には「プレイヤー」ではないから、こうして万年筆で「書き足していく」ことができた。過去の「ぼく」たちもきっとそうしてきたはずだった。
ほんとうにそうだろうか。
万年筆をひっこめて、おもちゃの銃を取り出した。撃鉄を引いて、彼女に向ける。そうだ、ここは、書き足すべきではなかった。むしろぼくは「なぞる」べきだ。過去のぼくが、今、ここで彼女と対峙するために「たどりついた」ぼくに向けて贈られる、手紙のようなものだ。これはそういうものだ。
「変わらないのね」
「そうかな、ぼくはずいぶん変わったよ」
変わってしまったよ。
いまやほんとうのぼくはこれほど太っていないし、生きる欲にもみなぎってはいない。これからなにをして生きていこうと迷ってもいない。まして、作家になろうという夢も、芥川賞をとる幻想もすべて、捨ててしまったよ。捨てることで、生きてきたよ。捨てるものがなくなったときに、きっと死ぬのだとわかってしまったくらいには。
「いえ、あなたは変わらない。あなただけは、変わらなかった」
ああ、そうか。
「そういうこと、なのか」
「そう。ここにいるあなたは、そういうこと」
ぼくのことばを彼女がなぞる。彼女のことばをぼくがなぞる。
過去の「ぼく」たちは、この世界をあきらめてしまった。夜明け前にも似たこの景色を知っているからこそ、あきらめて逃げてしまった。
ぼくはそうではなかった。
ほんとうにこの世界を消してしまいたかったから。ほんとうにすべてを、終わらせてしまいたかったから。
ぼくだけが、いや、過去の、これを書いた「ぼく」は、つまり。
「この世界に憎しみを持っていた」
「忘れてしまっていたの、あなたは。なにもかもを」
「そうだったのか」
「そうだったのよ」
その鉤爪は得物の鎌を思い起こさせた。瞳は相変わらず、薄い紫色のまま。白銀の魔力はより強く彼女を支配している。
ぼくがしゃがみこむと同時に、頭上を爪が通過した。
「終わらせよう」
「ええ」
ぼくは思念する。全身を群青の魔力が包む。周囲の速度が明らかにゆるんだ。右手の銃が変化する。おもちゃのピストルから使い慣れた自動小銃に切り替えて、彼女に銃口を向ける。
小刻みな振動はぼくの魔力を経て高速化し、通常では考えられない弾数と速度で彼女を撃ち抜く。
この程度で終わるわけがない。ぼくはふたたび思念する。彼女の頭上に隕石を落とした。漆黒の鱗がいくつも剥がれ、何色かわからない体液が乱れ飛んだ。彼女に近寄り、擲弾機に変化した得物を向け、引き金を引いた。群青色の爆弾が数十発吐き出され、彼女を取り囲んで炸裂した。
気配が薄くなったので、ぼくは終わりがたしかになったことを悟った。
結局のところ、彼女はひとつも抵抗しなかった。そんなことすらできないくらいには、彼女は「弱くなって」しまったのだろう。
「ありがとう」
彼女はすでに竜のかたちをしていない。華奢で、小柄で、それでもなお凛とした雰囲気を持ち続ける少女。その面影だけがたしかにあった。
ぼくは彼女のなまえを叫んだ。たったひとり、叫ぶことのできる権利をもつ者として。
そうだ。
彼女は彼女である以前に、もうひとりの、ぜったいにたどりつくことのなかった「ぼく」でもあるのだ。
このとき、ぼくは明確に「ぼく」に恋をしていたといえるかもしれない。けれど考えてみればそれは当たり前で、ひとはみなそのひと自身をだれか別のひとに見いだして恋をしているのだ。だから「ぼく」を残し続けた彼女は明確に、ぼくにとって恋するものたりえた。そしてその恋も今、終わりを迎えようとしている。
彼女の身体は光に包まれていた。ぼくは万年筆を取り出して、切り割りを彼女にあわせた。うしろのつまみを回して、黒いインクは吸い込まれていく。「ぼく」が書けなかった「終わり」をいま、ぼくは書いている。彼女は「ぼく」であり、ぼくでもあった。ぼくと「ぼく」をずっとつないでくれていた。ここまで「ぼく」をなぞりながら、ぼくを導いてくれた。そして最後に、「ぼく」としてぼくに対峙した。
それは、ぼくがはなしを書くために必要な儀式だった。過去の「ぼく」たちはだから、彼女を失うためにここにたどりつくことができなかった。そうしてはなしを終わらせることができなかった。ぼくは違った。ぼくはすでに「ぼく」を失っていたからだ。だから彼女に導かれながら、新たな旅路をつくり、書き足し、そうしてここで終わらせることができた。都合のよく、潔癖で、なにもかもが考えすぎによってつくられた、「ぼく」らしく、ぼくらしい世界はこうして、ぼくの手でしっかりと葬られる。
彼女、そして「ぼく」はぼくに吸い込まれていく。こうしてすべてがぼくのもとに統一されていく。
光に包まれながら、消えつつあるこの世界をぼくは確かに忘れないでいようと思った。この世界を、ぼくの手でふたたび書くのだ。これは終わりでもあるし、だからつまり始まりでもある。
さあ、仕事だ。
目を覚ませ。
***
長い手紙だった。
それはぼくが隠し持っていたとてつもなく長い手紙だった。
引っ越しをするときに見つけた、押しいれの底に眠っていた膨大な紙の束だった。書いた覚えがなかったけれど、どこか懐かしく感じた。それは主人公がファンタジー世界に転生する、時代を感じさせるものだった。ぼくはヒロインの女のひとの名前にどこか見覚えがあった。
これを書き直したらどうなるだろうか。過去のぼくからの手紙を、ぼくは未来のぼくへのそれに書き換える。そうしていつかとぎれたときに、だれかへ届いて、そのだれかが別のだれかへと書き直していくだろう。
ぼくはおもむろに立ち上がった。
いつもより少しだけ明るい朝だった。
サークル情報
サークル名:日本ごうがふかいな協会
執筆者名:ひざのうらはやお
URL(Twitter):@hizanourahayao
一言アピール
あのひざのうらはやおが数年ぶりに復活!!!新刊「震える真珠」をひっさげて帰ってきた!!!!
トリックがややこしくなかなか謎めいていて面白いと思いましたが、異世界への手紙ということなのでしょうか? 少なくとも、手紙の内容としては、彼女というものに対し心理学的解釈がしてあって、そこはあまり斬新なものは感じられませんでした。書き手のヒロインへの想いが書いてあるような気がして、僕の場合も同じかなあ、などと、身につまされたりするのは、面白かったです。勘違いかもしれませんが、小説世界から現実への手紙なのであれば、現実も何かの小説なのかと、思わせるようなオチなのか、とも思いました。