兄へ

 昼はまだまだ暑いですが、朝晩と過ごしやすい日が増えてきました。△△様、お元気にされていますか。
 貴方が家を出てもうそろそろ五年になりますから、ふと思い立ってこうして筆をとっています。
 私の方では夏休みが終わって少し経ち、大量の宿題を何とか終えて、今は新学期の授業についていくのに必死です。
 小学生の時分も、くり上がりのあるたし算であるとか、九九であるとか、ひっかかりそうなところではよく詰まって、ずいぶん助けていただきました。
 今でも理解のおぼつかないところがあるたび、こんな時に兄さんがいてくれたら、と思ってしまいます。昔と違って先生に質問したり、友達を頼ったりが上手くなったので、何とかやっていけています。
 そちらは、どんなご様子でしょうか。季節の変わり目ですから、体調を崩したりしないようにお祈り申し上げています。
 便りがないのはいい証拠、と言いますが、たまにはお返事を下さると嬉しいです。そして、もし気が向いたらでいいので、どうか帰ってきてください。うかうかしていると、私も貴方の顔を忘れてしまいそ

◆ ◇ ◆

 インクがかすれて文字が途切れたので、手を止めた。ため息をついて、ペンを放る。
 私は兄への手紙を大学ノートに書く。
 今時、時候の挨拶を調べて形式ばって書くこともあれば、思いつくままにざっくばらんに書き散らすこともある。
 下書きではない。ちゃんとした便箋に書かないのは、部屋で手紙を書いているところを見られたら親に眉を顰められるからだ。
 それはもちろん、手紙の書き方本を広げていても同じことであるだろうから、今がスマホでなんでも調べられる便利な世の中でよかったと思う。
 ……それは、親の目を盗みやすい、という点において。あるいは、もしかしたら私が兄への手紙を書き続けていることに気が付いているかもしれないけれど、できればこれ見よがしにやらないでほしいという二人のせめてもの願いに応えられる、という点において。
 兄が姿を消してから、五年が経つ。
 七つ年上の兄だから、今生きていたら二十を過ぎているはずだ。
 その行方は杳として知れない。なので、手紙を書いたところで出すあてはない。
 兄への手紙を書き始めた頃、私はまだ小学生で、宛先のない手紙をポストに投函し、家に戻ってきてひどく叱られたものだった。配達員を無駄に働かせることはないとか、そういう叱られ方だ。
 もちろん、それ以上に何度も、口を酸っぱくして言い聞かされたことはある。つまり、あなたにお兄さんなんていないでしょう、と。
 文字通りの意味で、私に兄はいない。
 いなかったことになっている、ではなくて、本当にいない。
 思い出はある。
 ふたりとも仕事で家を空けがちだったから、昔から私の面倒を見るのは兄の役目だった。勉強だって見てもらえなかったので、兄を質問責めにしていた。私が構ってとせがめば、自分の勉強を一時中断したって一緒に遊んでくれた。
 ちょっと気弱で押しに弱くて、けれど優しい私の兄さん。
 そのひとがいなくなったのは、五年前、私が十歳の時だった。
 必要がなくなったのか、それとも決定的な破綻だったのかは分からない。
 兄が帰ってこないと言った時の、母の驚きと恐怖の貼りついた顔をよく覚えている。
 子供が想像上の友人を作り出すのは、そんなにおかしなことではないらしい。
 同年代の〈ともだち〉ではなく、兄を作り出すというのはあまり聞かないけれど、テレビか何かでたまたま見ただれかを兄にして遊び相手にしていたのだろう、と言われた。
 そんなはずはない。みんな嘘をついている。兄はどこかに行ってしまった。
 だが、私の家には私の部屋はあっても兄の部屋はなく、写真や服や靴や日記や、彼がいた形跡も見当たらず、私から兄の話を聞いた友人はいても、会ったことのある人は一人もいなかった。
 私がどこにも届かない手紙を書くようになったのは、そういう経緯だ。
 特に母とは何度も喧嘩をした。医者にも何度も連れていかれた。
 今では結局、あの兄はどこにもいなかった、私の頭の中にしか存在しなかったのだ、と私も結論付けている。
 この手紙も、いつかやめようと思いながら、ここまで続けてしまっていた。決意をしてからしばらくすると、ふと引き出しからノートを取り出してしまう。
 私は書きかけの文面を見下ろした。
 ──けれど、ここで放り投げれば、もう書かないような気がする。
 引き出しを開ける。学習机の一番上の引き出しには、何冊かノートが積まれている。
 その上に閉じたノートを積んで、私は引き出しを閉じた。これで終わりにしよう、と頭の中で唱えて。

◆ ◇ ◆

 だから、頭がおかしくなったと思った。
 夏休みが終わって少ししてから、クラスに転校生が来た。
 高校生で転校生は珍しいけれど、その転校生がいなくなった存在しない兄に見える生徒よりはずっとありふれているはずだ。
 兄さんだった。間違いなかった。そんなわけはなかった。
 五年前にいなくなった時のまま、高校生の時の姿のままだった。歳の割には小柄な背丈も、癖のついた茶髪も、意志の強そうな眉のかたちも。
 ばかばかしい。
 全部、子供の想像で組み立てられた偽物の記憶だ。最近、顔をよく思い出せなくなっていた。
 たまたま想像の中の兄に似ていたのか、それともほかの理由か、分からないけれど、そのひとは兄さんだった。
 記憶が偽物であったとあとで気がついても、本物の記憶と区別をつけるのは難しいという。
 であれば、私は永遠にクラスメートの男子を兄だと認識したままなのだろうか?
 本当はそんなわけはないと分かっているのに。
 早退して、家に逃げるように帰った。引き出しを開くと、ノートが積まれている。届くはずがない手紙を書いたノート。
 頭がおかしくなりそうだ。もうおかしくなってしまった。
 母に連絡を入れて、早く帰って来てもらわなければ。
 その前に、この手紙のできそこないたちをこの世から消してしまいたい。
 できることなら、燃やしてしまいたい。
 何をするかも決めず、ノートを抱えて一階に降りたところで、ちょうど呼び鈴が鳴った。
 インターフォンを押すと、そこに兄が立っていて。
 いや、兄ではない。
「どうして?」
 私の声は引き攣って、かすれていた。
 転校生は目を泳がせたあと、カメラを見上げる。ひどく懐かしい心地がする。そんなわけはない。吐き気がする。
《突然すいません。変なことを聞くんですが》
 インターフォン越しの、劣化した声。
《お兄さんが、こちらに来ていませんか?》
 何を、
 言っているのか。
 分からない。
 ──ガラスの割れる音がした。

◇ ◆ ◇

 リビングは惨憺たる有様だった。
 庭に面した大きな窓ガラスが割られ、血と肉片が散り、テレビやソファはひっくり返されている。
《ぎりぎりだったな》
 イヤホンから聞こえてきた相棒の声に、晋は生返事で答えた。血で汚れたノートを閉じて、改めてぐるりを見回す。
 庭では少年が死んでいて、廊下には少女が倒れていた。
 少女は眠っているだけだ。床にはほかにも、何冊かノートが散らばっている。
《妹を狙いに現れるとはなあ。見つけられてよかったけどさ》
「……うん」
《何のノートだ、それ》
「手紙が書いてある。いなくなったお兄さんへの手紙だ」
《は?》
 相棒の胡乱な声を聞きながら、晋はノートを閉じた。あまり、自分が読んでいいものではなかった。
《処理、上手くいってなかったのか》
「たまに効きが悪い人間がいるって話は聞いたことがある。
 で、どうも、俺のことを兄だと思い込んでいたらしい」
《混乱して?……ああ、五年前にも見られちまったもんな。
 でも、何でまた》
 晋は嘆息して、ノートを拾い集める。
 庭で死んでいる少年こそが、少女の兄だった。
 この街において、鬼への〈転化〉は珍しくない。理由もなく、唐突に起こる。突然、見知った人が人を食う化け物になる。
 五年前、自宅で少年は鬼となった。一緒に留守番していた妹を食おうとして、晋たちに阻止されたが逃げおおせ、その後の行方が分からなくなっていたのだ。
「優しいお兄さんだったみたいだ」
《だから?》
「優しい兄が自分を襲うはずないだろ。
 襲ってきたやつは化け物で、助けてくれた方が兄だ」
 沈黙があった。
 ノートを残さず拾うと、晋は庭の死体を見やった。
 五年前と変わらないその少年の胸には、葦の矢が刺さっている。
 彼が本当に妹を食いに戻ってきたのか、ふと疑問が沸いたが、過ぎた話だ。

◇ ◇ ◇

 目を覚ますと、家は大騒ぎだった。
 家の窓が割られて、恐らく盗みに入られたのだという。
 私は二階で何も気が付かずに眠っており、リビングは目を覆うような有様になっていた。
 鉢合わせにならずによかった、と警察の人にも親にも言われたが、私は寝起きでぼうっとして、あまり真剣には話を聞けていなかった。
 ただ、夢の中でガラスの割れる音は聞いた気がするから、確かに危なかったのかもしれない。
 聴取もそこそこに、私は部屋に返された。まだ頭が重く、体がだるい感じがあった。ちゃんと寝巻に着替えて、もうひと眠りするべきだろう。
 ドアを閉じて、自分の部屋を見回す。夢の中に、この部屋が出てきたような気がするが、思い出せない。
 ただ、机になぜか目が留まって。
 私は気になるまま、一番上の引き出しを開けた。
「……あれ」
 どうして、私はここを空にしているんだっけ。
 何も入っていない引き出しを見つめてしばらく考えたけれど、答えは出てこなかった。

サークル情報

サークル名:イヌノフグリ
執筆者名:ω
URL(Twitter):@UselessArts

一言アピール
若い男を苦しめるサークルですが、たまには若い女の子も苦悩させます

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兄へ” に対して1件のコメントがあります。

  1. ぶれこみ より:

     前半部、とても引き込まれました。精神病の幻覚の兄とか、届かない手紙の投函とか、映画のビューティフルマインドとかイルマーレを彷彿とさせて、興味をそそりました。なので、後半部で鬼が出てきて、少女が記憶を消されてまた日常にもどるという、妖怪ネタにオチをつけているのが、少しもったいなかった気がします。もう少し本当にあるのではないかと思わせるリアリズムが欲しかったです。

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