ダイレクトメールをまとめて燃えるゴミに出す

 野村秋子のむらときことは、先日まで同棲していた女性の名前だった。
 大学時代から六年間。長く連れ添っていた。別れるときにはお互いに泣きも騒ぎもしなかった。合鍵を僕に渡した彼女が玄関のドアノブを捻り外に出るまで、よく晴れた一日の終わりにベランダから取り込むタオルたちのように僕らは微笑み合っていた。笑う理由がなくなっても、僕の頬の形はしばらく変わらなかった。

 スプリングセール、四月十五日までのご購入でスラックス二本組が税抜五千円。アパートの入口にある郵便箱に届いたダイレクトメールにて、就活生代表という体で若い男女が白い歯を見せていた。宛名は野村秋子とある。住所と部屋番号は一週間前まで彼女が暮らしていた僕の部屋を示している。連絡をし、要らないと言われれば早々に捨てる。処分の段取りは思い浮かぶけれど、実行する気になれなかった置く位置を整えると、ダイレクトメールは郵便箱の底面の幅とピタリと重なった。その調和に満足した僕は、アルミ製の蓋のつまみに指をかけた。蓋は体調の悪そうな音を立てながら鉄枠にぶつかり、僕と秋子の名前を表に提げたまま静かになった。
 僕は表札から秋子の名前を消さなかった。そのため様々な種類のダイレクトメールが郵便箱に入れられた。クリーニング店のクーポン券や映画の割引鑑賞チケットなど、僕にも活用できてしまいそうなものがあっても手はつけなかった。それは秋子のものだ。彼女に届く可能性がほぼないにしても、僕にそれを消費する権限はない。郵便箱には僕あての郵便物や水道などの検針票も入れられるので、秋子のダイレクトメールに埋もれないように、毎朝毎夕のチェックが欠かせなかった。
 七月末締め切りのクーポン券が中途半端な大きさの紙切れに変わった朝、あまりの暑さにいつもより二時間も早く目が覚めた。窓の外では東から降りかかる日の光に夜が追い散らされている最中だった。バイクの音を聞いた。僕は地域新聞を一紙だけ取っている。入口に顔を出すと、白ヘルメットを被った浅黒い肌のお爺さんが、ちょうど僕の郵便箱を開けて顔をしかめていた。
「もう片付けなよ、お兄ちゃん」
 薄いビニールに覆われた新聞が僕の手に渡る。すいません。謝罪の声はバイクのエンジン音にかき消された。黒い排気ガスの匂いは強烈に鼻腔を刺激し、急き立てられた僕は新聞箱の底を埋め尽くしていたダイレクトメールを全て取り出した。

 次の休日、僕は朝から耳をそば立てていた。出かけることをなぜか泣き叫んで拒んでいる子どもや、小走りに出て行った数分後に息も絶え絶えに帰ってくる隣人の様子が音を通じて伝わってきて、古いだけだと思っていたこのアパートもなかなか賑やかだとわかり、思いの外楽しかった。
 地域一帯に鳴り響くお昼の放送が終わった頃、バイクのエンジン音を聞いた。赤い車体を窓の外に見て急いで外に出た。水色の制服の新聞配達員がバイクから降りたところだった。
「どうされました?」
 入口のガラス戸を開くとすぐに郵便配達員は威勢のいい声を掛けてくれた。細い目の中で深い黒の瞳が光る好青年だった。
「今日の僕の配達物はわかりますか」
 部屋番号を伝えると、郵便配達員はバイクの後ろに取り付けられた赤い箱の扉を開いた。茶色の布が籠のように広がると、郵便配達員は中からすぐに手紙を取り出した。野村秋子の名前があった。あまりにすぐに出てきたので、却って僕の方がしばらく口をつぐんでしまった。出てこなかったら後ろ手に隠したショッピングモールのダイレクトメールを見せようと思っていた。
「野村秋子さんはもう部屋にいません。今後秋子さんあての手紙があったら、僕の郵便箱に届けるのをやめていただけませんか」
 噛まずに一息に言った。郵便配達員は目を見張り、それから悲しげな顔で首を横に振った。
「残念ながら、私の独断で配達をやめるわけにはいきません。宛先に必ず届けることが第一ですので」
「でも、宛先にいないのに?」
「ですから」郵便配達員は一際声を大きくした。「私の独断で取りやめることはできません。住所と宛名はまず信じないとどうにもなりません。もしもその人が本当にいないのであれば、転居届を提出させるか、ダイレクトメールの送信もとに連絡して発送を取り止めてください。いずれにしろご本人からの手続きが必要かと思いますが」
 好青年という当初の印象が、事務的な言葉遣いによって急速に冷やされていった。郵便配達員は終始笑顔だった。笑顔であるうちに僕が黙ることを望んでいるようだった。
「家を出て行った人にお願いなんてできるわけがないでしょう?」
「では、郵便箱から野村秋子さんの名前を消してください。私どもは郵便物に書かれた名前と表札とを照合して投函します。名前が合わなければ、もうダイレクトメールが届くことはありません」
「そんなことはわかっています」
 今度は私の方が声を大きくした。郵便配達員のように落ち着いた口調はできない。荒っぽい声をうねらせて、郵便配達員に詰め寄った。
「表札は残しておきたいんです。もしかしたら戻ってくるかもしれないじゃないですか。行くあてがなくなって、僕を訪ねてきたときに、自分の名前が消されてしまっていたら、かわいそうだと思いませんか。お願いします。ダイレクトメールをやめることだけでいいんです。どうにかなりませんか」
「そんなのは、私が職務規則を破る理由にはなりませんよ」
 郵便配達員は明らかに軽蔑して僕を睨み、僕の郵便箱にダイレクトメールを入れた。他の箱にも次々と入れられていく。あまりの手際の良さに、僕は呆然とその動きを見つめていた。郵便物はサイズも厚みも様々なのに、吸い寄せられるように運ばれて、迷うことなく目的の箱に入れられる。作業が終わると、郵便配達員はヘルメットの留め具をいじりながら僕を見て顔をしかめた。
「失礼ですが、野村さんの現住所はわからないんですね?」
「ええ、はい」
「では、ご実家の住所はご存知ですか?」
「それは、何度か訪ねたことがありましたので」
 海の見える坂の街。そこが秋子の育った街だ。郵便配達員に聞かれながら、その街なみを頭の片隅で想起していた。まだ大学生の頃に訪ねたときは、途切れることなく波を打ちつけてくる海に興味が惹かれ、何度目かの折には古風な家並が目を引いた。
「ご実家に送れば、ご家族の方が手に取るでしょう。秋子さんが転居届を出されていれば、現住所に届きます。連絡は取れますよ。郵便配達員はおおむね優秀ですから」
「しかし」
 半ば頭が真っ白のまま言い返そうとして、郵便配達員の払い除けるような仕草に退いた。
「ここでダイレクトメールをいくら見ていても、野村さんと連絡が取れる可能性はありませんよ。いつ彼女が気づいてメールの配信を止めてしまうかもわかりません。どんなことでもそうですけど、待ちの姿勢なんて良くありませんよ。自分から動くべきです。少しでも可能性があることに自主的に挑戦した方が、諦めがつくというものです。私からのアドバイスですよ」
 郵便配達員はバイクのエンジンを掛けた。赤い車体が生き物のように震え出す。ハンドルを郵便配達員が握り、僕に向かって黙礼した。僕も真似をした。郵便配達員は久しぶりに笑顔を見せた。
「規則は破れませんが、あなたのことは応援します。さようなら。封筒で郵送の際は切手を忘れないように」
 エンジン音を響かせて、郵便配達員は遠のいていった。背筋はピンと垂直に伸びている。曲がり角で見えなくなるまで、僕はその背中を見つめていた。郵便箱からダイレクトメールを取り出すと、指先に力が入りすぎたらしく、折り目がつくほど曲がってしまった。

 次の日、僕はまた普段より二時間早く目が覚めた。数週間しか経っていないのに、太陽の昇る時刻はさらに早くなっていて、起きてすぐに見た外の景色は朝としか言いようのない光に溢れていた。湿気が肌にまとわりつく。薄曇りではあったけれど、おそらく、梅雨が始まろうとしている。
 アパートから歩いて五百メートルの丁字路の郵便ポストに、僕は封筒をひとつ入れた。蓋は音を立てて閉まり、見えない箱の中から紙同士の重なり合う音が聞こえた。ポストに掲げられたスケジュールを信じれば、朝の十時には集荷されることになっていた。
 真新しいクリーム色の封筒。その中身は、便箋ではなく、表札だ。野村秋子という名前だけを切り取って入れてある。それ以外に何の説明も入れていない。転送されて秋子自身の手に渡っても、捨てられるだけのような気がする。それならそれで良いと思った。
 頬に当たるしずくを感じた。晴れ間は見えるけれど、アスファルトはところどころ染みて、黒いドット模様が現れる。もしも外にタオルを干していたら、急いで取り込まないといけないだろう。濡れそぼったタオルほどかわいそうなものはない。
 部屋に戻り、机の上に束ねたまま放置していたダイレクトメールを手にとった。開かれないまま、少しふやけた封筒や葉書をゴミ袋の上に持ち、ハサミを構えた。捨てるだけならそのまま放り込むだけでいい。しかし、今は切り刻むことが重要だった。就活生もクリーニング店も映画館も裁断され、地域指定の半透明のゴミ袋に落ちていく。色も厚さもバラバラな紙吹雪はやがて全て袋におさまる。まだ朝の時間帯ではあるけれど、長い時間がかかった気がした。大きな溜息に当てられて、色とりどりの紙片が袋の中で踊った。

 さようなら、どうかお元気で。

 燃えるゴミは、出し忘れさえしなければ、明日の朝八時に回収される予定である。

サークル情報

サークル名:鳴草庵
執筆者名:雲鳴遊乃実
URL(Twitter):@teacupboy1

一言アピール
青から最も遠い、成長の物語ーー新刊『死にたがりの修羅』準新刊『時をかける俺以外』他既刊、よろしくお願いします!

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