クラリッサの部屋
「おや、これは壮観だね」
病室に一歩足を踏み入れたアニタ・シェイクスピアは目を見張って声を上げる。
白を基調とした部屋の壁には、何枚もの絵が貼り付けられていて、その色鮮やかさに圧倒されたのだった。
「博士。お久しぶりです」
ベッドに腰掛けていた少女が顔を持ち上げて、微笑む。アニタは黄ばんだ歯をむき出しにして、にぃと笑ってみせる。
「やあクラリッサ。具合はどうかな?」
「今日は随分気分がいいんですよ」
そう言う少女――クラリッサではあったが、言葉とは裏腹にその痩せた頬には血の気が感じられず、決して健康とは言いがたいことを告げている。それも承知の上で、アニタは「それはよかった」と笑みを浮かべてみせるのだ。
「それにしても、この絵はどうしたんだい?」
以前アニタがこの部屋を訪れた時には、本当にこの少女だけが色を持って存在しているかのような、クラリッサにとって必要最低限のものだけが備えられた、いたって殺風景な部屋だったはずだ。
アニタは、扉の近くに貼られた絵を観察する。墨と水彩で描かれたそれは霧の海を飛ぶ船の絵だ。ぴんと伸びた羽と巡るプロペラが霧を裂くその空気感までもが、生き生きとした、そして何よりも精緻な筆致で描かれている。
クラリッサはほんの少しだけ頬を赤く染めて、それから、か細い声で言ったのだ。
「オズが。……送ってくれた絵です」
「ああ、なるほど」
オズ。その名前はアニタもよく知っている。
オズワルド・フォーサイス。
アニタが研究員として属している女王国海軍の軍人であり、そして、これはクラリッサには言っていないが、軍の特殊部隊員『霧航士』だ。アニタにとっては、アニタたちが作り上げた最高傑作――高速機動兵器『翅翼艇』の乗り手の一人であり、つまり相当に縁深い存在である。
とはいえ、それはクラリッサには関係の無い話。
クラリッサにとって、オズワルド・フォーサイスとはアニタの知り合いの軍人であり、クラリッサの主治医であるフォーサイス医師の息子であり。
――そして、今の彼女にとって「いちばん大事なひと」である。それだけだ。
アニタは貼られた絵を一枚一枚確かめながら、口元に苦笑を浮かべる。
「とんと不器用なのに、絵だけは本職顔負けの腕なんだから面白いよね」
「不器用……、なのですか?」
「そうだよ。今度聞いてみるといい。きっと、色々と面白い逸話を聞かせてくれるよ」
クラリッサは心底意外そうな顔をしながら、こくこくと頷く。素直なことはよいことだ、とアニタは思う。本当に、普段相手にしている連中は素直じゃないにもほどがあるから。
「しかし、本当に色々な絵があるね」
「オズが見ている景色を教えて欲しい、って伝えたら、オズが送ってくれたのです。これなんか特にお気に入りです」
クラリッサは横に置かれた机の上から、一枚の紙を取ってアニタに見せる。そこに描かれていたのは、四人の青年だ。
一人は剃髪の青年。鋭い目つきをしているが、その表情はいたって穏やかで、他の三人を見守っているようにも見える。
一人は少女のようにも見える美少年だが、アニタは彼が周りと同じ青年であることを知っている。
一人はいやに背の高い青年。他と同じように描かれているはずなのに妙に霞んだ印象を抱かせる。
そして、一番手前に描かれている青年は溌剌とした印象で、子供のように無邪気な笑みを浮かべている。
アニタにとっては見慣れた光景だ。そこにいるべき「もう一人」がいないのは、あくまでこの絵がその人物の主観によって描かれているからなのだろう。
「オズの友人たちだと手紙にはありました。アニタはご存知ですか?」
「うん、よく知っているよ」
彼らもまた、オズと同じ『霧航士』だ。オズはもちろん、そうは言わなかっただろうけれど。
「剃髪の彼はユージーン。彼らのリーダーだ。背の低い、綺麗な顔の彼がアーサー。背の高い彼がトレヴァー。そして、手前の彼がゲイル。オズの相棒だ」
「相棒、ですか?」
「そう。オズの幼馴染で、軍に入ってからもずっと一緒にいる。お互いに、なくてはならない存在、ってやつだ」
特に、霧航士としてのオズには、ゲイルの存在が必要不可欠なのだが、オズは果たしてどれだけのことをクラリッサに語っているのだろうか。もしかすると、あの口下手な男のことだから、ほとんど語っていないのかもしれない。
その証拠に、クラリッサは少しだけ頬を膨らませて、
「少し、羨ましいです」
そんなことを言ってみせるのだから。
「わたしも……、そんな風になれたらいいのに」
もちろん、それが叶わぬ願いだということは、クラリッサが一番よくわかっているに違いない。それ以上のことは言葉にせず、ただ、唇を噛むだけだったから。
アニタはそんなクラリッサの頭をぽんぽんと軽く叩く。
「何、オズにとっては君ももちろん特別だよ。この絵を見ていればわかるってものさ」
手紙という形で送られた絵は、本当に些細な風景であろうとも一枚一枚丁寧に描き出している。その筆致は、オズという人物の性質をよくよく表しているとも言える。
「オズはとんでもなく不器用だけど、その分行動で示す人物だからね」
「行動で……」
クラリッサの青い目が、部屋中に貼り巡らされた絵に向けられる。
「オズは……、迷惑だって、思ってないんでしょうか」
その問いかけには、アニタが答えるまでもない。
迷惑だなんて思っていないから、こうして、日々絵が増えていく。この病室から出ることすらままならないクラリッサの世界を、オズの目を通した世界を通じて少しずつ広げてみせるのだ。
クラリッサは、オズの友達の絵を握り締めて、笑みを見せる。羨ましい、という気持ちは変わらなくとも、オズから向けられている感情が決して空虚なものでないという確信が、クラリッサの中にも生まれたのだろう。
「それなら。……それなら、嬉しいです」
いいことだ、とアニタは思う。クラリッサが孤独でないと感じられるのは、いいことだ。それが……、ほんのひと時のことであっても。
「今は、少し大きな絵を描いているのだと、手紙にありました。それが出来上がったら、持ってきてくれると」
「ほう。何の絵だい?」
クラリッサは、窓の外に視線をやる。窓の外にはいつもと変わらぬ白い魄霧が立ち込めている。けれど、クラリッサの目はそこでない、はるか遠くを見ている――それが、アニタにもはっきりとわかった。
「空の絵だと、聞いています。……青い、空の絵」
「青い、空」
空。それは頭上を指す言葉であり、はるか高みの霧の天蓋を指す言葉であり、つまり魄霧の色をしているはずで。青、などという色をしていることはあり得ないのだ。けれど、クラリッサは頬を紅潮させて、秘密を打ち明けるように言うのだ。
「オズが教えてくれたのです。この世のどこかには、きっと、青い空が見える場所があるって。オズは、戦争が終わったらそれを探しに行くのだって」
「オズの夢だね」
夢。それは眠っている間に見るもの、という意味と、いつか実現させたい願望という二つの意味を持つが、この場合はどちらをも意味しうるとアニタは思っている。
「オズは昔っからそうなんだ。眠っている間に空の夢を見るという。誰も知らない、青い空の夢。……それがどこかにあるのだと、本気で思ってる」
本当に、途方も無い話だとアニタも思っている。眠っている間の、何も確かではない妄想に踊らされている馬鹿だと一笑に付す者も多いし、オズ自身もほとんど笑い話のように語る、けれど――その目はどこまでも遠くを見ている。窓の外を見据えるクラリッサと、全く同じ目をしている。
「博士は、あると思いますか。青い空」
「見たことないものを『ある』とはいえないけど、『無い』とも言いたくないね」
「わたしは……、あればいいなって思います。オズが、目指している場所が、見つけられればいいなって。それから」
――わたしも、同じものが見られれば、いいな。
ぽつりと、付け加えられた言葉を、アニタは無言で飲み込む。
クラリッサはしばらく窓の外を見たまま黙り込んだ。果たしてその青い瞳に不可視の空の色は映っているだろうか。そんなことを考えていると、再びクラリッサが唇を開く。
「それで……、博士は、今日は何の御用ですか?」
「何、君の様子を見に来たのと……、あとは、念のため確認をね」
「確認?」
「君の気持ちが変わっていないかどうか、さ」
アニタの言葉に、クラリッサはアニタの方に視線を戻す。そして、にこりと笑ってみせるのだ。
「大丈夫です、博士。わたしの気持ちは、変わりません」
クラリッサの表情は、いたって穏やかで。
「わたしが死んだら、わたしの体も魂魄も、全部博士にあげます。どうか、どうか、役立ててください、博士の研究に」
その言葉も、どこまでも、どこまでも、静かだった。
「そっか。ありがとう、クラリッサ」
クラリッサは「いいえ」と首を横に振る。そして、弱々しく感じられる面の中で、唯一強い光を宿した瞳でアニタを見据えるのだ。
「一刻も早く戦争が終わって。それで、オズの夢が叶うなら。……わたしの一かけらでも、その力になれるなら、嬉しいですから」
クラリッサの視線と言葉とを受け止めて、アニタは笑う。胸を張って笑ってみせる。それが、このちいさな少女に応える唯一の方法であったから。
「任せなさい。私は天才なのだよ、クラリッサ」
サークル情報
サークル名:シアワセモノマニア
執筆者名:青波零也
URL(Twitter):@aonami
一言アピール
「幸せな人による、幸せな人のための、幸せな物語」をモットーに、ライトでゆるふわな物語を綴る空想娯楽屋。霧深き世界に生きて逝く人々のSF風ファンタジー『霧世界報告』シリーズを中心に取り扱っています。こちらは『霧世界報告』シリーズの短編になります。
魄霧に覆われた真っ白な空、それを常とする世界のどこかにあるかもしれない「青い空」を目指す青年と、その夢を共に追いたいと願う病弱な少女の優しいお話。
白かった病室が絵という手紙によって彩られていったのだろうと思うと、とても優しく温かい気持ちになりました。
やっぱり名前しか出てこなかったけど、推しの名前はケンコウニイイナアアアアアアア!!!!!!!