ことの葉
「終わったみたいだね」
風に乗って聞こえてくる話し声に、春光は立ち上がって尻をはたいた。隣に座っていた少年もぴょんと立ち上がり、緑色のポンチョをひるがえしながら飛びあがると、楠の枝にストンと腰をかけた。新緑の香りが辺り一帯を覆う。
私立桧律高等学院の卒業式。春光は壇上に飾る生花と離任する教員に渡す花束の納品及び、役割を終えた花の回収をするために訪れていた。式自体は二時間弱と聞いていたので、ここから徒歩で二十分もかからない店に一度戻ることも出来るが、また来るのも面倒なこともあり、こうして北校舎の裏手にある文化部室になっているプレハブ棟の奥で時間を潰していた。ここには学校のシンボルである桧と対のように楠がそびえ立っている。半年前まで治療をしていた桧は最後に見た時と状態は変わらず、元気そうだった。楠は相変わらず暇そうにしていた。
だからこそ、ここで待つことにしたんだけど。
上空で足をプラプラさせている少年は楠の化身だ。今日、春光が訪れた時、満面の笑みで白髪を揺らして枝から飛び降りてきた。
「久しぶりぃぃ!」
彼は言ってみれば精霊のような存在なので、誰にでも見えるわけではない。というよりは、見えるものはほとんどいないと言ってもいい。彼を認識できる人間は、物心つく頃から樹々の声が聞こえ、その力が活かせる樹木医になった自分を除くと、知りうる限り一人しかいない。少年に「ショウ」と名を付け、笑ったり泣いたり喧嘩したりしていた一人。でも、その一人は今日、ここから巣立っていく。
「もう僕が見えないけど、会えなくもなるけど、いいんだ。僕の応援がなくったって、ちゃんと一歩踏み出せるんだから。だからいいんだ、これで」
遠くを見つめて目尻に雫を溜めて微かに笑う様は、見ていて切なくなる。どうにかしてあげたいとも思う。思うけれど、自分に出来ることは何もない。友人はもう、ショウの姿も声も聞こえない。
「最後に会わなくていいの?」
式が行われていた体育館は静まり返り、代わりに校舎が賑やかな声で包まれている。在校生も教室に戻ったようだから、卒業生はもう数分もすればここを出ていくだろう。卒業証書を片手に、学び舎を後にしたら、もう会うことは叶わない。
「いい」
少年はきっぱりと否定して、口を真一文字に結んだ。とてもいいとは思えないが、これ以上何を言っても無駄だろう。春光は黙ったまま、外していた店のエプロンに手をかけた。
砂利を踏みしめる音が聞こえた。
「うそ」
おもわず声が漏れた。スクールバックを肩にかけた少年がこちらに真っ直ぐ歩いてきていた。胸には赤のカーネーション、片手には黒の筒、見知った顔。
「七尾くん!」
ここは校内の一番奥で、プレハブ棟の他には購買部と学食しかない。卒業式が行われる今日は当然部活は行われないし、購買部も学食も開いていない。卒業生どころか在校生にも用のない場所なのに、わざわざ七尾はここまでやってきた。
「あ、あれ、ハル、アキ兄、さん?」
呼ばれた少年は弾かれたようにこちらに向かって駆けてきた。
「どうしてここに?」
思いも寄らない存在に七尾が息を切らして問いかける。春光はエプロンをつまんで見せた。
「え、あ、もしかして体育館にあった花って立花生花店の?」
「お得意先だからね、ここで必要な花はうちが全部手配してるんだよ。ユキから聞いたことない?」
「そんなこと一言も……そうか、だから樹木医の方でここに」
七尾は桧に目を向けた。根元に大きく口を開けた樹洞は、以前とは異なり防腐剤入りの樹脂で覆われている。春光の、樹木医が診療した証だ。
「七尾くんこそどうして? それとユキは?」
心当たりはあるが、あえて尋ねた。彼は春光がショウが見えることを知らない。
「立花は生徒会に顔を出した後、職員室で上田先生に捕まって、だから」
七尾はそこまで言うときまり悪そうな顔をして、口をつぐんだ。
七尾と弟の雪嗣はクラスメイトであり、友人でもある。どこか行く時もよくつるんでいたし、何なら家に遊びに来るような間柄だった。しかし、春からは少し立場が変わる。七尾は大学生に、弟は残念ながら浪人生になる。担任に捕まっているのもそのせいだろうが、友人を、弟を置いてきたことを兄に言うのはとてもきまずいのだろう。でも、きまずさはそれだけじゃないのもよく分かる。ここに来た理由は言いづらい。
春光は上空を見上げた。ショウは相変わらず枝に腰を掛け足をプラプラさせていたが、春光と目が合うと人差し指を立てて口元に当てた。キュッと胸が詰まる。
それでいいの? このまま別れて後悔しない?
大人として、見える者として。二人の少年の交差する想いに言葉が出てこない。だけど、それでも。彼らが口にしないのなら、やはり自分がきっかけを作るべきなのかもしれない。春光はグッと腹に力を入れて口を開いた。
「あの!」
先に声を出したのは七尾だった。
「これ、預かってもらえませんか」
張りつめた顔をした七尾は、筒から一枚の用紙を取り出した。促されるままに受け取ると、それはスケッチだった。青々と茂った樹が描かれている、一枚のスケッチ。
「これ、は」
一見、ただの大樹。だけど、特別な意味を持っているのが分かった。その木の枝には、小さく小さく、笑顔で座っている人物がいる。その下には見上げている人物が一人。今まさに、同じ状態の二人。
「お兄さんは定期的に学校に来る機会があるんですよね。だから、思い出した時でも良いので……これを広げて欲しいんです。その、この場所で。楠の前で」
「七尾くん」
「俺、この楠に世話になったんです。恩があるんです。大学のこととか将来のこととか色々聞いてもらってて、そしたらどこにでも行けるから迷うんだよって、だけど迷った分だけ強くなれるんだよ、って言われて……言われた気がして」
七尾は項垂れるように顔を下に向けた。
「だから、その罪滅ぼしというか……なんでこんな無神経な言葉を口してたんだろう、この楠に対して……どこにも行けないショウの前で、なんで……なのに笑いながら背中押されて……」
ザザザァーと風が吹いて、樹々が揺れた。ほんのわずかに震えている肩をポンと叩くと、七尾が顔を上げた。情けない笑顔を浮かべていた。
「分かってます、変なこと口走ってるって……笑われてもしかたないんだけど、でも聞いて欲しかったんです。知って欲しかったんです。ここにはショウっていう男の子が確かにいるって……見えていたんです。声も聞こえてたんです」
春光は柔らかく目を細めた。
「笑わないよ」
こんな真っ直ぐに受けて入れて、肯定するなんて自分には出来ない。出来なかった。少なくとも高校生の時は、まだ。自分に彼を笑う資格なんてない。今も少年が見えている自分は笑えない。
「七尾くんが変なら僕はどうなっちゃうの? 人じゃなくて木を相手にしてる樹木医みんな変な人になっちゃうよ」
子どものような瞳で瞬きもせず見つめる七尾に、春光はニコリと笑顔を浮かべた。そして、手にしていたスケッチを上方に掲げた。
「ほら、よく見て! わかるでしょ、この意味が。これで良いんだね? 本当に僕が預かってて良いんだね、ショウくん!」
「ハルアキ兄さん?」
七尾の戸惑うような声が聞こえたが、春光は気にせず続けた。今言わないでどうする。背中を押さないでどうする。
「七尾くんの選別の言葉、君に、君だけにあてた感謝と君と過ごした時間を綴った最後の手紙。それを他人の僕に託して良いんだね!」
枝に座っている少年の顔が歪んだ。今にも泣き出しそうな顔で、唇をきつく噛みしめている。
君にしか出来ないことがあるでしょう?
この楠は、ショウは今まで見てきた樹と格が違う。こんなにはっきりとした姿で、はっきりとした声で、人のように振舞える力なんて、他の樹にはない。
「ショウ!」
きつく呼ぶと、少年は諦めたような顔してふわりと飛び降りた。おずおずと春光の横に立つと、そっと七尾に瞳を向けた。でも、それ以上動かなかった。もう自分を視界に捉えていないのが分かる七尾の顔を寂しそうに見つめたまま、動かなかった。
春光はゆっくりと七尾の手を取った。七尾は一瞬ビクッとしたが、春光は構わずショウの手を握らせた。その上から自分の手も重ねた。
「あ、え、え?」
戸惑い続ける七尾からそっと手を離しながら言った。
「開けてごらん」
手の中には、一枚の葉が置かれていた。無垢の、この葉。
「楠の、ショウくんの返事だよ」
この葉があれば、彼は飛んでいける。楠自体はここから離れられないが、ショウ自身は、移動が出来る。自分の一部、葉や実がある場所に行くことが出来る。葉があり続ける限り、七尾に会いに行ける。スケッチを、手紙を読みに行ける。
「たとえ見えなくなっても、聞こえなくなっても、思いや言葉は消えない。だから、これもそれも君が大切に持ってた方が良い」
春光は七尾にスケッチを返しながら「葉の方も押し花みたいにすれば、枯れずに保存できるからね」と微笑んで見せた。二人の少年はほころぶような笑顔を浮かべた。
「作り方はあとで教えてあげる。だからさ、その代りってわけじゃないけど、大学生になってもユキと遊んでやってね」
七尾は勢いよく首を縦に振ると、「立花、確保してきます!」と職員室に向かって駆けだした。砂利を踏みしめる音が響く中、ショウの声が飛んだ。
「絶対行くからね! 会いに行くからね! ナナオ、ありがとう!」
甲高い声がザザザァーと風の音に混ざる。
「待ってるからなー!」
七尾が笑顔でこちらに向かって手を振った。
春光は安堵の息を吐き、青春だなぁ、と伏し目がちに笑った。
「それじゃあもう一仕事してくるか。二人が店に来る前に」
自分の手の中にもある一枚の葉を眺めた後、ハンカチにくるんでエプロンのポケットにしまう。
「違った、三人だ」
呟きながら大きく伸びをした。
サークル情報
サークル名:シュガーリィ珈琲
執筆者名:ヒビキケイ
URL(Twitter):@KeiMbsp
一言アピール
ローファンタジーから舞台脚本まで頒布しているサークルです。アンソロは現代ファンタジーで、前回のアンソロ「imagen」の後編といった感じです。この作品の本はまだ世の中にはありませんが、手触りや世界観はサークルらしい仕上がりになってますので、ご試食ください。