舐める家

 少女のような家、というのが徳さんの表現だったが、話をよく聞いてみるとただのいわく付き物件だった。
 機嫌を損ねるとお湯が出なくなる。機嫌がいいときに有精卵をもらってきたら、次の日には枕元にひよこがピヨピヨしていた。
 そんな家によく住めるなと誰かが言うと、慣れればどうということはない、かわいくさえ思えてくるとニヤけるので、こいつも大概気が狂っているのだとあきれたものだった。
 その家に来ないかと誘われた。ゼミの課題で二人組になった都合で、打ち合わせが必要になったのである。場所などどこでもよかったが、図書館にない本を何冊も持っているというし、単純に怪奇現象が起きる部屋へ興味がわいた。
 大学から二駅離れた住宅街のアパートで、ワンルームの半分は本や紙で埋められていたが不潔な感じはしなかった。
「ここまでにしよう」
 ちゃぶ台をはさんでの議論が途切れたところで、徳さんが細く息を吐いた。根を詰めたつもりはなかったが、脱線話も多かったせいか窓の外はすっかり暗くなっていた。
腕をのばして、肩甲骨の周りをほぐしながら、思い出したように言ってみた。
「特に怪しいことなど起きなかったね」
「四六時中起こったらたまらないよ。真面目に勉強しているうちはおとなしいさ。もしかして、気味の悪い目に逢いたいからうちに来たのか」
「そんなことはないけどさ、徳さんがまるで家が生きているみたいに言うものだから」
 ノートをしまいながら、四隅を見回した。我々の立てる物音以外は聞こえてこない。
「利ちゃん、明日は何限からだい」
「三限だ」
「なら、飲んでいきなよ。酒がある」
 冷蔵庫から日本酒の瓶、戸棚からぐい呑み二つを片付けたばかりのちゃぶ台に並べ、肴は徳さんが台所でちょちょいと作った。
 「いいもの見せてやろうか」
 しばらく呑んで、首筋を赤くした徳さんが悪戯っぽく言った。
「そこ、ほら、シミがあるだろ」
 指さされたとおりに南側の壁を見ると、隅の方にゆがんだ渋色の三角模様が浮かんでいる。越してきたときからこのシミはあったという。
「このシミにね、酒をひっかける」
「もったいないね」
「コップ一杯もいらない、こいつはすぐ酔う」
「こいつって……家にお酌とはおさみしいこと」
「なんとでも言えよ、ほら染み込ませるようにゆっくりとだ」
 晩酌した折、手元が狂ってぐい呑みを壁にぶつけたのが半年前。件のシミが酒を吸うことを面白く思った徳さんは酒屋で様々な酒を買うようになった。麦酒も葡萄酒も試したが、そのうち日本酒に落ち着いた。
「なんか回ってないか」
 眩暈のような不快感を覚えて、天井を見上げた。
「酔ったんだよ」
「私はそんなに弱くないよ」
「利ちゃんじゃない」
 徳さんは動じず、あぐらをかき直した。
「今日の酒はどんなふうだろうなあ」
 視界のぶれがふっと収まり、安アパートの一室とは全く異なる光景が広がった。

 少女のような家のドアはいつも開いていた。いくら鍵をかけても利ちゃんが来ると勝手に開くんだと言うのは、どてらの背中を丸めて辞書を引いているこの家の主である。
「利ちゃん、来たのか」
「外は寒いったらないよ」
 暗い道を吹きすさぶ風に、体はすっかり冷えてしまった。外套を脱いでストーブの近くに陣取ると、徳さんはページを閉じてこちらを見た。
「また寄席かい」
「今週は贔屓の噺家が出てるんだ。通わずにはいられなくてね」
「好きだねえ、おまえさんも」
「そういう徳さんはまた酒か」
 燻した沢庵と味の濃い酪が皿にのっている。
「贔屓の銘柄のまだ飲んでないのを見つけたんだ。飲まずにはいられなくてね」
 こちらの言葉を真似て言う。
「ふん、落語にも酒が出てくる噺はあるよ。禁酒番屋、二番煎じ、親子酒、試し酒」
 どんな筋だとせがまれるまま、あらすじを話した。合間に沢庵をつまんで思い出したのは『長屋の花見』。貧乏長屋の連中で花見に繰り出そうとなったとき、大家が用意したのは卵焼きに見立てた沢庵、酒は番茶を薄めて一升瓶に詰めたお酒ならぬお茶けだったっけ。
「ところで、段ボールなんか出してどうしたんだ」
「荷物の整理だよ」
「どういう風の吹き回しで」
 からかうように言うと、
「田舎に帰るんだ」
 徳さんはあっさりと答えた。
「いずれ帰るつもりではあったんだが、月末には」
「月末って、ずいぶんと急じゃないか」
「親父がもう長くない。家を継がなきゃならんのさ」
 田舎がどこでどんな家業なのか徳さんに聞いたことはなかった。大学に在籍する間は、誰もが好きなことに時間を費やして、呑気に生きているように見える。
「研究は? まだ論文は途中だろ」
「書き上げずに退学だな」
 徳さんの研究は、独自の視点で斬り込まれ、先日のゼミでの発表は群を抜いて斬新だった。教授陣の期待は周囲の目にも明らかだ。
「それでいいのか、徳さん」
「田舎にいても本は読めるからね」
 片付けているはずがあれこれ読み返して進まないんだと、徳さんは至って平気な風である。
「そんな顔するな、利ちゃんよ。そいでさ、この家なんだけどおまえさん住まないかい。利ちゃんの今んとこの家賃とそう変わらんだろ、大学も近いし、寄席にも行き放題。書物だって欲しけりゃ置いてくよ」
 だからさ、と徳さんは壁の方を向いた。
「たまに、こいつに酒を飲ませて欲しいんだ」
 こいつと呼ばれる壁のシミ。気まぐれで奇怪な動きをする部屋において、シミに酒を含ませるとあるはずのないものが見える。我々はこの幻燈機に各地の酒を舐めさせてきた。
「承知してくれるかい」
 返事をするかわりに、ちゃぶ台の上の盃を差し出した。徳さんが破顔して酒を満たす。
 燗はぬるくなっていた。香りを転がすようにゆっくりと喉を通し、半分をシミにかけた。揺れているのはいつものごとく少女だ。自分ではない、そのはずだ。
「今日の酒はどんなふうだろうなあ」

 なまじ、少女のような家だったから。
 寝煙草だったらしい。目覚めの一服、わずかばかりの灰が布団に落ちたことに気付かず、一階の住人は外出した。くすぶった煙が、昼前に炎を上げた。木造の火回りは早く、戻った時には、何もかも焼けてしまっていた。服も家具も、徳さんが残した資料も、そしてあのシミも、何もかも。
 それが春のこと。徳さんにはいまだ言えずにいた。
 次の部屋を見つけるまでと、先輩の家に転がり込み、ずるずると居候した。自然と呑まなくなった。酒屋に足繁く顔を出し、入ったばかりの知らない日本酒を買い求めることもない。もう、シミの夢幻に酔いながら、晩酌することは叶わないのだ。
 紫陽花屋敷と呼ぶ家がある。自分だけの呼称で、両隣の家より奥に入る二階建てのそれは屋敷というほど広くない。
 表札部分は大谷石を積んであるが、あとは柵になっていて、そこから見える庭いっぱいに紫陽花が花を咲かせるのである。色水を吸い上げるような白から紫への淡いグラデーション、くっきりとした青い額紫陽花、可憐な白い手鞠。梅雨空とは憂鬱なものだが、駅との行き帰り、その家の脇を通ると、思わず「綺麗だね」と花に話しかけたくなった。
 今日はその紫陽花屋敷から人が出てきた。この家の住人を見るのは初めてだ。細い縞模様の涼しげな単衣と鼠の羽織、足袋を草履に乗せた白髪の男性だった。
 門のかんぬきを開けながら空模様をうかがう老紳士に続いて、老婦人が現れた。
 風呂敷包みと長傘を胸に抱いている。銀の髪を低い位置で一つに束ね、薄桃色のブラウス、白い腰下前掛けをスカートの上にしめた突っかけ姿。
 老紳士は風呂敷を受け取りながら、老婦人に「ふみや」と声をかけた。
「今日は、港町へ行くのだったかい」
「はい、さく様と絵を見に行くのです」 
「ゆっくりしてくるといい」
「雨の予報ですし、夕方には戻ります」
 続けて黒い傘を手に収めた老紳士は、
「では、いってくるよ」
「いってらっしゃいませ」
 ゆっくりと、だが確かな足取りで歩き始めた。
 ふみと呼ばれた老婦人は、男の姿が角を曲がって見えなくなるまでお辞儀をしていた。祈るようだと思った。主人の安寧、無事の帰還を。毎朝、変わらずに行われる儀式。
 嗚呼、こんな日は日本酒が飲みたい。
 なぜかはわからない。脈絡もなくそう思った。無沙汰をしていた酒屋に走り、徳さんが好んだ銘柄と干しほたるいかを買った。帰ると先輩は留守で、自分宛ての手紙が気づくように置かれており、封筒を裏返せば、徳さんからだった。
『利ちゃん
達者でやっているかい。会社勤めにはもう慣れたか。こちらとは違う世界の話のようで、前回の手紙は興味深く読んだ。大学とは別の種類の変わった人間がいるんだろうなぁ。いろいろ窮屈なこともあるだろう。
こちらは相変わらずだ。なんとかやっている。
あのアパートが焼けたことを聞いた。駅前の古本屋を覚えているかい。いまだに付き合いがあってね、たまに本を取り寄せるんだが、あそこの親父が、お節介にも教えてくれたよ。利ちゃんに怪我などはないと聞いて安心した。家財道具一切燃えちまって災難だったね。で、利ちゃんのことだ、申し訳ないなどと思っているんだろう。おまえさんが気に病むことはない。別に付け火をしたわけじゃないんだから。いつかは老朽化で取り壊しになっていただろうしな。シミのことはひとときの夢だったと思おう。我々もそろそろ地に足付けて、現実を見ていかなきゃな……と、締めくくりたいところだが、実はこちらでもあれと似たモノを見つけた。世話になっている地主、ここのご隠居が酒の席でぽろりと漏らした。その場では皆笑って流したがね。後日、一升瓶持参で確かめに行ったさ。離れの柱にあった、あった。
案外ああいうモノはこの国のそこら中にあるのかもしれないな。まあ、一度こちらに遊びに来るといい……』
 なんと時宜を得て。
 注いだ湯呑からは鼻をくすぐる香り、さらに傾けて再会の口づけを。目を閉じて、息を吐いたついでに呟いた。
「今日の酒はどんなふうだろうなあ」

サークル情報

サークル名:三日月パンと星降るふくろう
執筆者名:雲形ひじき
URL(Twitter):@kmkymr

一言アピール
『あるペロリストの酒記・壱』より抜粋。三日月パンと星降るふくろうはおいしいごはん、なんとなく切ない、 少し不思議な、まったりの日々を物語にするサークルです。日本酒ぺろり散文集、担々麺やフィナンシェレビュー本もご用意しております。

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舐める家” に対して2件のコメントがあります。

  1. ぶれこみ より:

     こういうナンセンスなユーモアは好きです。お酒を舐める家、現実にあるわけないけど、あったら面白いですね。アイデアが面白かったです。酒を舐める家に、もっともらしい理屈をつけないところが、気に入りました。現実って、なかなか不可解なものですからね。

    1. 雲形ひじき より:

      感想をいただき、ありがとうございます!アイディアを気に入っていただけて、すごく嬉しいです。理屈のないすこし不思議はそこら中にあるのかもしれませんね。

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