手紙は音を鳴らさない

 古い、二階建てのアパートだ。
 奥まった裏通りの隅に建ち、築三十年程は経つらしかった。十年前に一度リフォームが入ったらしく、立て付けが悪いような印象はない。一応1DKと言える筈の居宅には、小型のエアコンも取り付けられている。
 備え付けの一口型ガスコンロはところどころが錆付いているが、許容範囲ではあるのだろう。少なくとも今のところ、不便を感じたことはない。前に住んでいた部屋には組み立て式のパソコンデスクを設置していたが、引っ越す際に処分してしまった。
 この部屋にある机と言えば、リサイクルショップで購入した正方形のちゃぶ台ひとつのみである。越してきたばかりで訪ねてくるような相手もいないから、この程度で充分だ。
 偶然見かけた不動産会社に飛び込み、契約した部屋の隅にはまだ、段ボールが置かれたままだ。転職した先の運送会社は忙しく、勤務時間中はなかなか気が抜けない。事務所へと入ってきた初老のドライバーが話しかけてくる。
「次は?」
 ぶっきらぼうな口調に、敵意が込められていないことは知っている。慌てて手元の予定表を確認し、次の配送先を告げる。東北から帰ってきたところに九州行きを告げられても、不満げな顔をされることはない。じゃあなと一言だけを残し、立ち去ってゆく背中をただ見送る。
 壁に掛けられた時計を確かめ、彼の帰社時間を表に書き込む。筆圧が高かったのか、シャープペンシルの芯が折れる。デスクの隅にでも飛んでいったのか、それとも床に落ちたのか、その行方は見つけられない。
 キャップ部分を二度ノックし、芯を一ミリメートル程出す。十五時三十分との文字を書き終えたところで、倉庫作業のチーフが室内へと入ってくる。
「松本さんは?」
 彼が口にしたのは、まだ名古屋への配送から戻っていないドライバーの名だ。表を見れば、予定された帰社時間からは三十分を過ぎている。デスク隅に置かれた、電話の受話器を取り上げた。

 四時間程の残業も時にはあると面接で言われてはいたが、今のところその事態に遭遇したことはない。それでもこの一ケ月、定時に上がることはなかなかできない毎日だ。
 運送ドライバーの勤務がイレギュラーである以上、管理する側にもそれに応じた勤務が必要となる。二時間の残業をこなし、アパートに帰り着けば時刻は既に九時過ぎだ。
 脱いだ制服を、しわにならないよう三本百円のハンガーに掛ける。スカートについても同様だ。立ち寄った弁当屋で買ったのり弁当を、静かなままの部屋でつつく。
 防音性がないに等しいのは、さかる猫の声が丸聞こえであることからも明らかだ。この時間になれば、テレビを点けるのすら躊躇する程である。勿論、それを承知で入居しているのだから不動産会社に苦情を申し立てるつもりもない。
 何しろ、相場に比べ六割から七割程の家賃だ。文句があるのならば借り換えればいいだけの話である。平らげた弁当の容器を台所のごみ箱に捨てれば、しばらくだらけた時間を潰すのみだ。ただしそれは、普段の夜の場合である。
 台所から居室に戻り、テーブルに着くのではなく部屋の隅へと向かった。そこへ置かれた段ボールを開く。ここに入った日に開けて以来、ほぼ放置されたままだったものだ。
 必要なものは既に出してある。残っているのは処分し切れないながら、日常生活を送る上で必要ではなかったものばかりだ。それ故に整理を後回しになっていたが、もう一月だ。そろそろ手を付けなければならないだろう。
 段ボールはミカン箱より一回り程小さく、中にあるものはさほど多くない。女子高時代に亡くなった愛犬の写真が入ったフォトフレームや、前の会社を退職する際に同僚が餞別にくれたハーブ製のポプリ、古い万年筆などがある。自家用車を持っていないのに交通安全のお守りがあるのは、運転免許を取得した頃に郷里の母が送ってきたからだ。
 可燃物としては流石に捨てられず、年始のどんどん焼きにも出せないままで十五年以上が経っている。インクの切れた万年筆は使えず、ポプリは置くところがない。使い道があるのはフォトフレーム位のものか。
 白いトイプードルを写した筈の写真は、セピア色に変わってしまっている。差し込む直射日光を浴びないよう、窓に背を向ける形でそれをテーブルの上に置いた。染みの付いた押し入れの方を何とはなしに見遣り、入居後覗いた際にすえた臭いがしていたことを思い出す。
 その所為で布団を仕舞えないでいるのだった。ポプリを入れておけば少しはましになるだろうか。考えつつ襖を開ける。
 紐か何かで上からぶら下げておけばいいか、思い天板を見上げたところでふと白いものを見る。一瞬どきりとしたが、除霊用の札などではないらしい。どうやら紙のようだった。
 前の入居者の忘れものだろうか。今まで気付かなかった。セロハンテープで貼り付けてあるそれを剥がし、頭を引っ込める。色褪せた封筒らしきそれを開けば、中に収められているのは白い便箋だ。

 勤めているから言う訳ではないが今の時代、配送業というのはなくてはならないものだ。一昨日の夜遅くにインターネットで注文したものが、今日にはもう届いている。袋の中で緩衝材にくるまれているのは、小さな万年筆用のインクだ。
 この部屋にタンスはなく、それに代わるような収納ケースも調達してはいない。テーブルの上に置けないものは、自然部屋の隅の段ボールに収めるしかない状況が相変わらず続いている。しばらく引っ越すつもりがないのなら、三段のカラーボックスでもひとつ買うべきなのかもしれない。
 段ボールの上から取り出してきたのは万年筆だ。昨日のうちにペン先をぬるま湯に浸し、固まったインクは解かしてある。亡き祖母の形見らしいそのキャップには、黒い天然石がはめ込まれた恰好だ。
 らしい、というのは直接祖母から託されたものではないからである。本棚の奥から出てきたという一本を母から譲り受けた際、そのルーツを語られた。花嫁道具のひとつだったという言葉が、どこまで本当なのかは判らない。
 真鍮製の万年筆は重い。やや毛羽立った便箋に文字を書こうとしても、紙にペン先が上手く滑らない。あちこちにインクの染みを作りながらもようやく書き上げ、便箋をテーブル上に広げた。
 インクはいわゆるブルーブラックというものだ。空気にしばらく乾かした後でそれを畳み、封筒に入れる。万年筆のキャップを閉めた後で押入れを開き、天板へと封筒をセロハンテープで貼り付けた。
 押入れを閉じる。静寂に戻った部屋の中で、段ボールの前に座り込む。引き出しの中から件の封筒を取り、中から便箋を引き出す。

〈お久しぶりです。お元気ですか。
 駅で別れてからずいぶんと経ってしまいましたね。僕は元気です。
 新しい生活にも慣れました。この街で、僕は何とかやっていけそうです。貴方のいない生活にもきっと、慣れることでしょう。
 こんな日が来るとは思っていませんでしたが、きっと運命なのですね。出会うべきではなかったとは思いたくないけれど、これ以上一緒にいるべきではなかった。
 それは僕にも判っているし、貴方もそうだと思います。
 貴方との思い出もそのうち、全部忘れてしまうでしょう。どうか貴方も僕のことは忘れて、幸せになってください。お元気で〉

 短い手紙だ。何度も読み返すうち、文章をおおまかに覚えてしまった程である。
 道ならぬ恋だったのだろうか。事故物件だということは聞いていないから、遺書の類ではないのだろうが。過去の思いに決別するつもりでしたため、そのまま忘れてしまったということか。
 男のものとは思えない綺麗な文字に目を走らせるたび、伝わるのは手紙を書いた男の未練だ。本当に吹っ切っているのなら、手紙など書く必要はない。しかも、相手に決して送るつもりのない手紙など。
 同じ経験があるからよく判る。いや、自分は不倫などしていないと、もしかしたら手紙の主からは非難されるかもしれないが。溜息をつき、目の前の手紙を折り目の通りに畳んだ。
 それを段ボールに戻す。今度の休みに寺でも行って、お守りと一緒に依頼するのがいいのかもしれない。

 繁忙期に入り、残業の時間も増えた。家に帰り着いたのは十一時頃である。帰りにコンビニエンスストアで買ったナポリタンを食べ、一息つく。
 音のない生活にも幾分慣れた。時を刻む、目覚まし時計の秒針の音が明瞭に聞き取れる程である。プラスティックのフォークを置き、暗いままのテレビの画面を眺める。ふと三日前に書いた手紙のことを思い出した。
 苦笑が浮かぶ。同情か感情移入か判らないが、何故感傷に駆られあんなものを書いてしまったのだろうか。
 結局自分もまだ、未練があるということか。関わる全てを処分したつもりで、想いと記憶だけは捨て切れなかった。
 書いたのを忘れたまま退去し、不動産業者に見られ恥ずかしい思いをする前にやはり片付けておいた方がいいだろう。何なら見つけた手紙と一緒に、寺に託してこようか。そうすれば少しでも早く、あの頃のことを忘れられるかもしれない。
 押入れを開け、頭を突っ込む。天板を見上げ、思わず首を傾げる。
 封筒は見当たらない。床板を探る指に、ふと紙の感触が触れた。つまみ上げ、部屋へと戻ればそれは紙切れである。
 見覚えのないそれに、何となく嫌な予感がする。無意識のうちこわばる指で、ゆっくりと開いた。

〈ありがとうございます。
 貴方も悲しい恋をされたのですね。
 辛い思いをさせた彼への報いが、きっと起きますように〉

 埃の付いた小さな紙を慌てて畳み、テーブルの上に置く。あの時自分はどんな手紙を書いたのだろう。
 よく覚えていない。恋してはいけない人を恋した気持ちは判る、とかそんな文章を書いたのだったか。
 ひとりきりの淋しさに負け、あんな手紙を書かなければよかった。何故墓場まで持っていく筈だった過去を、懺悔のつもりだったとはいえ手紙などにしたのか。開いたままの押し入れを、恐る恐る振り返った。
 寒気がするのは思い過ごしだろうか。不意にチャイムが鳴る。

サークル情報

サークル名:210
執筆者名:殿塚伽織
URL(Twitter):@tonotsu_kaolu

一言アピール
こんな風のサイコホラー的なものを書いています。
あとはダークファンタジーみたいなものも。

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手紙は音を鳴らさない” に対して1件のコメントがあります。

  1. ぶれこみ より:

     面白かったです! こういう少し不思議であり得そうな話、好きなんですよね。あまり怪談には思えませんでした。描写も割合僕好みなので、すっとこの世界に入っていけて、最後のドアベルはたぶん、手紙を書いた主なのだろうなと予感させ、その人が必ずしも亡霊ではないような気がしたり、天井うらの住人なのかなとか想像したり、ひょっとしたら恋愛に発展するのではなどと思い浮かべたりして、とても面白かったです。

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