きみに届くその歌は

 ――まずい、間に合わない。
 早く答えを写してノートを返さないと!
 しかし焦れば焦るほど、ペンを握る手は遅々として進まない。そのうちに騒がしかった講堂は波が引くように静まりはじめる。講義担当の主教が教壇に現れたのだ。
 ――どうしよう。
 振り返って、講堂の隅に座っているノートの持ち主に視線を送る。身振り手振りで謝ると、こちらに気づいた彼は、少し困ったような笑顔で「分かった」というように頷いた。

 ***

「――おい、起きろ、ディム」
 肩を揺すられて目が覚めた。
「ごめん、俺が悪かった、ユタ!」
 謝りながらがばりと顔を上げると、目の前に同僚の顔があった。
「――あ、れ……?」
 訳が分からずぼんやりしていると、同僚が呆れたように笑う。
「ばっかだなぁおまえ。夢の中でもユタさんに謝ってんの?」
「あー……夢……か」
 いつもの執務室では、城仕えの僧たちが忙しそうに立ち働いていた。どうやら、疲れすぎて仕事中に居眠りしてしまったらしい。 
 この城で学僧をやっていた頃の夢を見ていた。色々なことが起こる前、この国が漫然とした平和の中にいた頃の夢だ。
「ユタさんに回す書類はおまえに渡せばいいんだよな。これ、各地の寺から届いた陳情書。目を通して欲しいって伝えておいて」
 どさりと置かれたのは、大量の書類の山。それを見た別の同僚が慌てて駆け寄ってきた。
「あっ、それよりもこっちが先! 次回の定例会議の議題、あまりにも懸案が多すぎて収拾がつかなくなってて。助けてもらいたいってお願いしたいんだけど」
「いや、前からお願いされていた図書館の失われた蔵書リスト、やっと作り終えたから、そっちを先に見てもらわないと困る」
「ちょっ――、待て待て」
 他にも案件を持った奴らがわらわらと集まってきそうな気配を察知したディムは、慌てて彼らの話を遮った。
「いきなりこんなに持ってくるなよ! 知ってるだろ、こないだあいつ、過労で倒れたって」
「でもなぁ」
「頼れる人、あの人しかいないし」
「どこもかしこも人手が足りないの、ディムだって知ってるだろ? できるだけでいいからさ、おまえから頼んでおいてよ。なるはやでよろしく」
 言いたいことだけ言って資料を山積みにしたまま仕事に戻る同僚たちに文句を言いたいのは山々だったが、気持ちは分からなくもなかった。実際、どこもかしこも人手不足なのだ。目の前の書類の山を見て、ディムはため息をつく。
 ――俺がもうちょっと優秀だったらよかったんだが。
 どうしよう、とりあえず、優先順位だけでも付けておくか……、と、手を伸ばしかけたとき。
「あの」と、背後から短く声を掛けられた。またか、と思って「もう何を持って来ても受け付けないからな!」と言いながら振り返ると、そこにいたのは珍しいことに女性だった。
「あ――、ごめんなさい。お忙しいときに」
 恐縮しきりという様子で謝る可憐な声に、思わずどきりとする。この人は、そう。宰相・リンドレイの下で働いている女官だ。宰相がユタに用事がある時は、大抵の場合、彼女が使いでやってくる。
「あっ、いや。同僚だとばかり思いこんでしまって。大変失礼しました」
 焦りながら謝ると、彼女はにこりと微笑んだ。
「ユタ様が過労で倒れられたと聞いて、宰相様が大層ご心配されています。こちらはお見舞いの品です。ディムさんにお預けするのがいいと聞いたものですから。お渡し頂けますか」
「あ――、はい、お預かりします」
 この人はいつもユタに対して「様」を付ける。噂によれば、彼女は元々宰相の娘の侍女だった人らしい。ユタは昔、宰相の娘の家庭教師をしていたから、きっとその頃からの知り合いなのだろう。
「お見舞いと一緒に、こちらもお渡し願えませんでしょうか」
 見るとそれは、一枚の葉書だった。
「ああ――、これは」
 見たことがある。時折ユタに届く、異国からの手紙だ。
「きっと、とてもお喜びになられます。何よりの薬です」
 嬉しそうな笑みを浮かべて、彼女は言った。この優しい声色、女神かな――そんなことを思いながら、ディムは差し出された葉書を受け取る。
「確かにお預かりしました。必ず渡しておきます」
「くれぐれもお大事に、とユタ様にお伝えください」
 丁寧にお辞儀をすると「では、失礼します」と言って、彼女は笑顔のまま去っていった。

 ユタの居室に向かう最中、預かった葉書をじっくりと観察した。表面には宛先――この国の言葉に混じって異国の言葉が書き連ねられている。おそらく東方の言語には違いないが、外国語の素養がないディムにはまったく読めなかった。差出人の署名も、異国の言葉。裏面を見ると、表面とは違う東方の文字で何かが書かれている。
 ――何が書かれているんだろう。
 いくら眺めたところで、ちんぷんかんぷんだ。あの女官は知っているのだろうか。この葉書の差出人のことを。
 ――何よりの薬です。
 おそらく知っているのだろう、と思った。自分のことのように嬉しそうだった彼女の笑顔がそれを物語っていた。

「おーい、入るぞ」
 一応声を掛けてユタの居室に入ると、奥の書斎でガタガタッという音が聞こえた。覗いてみると、机の前に立ったユタが決まり悪そうにこっちを見ている。
「もしかして、仕事してたんじゃないだろうな」
 半分キレそうになりながら尋ねると、ユタは目を逸らしながら「仕事? そんなの、ディムに全部資料を取り上げられたんだから、できないって分かってるだろ?」とうそぶく。
「じゃあ何をやってたんだ。寝てろってあれほど言ったのに」
「いやぁ……、なんだか目が冴えてしまって」
 机上には、難しげな本が開いた状態で置かれている。そういえば――。先日、預かっていた本を返したいと願い出た女性がユタを訪ねて来たことを思い出した。黒い髪と瞳が印象的な、華やかな雰囲気の美女で、二人とも再会をとても喜びあっていた。ユタによれば、かつてお世話になった恩人だという。ディムも会ったことがあるよと言われたので、おそらくあの時の、という程度には見当がつくものの、当時の自分に余裕がなかったせいか、記憶は曖昧だった。
 彼女が持ってきてくれた本は今となってはどれも貴重なものばかりで、よくぞ今まで守っていてくれたものだと思う。少し前なら、あんな本を隠し持っていたら厳罰に処せられたかもしれなかったのに。
 思えば、あんな貴重本を前にして、この本の虫が放っておくはずがない。ユタが読み始める前に、全部こっちで預かっておくべきだったのだ。
「ちゃんと自己管理しろよ。また倒れたらどうするんだ」
「ディムは大げさなんだよ。もう大丈夫なのに……」
「休めと言っているのは、俺じゃなくて宰相のご命令だ。ほら、これ。リンドレイ様からのお見舞い」
「――こんな心遣いを、あのお忙しい方にさせてしまうなんて……」
 心底申し訳なさそうな顔で、ユタは籠を受け取った。
「……わぁ、美味しそうだよ。ディム、一緒に食べようよ」
 籠の中を覗いてみると、卵でできたタルトが入っていた。「お茶を淹れるよ」とユタが言うので「座っておけ、そこから動くなよ」と厳命して、ディムは備え付けの小さな台所で湯を沸かしはじめた。
「あっ、そうだ、これも預かってきたぞ」
 ついでのように預かった葉書を渡してみると、ユタの顔がぱっと明るくなった。
「……あぁ……」
 言葉にならないのか、ユタは黙ったまま、葉書をじっと見つめている。カップにお茶を注いでテーブルに並べ、切り分けたタルトを皿に乗せながら、「それ、東方から来た葉書だよな」と、さりげなく訊いてみた。
「うん。……この詩、知ってる。懐かしいな」
「詩なのか、それ」
「彼女はいつも、行く先々で歌った歌の歌詞を書いて送ってくれるんだ」
 彼女。送り主はどうやら女性らしい。
「歌?」
「そう。彼女は歌い手だから」
 ユタは裏面に書かれている異国の詩を朗読した。
「運ばれていく、わたしはあたかも、船乗りのいない、船のように――。東方で歌い継がれている伝統歌だよ」
「近況は書かれていないのか」
「うん。だけど、これが来るってことは元気でいる証拠だから……」
 ユタは慈しむように葉書を見つめている。その表情はちょっと涙ぐんでいるようにも見えた。確かに、間違いない。あの女官が言ったように、ユタにとってそれは一番の薬、のようだ。
「返事、書かなくていいの」
「彼女は旅の楽団の一員なんだ。常に移動しているから、こちらから連絡を取ることはできなくて」
「へぇ……」
 この国が混乱の最中にあった頃、城を追われたユタは険しい山脈の向こう側、「東方」にいた。この葉書の主はきっと、その頃に知り合った人なのだろう。――しかもユタにとって、とても大切な人、らしい。
 ……気になる。だけどこいつ、あっちに居た頃の話は全然してくれないからなぁ。
「旅の楽団ってことは、この国にもいつか来るだろうし、そしたら、またいつか会うことだってできるよな」
「……そうだね。でもまだいろんなことが整っていないから。当分は難しいだろうな」
 亡命先から国王が帰還、宰相が国政に復帰してからまだ日が浅い。人材は乏しく、人心も定まってはいない。課題は山積みで、城に呼ばれて働くようになって以来、ディム自身、まだ一度も里帰りできていない。
 あまりに忙しい日々に、時々、全部放り出したくなったりもするけれど。
「まあ、それでも。数年前の状況よりはずっと未来に希望が持てるようになったよ、俺は」
「……そうだね」
「またいつか、会えたらいいな、その人にも」
 そう言ってみると、ユタは葉書に落としていた目を上げて「うん」と頷いた。
 ――おいおい。めちゃくちゃいい笑顔だな。
 いつか本当に、この葉書の主に会える日が来ればいい。その日が来たら、絶対に質問攻めにしてやるからな。
 覚悟しておけ。心底嬉しそうな旧友の顔を眺めながら、内心そんな決意を固めたディムは、何食わぬ顔でお茶を飲み干した。

サークル情報

サークル名:a piacere
執筆者名:西乃まりも
URL(Twitter):@marimobomb

一言アピール
普段は現代ベースの作品を書くことが多いのですが、今回は新刊(ファンタジー)の世界観で書いてみました。社畜な日々を送る人たちのお話です。

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