日に月に共に征く-朱陸の交わり-

     (一)陸子静

 淳熙十六年(一一八九年)、仲春二月。
 金谿は、長江中流域、江南西路と呼ばれる地域の東端に位置する、気候温暖な小都市である。梅の花は既に満開となり、その香を運ぶ風の冷たさも和らいだ。
 宋王朝が異民族の国、金の圧迫を受け、華南の港町臨安に都を遷してから六十年が過ぎている。
 陸子静は、中庭に面した格子窓を大きく開き、春の日射しの下で書を繙いていた。五十一歳になる。ゆったりと羽織った深藍色の上衣が、彼の象牙色の肌を一層白いものに見せていた。子静は字で、名を九淵という。
「淵」
 十一歳年長の兄、子美が廊下から声を掛けた。陸家は一族を集めれば三百人とも言われる大家族だ。子静は六人兄弟の末っ子で、老齢の両親に代わり、二十四歳離れた長兄に育てられた。武術も学問も全て兄たちから学んだ。
 子美は書簡を差し出した。
元晦げんかいどのだ」
 子静の白い頬にわずかに赤みが差す。子美は頬笑む。
「待ちかねたか」
「はい」
 弾んだ声で子静は応え、すぐにそれを開いた。真剣な眼差しを紙上に注ぐ子静は、既に兄の存在を忘れている。
 朱元晦は子静よりも九歳年長で、江南西路の南、福建路の崇安に学舎を営んでいる。
 子美と元晦との間で始まり、後に子静が引き継いだ論争は、「無極太極論争」として後世に伝わる。名勝武夷山を隔てて、既に三年越しの論争であった。

     *

 『太極圖説』は、約百三十年前、周茂叔によって書かれた。宇宙の生成を表す「太極圖」とその解説からなる短い論文である。元晦はこの書の「無極にして太極」なるものこそ、彼が世界の根本とする「理」であるとした。元晦にとって「理」は、「良知」によって、不断に追究されるべき窮極の存在だ。それが無極にして太極であるとは、現実の事物を超越しつつ、かつその根本であることを意味した。
 それに対して、子静は「理」とは「無極」と形容されるような超越的存在ではなく、全ての人々に初めから共有されていると考える。万人に共通する「本心」がそのまま「理」であり、君臣や父子の義は、その本心に根ざすからこそ真理であると論じた。
 二人の学は、彼らが育った環境の影響を色濃く受けている。
 金谿の陸氏は唐代には宰相を輩出した名門で、宋王朝が成立する少し前にこの地に移り住んだ。以来二百年、定住して農業や商業を営み、家業に浮沈はあったものの、一族三百人、縁者を集めれば千人とも言われ、その固い結束で「義門」と称えられる大家族となった。
 一方元晦の一族は、元々は江南東路の徽州の出身である。父朱松の代にその赴任先であった福建路に移住した。朱松は秦檜が進めた金との和議に反対して政界を去った硬骨漢だ。戦乱を避けて各地を転々としており、元晦も仮寓先で誕生している。二人の兄が早世し、十四歳で父を失った元晦は、母と妹を守り、父の友人の庇護を受けて学問に励む。十八歳で科挙を受けて進士となり、二十二歳で官吏となった。常に他人の中で身を処してきた苦労人で、その学も、多くの人々から教えを受けながら形成されたものだった。

     *

「まだ起きているのか」
 弟の部屋に灯火が揺れていることに気付き、子美は声を掛けた。
「よくない知らせか」
 子美は弟の沈んだ様子を見て尋ねた。子静は卓上の手紙を取り上げた。ため息と共に兄に渡し、椅子から立ち上がった。
「元晦どのが、話を打ち切ってきた」
 子静は拳を固め、卓を叩いた。鈍い音がした。

     (二)武夷精舎

 武夷山は、「碧水丹山」と称えられる福建路の名山である。
 朱元晦が営む学び舎は、その麓、崇安の町にある。武夷精舎と呼ばれ、数十人の門人が集まって共同生活をしている。
 山麓の閑雅の地に、元晦の怒鳴り声が響く。
「お前たちは、学問がしたいとここへ来たのではないのか!」
 持病の腰痛に苦しむ元晦は、朝の挨拶を受けてから私室に引っ込んでいた。師の身の回りの世話をするため、数人の若い門人が部屋に詰めていたのだが、無駄話をしていて元晦の逆鱗に触れた。
 元晦は書物には並外れた忍耐で取り組むが、性格は短気で癇癪持ちである。
「師の前で書も読まず質問もせず無駄口ばかりとは! 学ぶ気がないなら出て行け!」
「先生」
 古参の門人である陳が入ってきて、若者たちを下がらせた。師の癇癪にもすっかり慣れた三十代の門人は、枕を直しながら苦笑する。
「腰に障りますよ」
「好きで怒鳴っている訳ではない」
 元晦は憤然と言った。
「先生を疲れさせてはと思ったのでしょう」
「師の腰の具合より、考えるべき事は他にある」
「先生」
 陳は胸元から一通の書簡を取り出す。それを返すためにここに来たらしい。
「子静どのに、何と書き送られたのですか」
 元晦は書簡を受け取る。
「随分落胆のご様子です」
 学問上の書簡のやりとりは、共有されるのが普通だ。特に子静については、元晦は日頃「当世着実に学問をする者は、私と、金谿の陸子静の二人だけだ」とまで言っているので、門人たちは皆が読みたがる。
 元晦は書簡を眺めた。文字の向こうに、肩を落とした姿がありありと見える。彼の言は、いつも率直だ。
 書き送った詩経の一節を、元晦は呟いた。
「「我は日に斯くき、なんじは月に斯くかん」」
 小さく息を吐き出す。
「日に月に、昼に夜に、お互い己れの信じるところを行こう―――そう書いた。これ以上言葉を重ねても、我々が同じ場所に至ることはない」
 陳は寝台の傍らの椅子に掛けた。
「「小宛」は、兄弟共に日夜励もうという詩ですね」
 さすがによく勉強していると、機嫌を直して元晦は微笑する。
「我々はいつまでも向き合って論を戦わせているよりも、それぞれの場所で歩み続ける方が良い」
 武夷山の彼方を思う。
 最後に会ったのは、八年前だ。
 どう過ごしているだろう。あの生意気な男は。

     *

 朱元晦と陸子静は、学問仲間であった呂伯恭の仲介で、十四年前に初めて顔を合わせた。元晦が四十六歳、子静は三十七歳の時で、子静の七歳年長の兄、子寿もいた。伯恭も年下なので、元晦が最年長だった。
 古来、儒の学といえば古典の解釈だった。人間と宇宙生成の根本を突き詰め、体系化しようという志向が顕著になったのは宋代に入ってからで、元晦と子静はその旗手と見られていた。伯恭の呼びかけで、元晦と陸兄弟が公開の場で互いの論を披露することになり、多くの同志たちが鉛山鵝湖寺に集った。
 論じ合うことで、儒の学をより深いものとしたい―――少なくとも元晦と伯恭の方はそういう気持ちで足を運んだ。
 だが子静は、初対面の元晦に対し、いきなりこう言い放った。
「私の学は易簡、貴兄の学は支離」
 支離とは、細部に拘りすぎてまとまりがないという意味だ。
「存分に議論を重ね、ここで真偽を明らかにしようではありませんか」
 何だこの若造は、と思った。
 喧嘩を売っているのか。お前の学こそ何だ。本心を存養すれば足りる? そういうのは易簡といわず、安易、安直というのだ。
 傍らで伯恭も青くなっていた。
 最初がこれでは、一致点を見いだすことは難しい。二日にわたって論じ合ったが、学問上の収穫は乏しかった。
 だが、我々は互いを見つけた。

「お手紙を書きます。―――いえ、いずれ、必ずまたお目にかかります」
 ずけずけと人の学を批判しながら、別れを告げる子静には何の気兼ねもなかった。黒目がちの目を生き生きと輝かせ、恭しく挨拶をする年少の男に、元晦も伯恭もいささか気を飲まれた。
 師を持たず、兄に学んだ子静には、相手への素朴な信頼がある。何度も書簡を交したが、子静の言葉はいつも率直で、時に不躾だった。皇帝による口頭試問、殿試を受けた際も、直言しすぎて評価を下げたと聞く。
 自信家で生意気で、学問的上では決して譲らないが、自分に非があれば即座に認め、相手が子供だろうときちんと頭を下げる。
 あの男には、誰もが胸襟を開くだろう。
『貴兄の学と私の学は、それぞれ完成している。話し合いは無益だと言う人もいます。
 私はそうは思わない。貴兄と私は、必ず同じ場所に至ることが出来ると確信しておりますし、貴兄も同じお気持ちだと信じます』
 書簡の言葉を思い出し、元晦は頬を緩める。
 子静どの、あなたは正しい。
 我々の学は、完成しているから交わらないのではない。未完成だからこそ、まだ出会うことがないのだ。
 彼の言う「同じ場所」。それは天を衝く険峻な山に別々に登り始めた二人の男が、時に近づき、時に交差し、時に遠く離れ去りながら歩み続けた、その先にきっとある。我々が別々の場所で果てた後も、誰かが受け継いで歩き続ける。
 そして遠い未来に、顔も知らぬ後継者が山の頂で出会い、手を携えて、来し方を懐かしく振り返るだろう。
 武夷山の彼方にいる、我が兄弟よ。
 その瞬間を胸に、日を追い、月を追い、日夜たゆみなく、共に己れの道を歩もう。六十歳を超え、足も腰も、目も衰えた。それでも一歩でも半歩でも先へ、私は歩き続ける。

     (三)別離

 論争の終結から三年後、陸子静は五十四歳で没した。長江上流域の荊門軍に知事として赴任していたが、異郷の厳しい冬に、宿痾の結核が再発した。十一月末に体調を崩し、十二月に入って大量の血を吐いた子静は、新年を待たずに逝った。
 年が明けて訃報を受け取った元晦は、門人たちを引き連れ、寺へ行って哭した。子静を孟子の論敵になぞらえ、「惜しいことに、告子を死なせた」と嘆いた。
 朱元晦と陸子静。朱子学と陸王学―――明代に子静の学を顕彰した王陽明の名と合わせてこう呼ばれることになる―――として受け継がれていく二つの学が、同じ場所に至ることはついになかった。むしろ後に「正学」とされた朱子学の徒の多くは、陸子の学を異端として排斥した。
 だが元晦は子静を共に歩む同志とし、子静は元晦を聖なる山、泰山に喩えた。対面したのはわずかに二回だが、その生涯で多くの書簡を交し、学問の話のみならず、政治上の議論や人物評、互いの近況や体調の話まで、二人の交流は長く深く続いた。朱陸と並び称される二人の個性のぶつかり合いを通して、儒の学は更に深化し、磨き上げられてゆくのである。


参考文献(敬称略)
〇『中国古典新書 朱子文集』友枝龍太郎(明徳出版社)
〇『中国古典新書 陸象山文集』福田殖(明徳出版社)
〇『朱子伝』三浦國雄(平凡社)
〇『南宋道学の展開』福谷彬(京都大学学術出版会)

サークル情報

サークル名:夜会
執筆者名:深川ひろみ
URL(Twitter):@fukahiro1619

一言アピール
江戸初期儒学(崎門・林家)、幕末明治(長州・肥前)が主食ですが、古代ローマ(ティベリウス帝)、平安初期(嵯峨帝)など割と色々書いてます。今回素敵なテーマを頂いて、朱子学の親玉を書くことが出来て嬉しいです。

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日に月に共に征く-朱陸の交わり-” に対して2件のコメントがあります。

  1. ぶれこみ より:

     とても興味深く楽しませて戴きました。中国の歴史小説、好きなんですよ。その実、僕は歴史には非常に疎いのですが、いにしえの中国にはロマンがありましたね。こういう知らない話を聞くのは面白いです。また、多くの資料を読んでお書きになったのでしょうから、すごいなぁと思います。なかなか勉強する時間もないですからね。
     歴史はやはり重みがあって面白いですね。ありがとうございました。

    1. 深川ひろみ より:

      早速感想を頂いて有難うございます!中国史、いいですよね。4000字の制限の中で地理や時代に関する情報をどれだけ入れるべきか迷ったのですが、歴史の中の朱熹や陸象山を感じて頂けましたら嬉しく思います。

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