弦音の文

「つまんない。折角道場に入れてもらえたのに、なんで冬樹が弓道やってる姿を前から見ちゃ駄目なの?」
 今日は誰も道場に来ていないからちょっと見ていく? って言われて、嬉しかったのに。後ろ姿しか見られないんじゃ、つまんない。そう言って、私は頬をぷうっと膨らませた。すると、冬樹は困った顔をする。
「最初に説明しただろ? 弦が切れたり、弦から矢が外れたり、不測の事態が起きると、切れた弦でも外れた矢でも、前の方に飛んでいくんだよ。弦が切れた時に反動で弓自体を前に落としちゃう事もあるし。危ないから、指導者以外は射手の前に立っちゃ駄目なんだよ」
 ちなみに、前というのは正面から的を見た時の右手側。射手は的の直線上に両足を並べて立ち、首だけを巡らせてまっすぐに的を見るのだそうだ。
 ルールを何も知らない私向けに色々と専門用語を省略してかみ砕いて説明してくれているのだろうけど、この説明だけだとよくわからない。ついでに、首が痛そうだな、と思う。
「離れたところからでも、前から見たら駄目?」
「うーん……ちょっと良いとは言えないかな……。今、本当に誰もいないからさ。何かあったら怖いし」
 真面目人間め。愛しの彼女がこれだけ見たがっていても、拒否するとは。……ん? 危険だから駄目って頑なに言うって事は、私が愛されてるって事になるのかな?
 そう言うと、「いや、相手が誰でも駄目って言うから」なんて言う。こうなると、ちょっと面白くない。
 ええい、面白くないついでだ。無理を承知で、前から頼んでみたかった事を頼んでみよう。
「ねぇ、冬樹。時代劇でさ、矢文ってあるじゃない?」
「……あるね」
 顔が、「嫌な予感がする」と言っている。相変わらず勘が良いなと思いながら、私は言葉を続けた。
「矢文を放つところ見てみたいんだけど、駄目? ルーズリーフならあるから、それに手紙を書いてさ」
「絶対に駄目。余計な物括り付けて、弦とかに引っかけたら暴発する恐れだってあるんだよ? すごく危険だから。あと、単純に僕の腕前じゃ、手紙を括り付けた分だけ重くなった矢をまっすぐ飛ばす事なんてできないと思う」
 これ以上無いほどの即答だった。向こうも冗談で言っているってわかっているんだろうけど、それでも言わずにはいられないほど危ないと思ったという事か。
「そっかぁ……。目の前に矢文が刺さって、慌てて括り付けてある手紙を読むの、ドラマとかだとたまに見るけど、射る方も危ないんだね」
「……冗談だろうけど、真似してみたいとか絶対に言わないでよね? 一応言っておくと、弓道の矢ってベニヤ板ぐらいなら簡単に割るし、なんならガラスも貫通するからね? あと、高段者でも的を外す事がよくあるからね? 狙ってない場所に矢が刺さる恐れがあるからね?」
 とにかく危険だという事を、これでもかというほどに言い聞かせてくる。
 気を付けないと危ないって事は十分にわかったし、冬樹が私が危ない目に遭わないように言ってくれている事も理解できる。
 けど、後ろから見ているだけだと、何が起きているのかよくわからなさそうだし。的も三十メートル近く離れた場所にあって遠い。折角来たのだから、やっぱり自分でもわかる何かを見たい。
 そう言うと、冬樹は困ったように苦笑し、そして言う。
「じゃあ……ちょっと来て」
 言いながら、冬樹は木製のハンガーラックみたいな物と腰ぐらいまでの高さがある木箱――弓立と矢箱というらしい――に自分の弓矢を置いて、私に手招きをした。出入り口で頭を下げて出て行くから、それを追おうとするとすかさず「道場に出入りする時は正面に一礼して」と言ってくる。
「正面ってどこ?」
「奥の壁に、標語みたいなのが書かれた額が飾ってあるでしょ。うちの道場では、出入りする度にあの額に一礼するの」
 道場によっては神棚である事もあるらしい。言われるままに額に向かって礼をして、冬樹の後に続く。
 冬樹は少しだけ歩くと、的が並ぶ横に建つ建物の扉を開けた。そして、私にそこに入るように、と言う。
 そこは、二畳ほどの小さな空間だった。壁の二面がガラスの掃き出し窓になっていて、真横に的が並んでいるのが見える。
「何、ここ?」
「看的所。試合や昇段審査の時は、ここで矢があたったかどうかを判定したり、的から矢を抜く人が待機したりするの。……ちょっと、ここにいて」
 そう言って、冬樹は私を残して看的所を出て行く。その際に、「絶対に的場の方に出ないように」と釘を刺していくのを忘れない。
 ……何だろう。冬樹は何がしたいんだろう?
 首を傾げていると、道場に冬樹が戻ったのが見えた。右手に革手袋――ゆがけをはめて、左手に弓を、右手に矢を一本持っている。
 これは、ひょっとして?
 そう思った時には、冬樹は既に的に向かって立っていた。体は的に対して垂直。なのに、顔はまっすぐに的を見据えている。
 矢をつがえた弓を、両手でゆっくりと掲げていく。そして、掲げてからはやはりゆっくりと、両腕が開かれていった。
 開きながら下ろされた腕は、的を狙ったところでぴたりと止まる。遠く離れた場所に見えるその姿に、思わず息が止まった。
 冬樹は、的を狙ったまま、動かない。
 動かない冬樹を見詰める時間は、あまりにも長く感じられて。このまま呼吸をする方法を忘れてしまうんじゃないかと思った、その時だ。
 ビィンッという、弦を弾く音がした。
 三十メートル近く離れているはずなのに。ガラスの窓を挟んでいるはずなのに。弦を弾く音なんて微かな音だろうに。
 それでも、聞こえたように思えた。
 次いで、ヒュンッという風を切る音。そして間髪入れずに、パンッという大きく乾いた音が辺りに響く。
 その音でハッと我に返ると、止まっていた呼吸が再びできるようになった。それでも、音の余韻で、まだ動く事ができずにいる。
 この感情を、なんと言えば良いのだろう。
 そう考えているうちに、冬樹が戻ってきた。弓は持っていなくて、弽もしていない。
「どうだった?」
 微笑みながら問う冬樹に、私は必死で返す言葉を探す。
「……なんて言うのかな。こういうのも、矢文、なのかな?」
 私は一体何を言っているんだろうと思ったけど、冬樹がにやりと笑って見せたので、冬樹もそのつもりだったんだと、少しホッとする。
 冬樹は掃き出し窓を開けると、的場に向かって手を叩く。パンパン、と柏手のような音がした。
「どうして手を叩くの?」
「今から的場に人が入るから矢を放たないでくださいねって、他の人に伝えるため。今は他に誰もいないけど、絶対に誰もいないとは言い切れないし、念のためにね」
「ふぅん……」
 ここでも、音で伝えるんだ。そんな事を漠然と考えながら、私は冬樹の後について的場に入れてもらう。真似をして手を叩いてから入ったら、冬樹はちょっとだけ笑っていた。
 的に刺さっている矢は一本。通常だと一回につき二本、もしくは四本射るのだそうだけど、今回は私を長く放置しておけないとでも思ったのか、一本だけだ。
「一本だけの時もあるんだけどね。そういう時はまた決まった動きがあるんだけど、今回は省略という事で」
「……ところでさ。矢、すごい半端なところに刺さってない? 真ん中の白い丸から五センチぐらい左に逸れてると言うか。こういう時って、的の真ん中にてて見せるものじゃないの?」
 そう言うと、冬樹は困った顔をする。
「……あのね。真ん中に的中させるのって、本当に中々意図してできる事じゃないからね? 高段者でも的自体に中らない事がザラにあるからね? 中てて見せようと思って実際に中てる事ができただけでも上出来だからね?」
 冬樹が、いつになく饒舌だ。……相当難しいという事はわかった。
「……それで、返事は?」
 少しむくれた顔をして、冬樹が問うてきた。さっきの、音の矢文の事を言っているようだ。
 あの弦を弾く音、風を切る音、そして的に矢が中る音。合計しても数秒程度の音を聞いた時、私には冬樹からこんな言葉が届いたような気がした。
「弓道、楽しいよ。一緒にやってみない?」
 さて、どう返事をしようか。
 考えてから、私は冬樹に、問うてみた。
「ねぇ。矢、私が抜いてみても良い?」
 そう問うと、冬樹は少しだけ考えてから頷いて、矢の抜き方を教えてくれる。
 教えてもらった通りに矢に手をかけながら、私は言った。
「さっきの返事だけど……とりあえず『どうしようかな?』という事で」
 そう言うと、冬樹は何とも言えない顔をして、がくりと肩を落とす。
「……こういう時って、やってみようかなとか、前向きな返事をくれるものじゃないの……?」
 どこか残念そうな冬樹の様子に苦笑した。
 本音を言うと、さっきのあの音を聴けるなら、やってみるのも悪くないかもとは思っている。けど、それを直接口にするのは、何となく気恥ずかしくて。
 私も、何かの音に気持ちを託して伝える事ができたら良いのに。
 そんな風に思いながら、私は的から矢を引き抜く。
 的からは、ボンッという軽快な音がした。

(了)

サークル情報

サークル名:若竹庵
執筆者名:宗谷 圭
URL(Twitter):@shao_souya

一言アピール
日常的な話も書いています。
ちなみに、書いた人は弓道やっていますが、座学を真面目に受けていない不届き者です。
本文内にある決めごとを鵜呑みにしないようにね!

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