思い出は蒼空〈そら〉に舞う

 あれはいつのことだったか。
 確か、まだあいつの話を風のうわさで耳にしていた頃……――

「あたしの父さんってどんな人なの?」
 不意に娘からそんな質問を投げかけられ。ヒルダは、獲った魚に串を通す手を止めて瞼をぱちぱちまたたかせた。
 夏の夜半の出来事だった。日中に暖められた風がぬるく肌を撫でてゆく、しっとりと湿り気を帯びた大気に包まれた森の中。焚き火に照らされた母子の髪は、炎よりもなお赤く燃え盛っている。
「えーっと……なに? 急にどうしちゃったのお前」
 とりあえず手に持っていた一匹を適当に串刺して火の傍に立てる。首だけ右に捻って、こちらを見上げてくる赤紫の瞳を見返した。
 娘のヘルヴォルは今年で九歳になる。このところ好奇心に拍車がかかり、行くあてのない女二人だけの流浪の旅路で気になるものを見つけるたびに「この花なんて名前?」だの「あの鳥どんなやつ?」だのと手当たり次第に訊いてくる。ヒルダはその飽くなき問いかけに、自分の持ちうる知識の範囲でもって答えたり、分からない時には一緒に想像の翼を羽ばたかせた。
 ただ、今みたいな質問は初めてで、ちょっと……いやかなり動揺してる。
 ヘルヴォルは母の視線から目を逸らすと、しばらく舞い散る火の粉を見つめてから、ふと口を開いた。
「……前の村で、助けた男の子。泣きながら父親に抱きついてたの、なんか忘れられなくて」
「前の――あぁ、あの井戸のやつか」
 娘の言葉には心当たりがあった。直近から数えて二つ前に寄った村で、水汲みをしていた農家の息子が足を滑らせて井戸の中に転落した事故のことだ。村と言っても外れの方に建っている家だったから助けを呼んでいる間に溺れたらどうしよう、なんて親がパニックを起こしていたところにたまたま自分たちが通りがかって、さっさと救出した次第だ。両親揃って暗所恐怖症な上にカナヅチらしいから仕方はなかったのかもしれないが、それにしても不測の事態への対処能力の無さには呆れを通り越して危機感を覚えた。あれで気まぐれな自然の気象と戦っていけるもんかね。
 お気楽農家の未来を、頬杖をついてぼんやり案じながら、ヒルダは娘の次の言葉を待った。
 小さな腕が、立てた両膝を抱えている。その眼差しは真剣だが、どこか頼りなさそうにさまよっている。ヘルヴォル自身もどうしてこんなことが気になるのか、確固とした理由が見つかっていないのかもしれない。
「あたし、父さんのこと、何も知らないから。顔も、名前も、どんな人なのかも。今まではそれでも全然気にならなかったし、母さんがいればそれで良かったし。……だけど、なんでかな? あの子を見てから、なんか……寂しくなるんだ。たまに」
 ぽつり、ぽつり。複雑な胸中を一生懸命ほぐして、言葉に乗せる。そうして出た答えが、寂しい、ということ。きっとそれが理由なのだ。
 物事には必ず芯がある、とヒルダは思っている。それを見失わず、曖昧なままで終わらせなかった娘の頭を、褒める意味で豪快に撫でてやった。
「うわっ、ちょっ、急になに」
 突然のことに目を白黒させるヘルヴォルは、次いで母の腕の中へと強引に引き込まれた。
「うわぁっ!」と悲鳴を上げる娘を後ろから抱き締めて、ヒルダは自分とお揃いの赤い髪に頬ずりした。
「ねえ、ほんと、どうしたの? なんなの? 今度は母さんがどうしちゃったの?」
「んんー? いやー、あたしの娘かわいいなぁと思ってさー」
「……はぁ?」
 なに言ってんだこいつ、とばかりに呆れかえった反応を返されたが、それっきりだった。抵抗しても無駄骨なのはこれまでの経験でよく分かっているらしく、大人しくされるがままにこちらへ体重を預けてくる。
 そんな、ヒルダにしてみればまだまだ小さい重みが、溢れんばかりの愛しさをくれる。あいつと出会った始めの頃は、こんな気持ちを覚えることになるなんて思ってもいなかった。
「そうだなぁ……教えてやるよ、あんたの父さんのこと。こんなあたしを愛してくれた、あいつのことを」
 見上げれば満天の星空が広がっている。昔話のページを捲るのに、あの輝きはちょうど良い。
「あんたの父親は、ジルっていうんだ」
「ジル?」
 初めて耳にした名前を、ヘルヴォルの唇が小さく反芻する。言葉を覚えたばかりの幼子のように、その名の響きを心に刻みつけるように。
「そっ。ほんとはもっと長ったらしくて難しい名前なんだけどね。あたしはずっと、そう呼んでる」
 思い出す。記憶の奥底に仕舞いこんだ、大切なあの日々を。
「じゃあ、その『ジル』は、どんな人?」
「あー……なんだろうな。うーん………………馬鹿真面目?」
「……馬鹿なのに真面目なの?」
「あはは。馬鹿みたいに真面目ってことだよ。頭は良いし機転は効くけど、育ちが良いからかみょーなとこ堅物できっちりしててさ。ふざけたことに慣れてないから、よくからかって遊んでた」
 最初は服を着ないでサラシ巻いてる恰好だけでも渋いカオしてたなぁ、なんて他人事のように懐かしむ。出会って間もない頃は「服を着てくれ!」「お断りだね」というやり取りがあいさつ代わりだった。そもそもこの恰好があたしにとっての常識なのだからしょうがない。もちろん問答はこちらの圧勝で終わらせた。
「ふーん。なんか、母さんとは正反対の人だね」
「かもなー。でも大事なものに懸ける想いは一緒だったよ。だからあたしはあいつの傍にいたんだ」
 性格はまるっきり逆でも、両目の先に見据えるものの輪郭は絶対に揺るがなかった。それはきっと、あの時あの場所に集まった全員が同じだったのだと思う。
 魚の皮が焦げる匂いが辺りに漂う。そろそろ食べ頃だが、ヘルヴォルはきっとこの話が終わるまで手を伸ばさないだろう。丸焦げにしたらごめん、とヒルダは心の中で謝った。
「……ね、母さん」
「んー?」
「父さんのこと、好き?」
 実に単純明快な問いかけがヒルダの心を刺す。
 ちくり。感じた痛みは後悔か、それとも恋しさか。
 けれど、別れて生きてゆくことを決めたのは自分だ。
 だからせめて、共にいた間にあげられなかった言葉を、娘に聞かせてあげようと思った。
 あいつとあたしの生きた証が、この先決してひとりぼっちにならないように。
「もちろん、大好きだよ」

 それから数日後、王国の至る所に黒い布が掲げられているのを見た。
 聞けば、《楽聖》と称された賢王ジヴォルニアが病により死んだのだという。
 あたしはせめてもの弔いに、火の鳥を一羽、灰色の空へと飛ばした。

サークル情報

サークル名:Erzahler
執筆者名:綴羅べに
URL(Twitter):@garan_S_aria

一言アピール
ボクタイ二次創作および創作ハイファンタジー小説を書いています。正式な一次名義は《玉響紫紀》です。
「送るという意味なら弔いも手紙に引っかかるか」と曲解して、相当昔に書いたものを手直ししました。赤毛と強い女がキーワードの作品を書くのが目標です。

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