文箱さま

「ほんとにこんなおまじない、効くのかなあ……」
 首をかしげながら、香緒利は文芸部の部室の隅にひとつだけ残されたロッカーの前でたたずんでいた。すくすく背を伸ばす小学六年生の妹を脅威に感じている小柄な体格とはうらはらに、初見で誰からも「しっかり者のお姉さん」認定される、いかにも長女らしい風情の香緒利だが、耳たぶから頬まで真っ赤にし、鼓動をバクバクさせながら胸の前で抱えているのは、ハート型に折られた手紙。
 あわい桃色の、ていねいに折られたそれは、本来ならば校舎裏の木陰などのロマンテイックな背景のもと、想いを寄せるひとへと向けて、覚悟を秘めて熱を帯びた目をうるませながら意を決して差し出されるのが常道だろう。しかし今、香緒利がひとり相向かっているのは、廃部になって久しいのに、未だに部室棟のいちばん端に『文芸部』の名を留めた一室だった。
「進路や恋愛にあれこれ迷いすぎて、自分でもどうしたらいいか分からなくなったときには、『文箱さま』を頼れ、なんて」
 日常的なマスク装備の習慣を感謝してしまうほど埃が積もり、香緒利の上履きの裏に刻まれた「21.5」がスタンプされている床なのに、ロッカーの周辺だけはきれいに掃き清められているのは──正方形の、無機質なスチールロッカー扉の奥にあると囁かれる『文箱さま』の威力を生徒だけでなく、卒業生でもある先生たちが信じているからだ、とも言われている。
「悶々として思い余ったありったけを手紙にして『文箱さま』に預けると、ちゃんと返事がもらえて、ラッキーな人だと願いも叶っちゃう──そんな都合のいい噂、いろんなことがすっかり変わっちゃっても、まだ残ってる、って笑いとばせる余裕なんて、わたし、もう」
 ないもん、と口にして、香緒利はハート型の手紙を持つ指にきゅっ、と力を込めていた。
 三年間の高校生活もいよいよ残り半年と迫りながら、香緒利はまだ進路志望書を出せずにいた。そんな香緒利に教師も親も、「何か好きなこととか、やってみたいことは? ──ないならせめて、就職に有利な資格を取れるところ、で決めればいいの」と詰め寄るが、当の香緒利自身が今したいこと、その、本音のほんとうのところは──……
「──……やっぱり、中原くんと同じところに行きたい、っていうのは……ああでもでも、肝心の中原くんの進路希望が分からないし……」
 春休みに入る前から気になりだしている同級生の名字を口にした、と同時に、香緒利の頬に灯る赤が、またいっそう増した。のぼせそうになるのをどうにか抑えようと、香緒利が頭を振るたびに、肩まで伸びた黒髪と、セーラー服の藍色リボンがふわりと揺れる。
「……でも、今のわたしがほんとうにしたいこと、って……中原くんともうすこし、仲良くなれたら、って感じだし……」
 揺れる気持ちに残りの高校生活で決着をつけるのではなく、同じ場所で落ち着いて延長戦に挑めたら──しかし、そんな進路希望は不純が過ぎる、と大人に叱責されるのは火を見るより明らかだ。
「ふわふわしてるのは、自分でも分かってるの。でも、恋……」
 あっ、声に出しちゃった! と、おでこまで真っ赤にしながら、香緒利はロッカーの前でジタバタする。幸い、下校時刻間近の夕暮れがけだ、部室にオレンジの光をやわらかく差しこまれ、香緒利の影ばかりがワックスの取れて久しい床に長く伸びているだけで、他の誰かの気配はない。
「……恋で進路を決める、なんて、ほんとうにいけないこと?」
 意を決し、香緒利はスチールロッカーの扉を開けてみた。
 ひんやりとしたそこには、意外につやつやとした十センチ四方の箱が入っている。
「これが噂の『文箱さま』なのかしら」
 おそるおそる黒くなめらかな蓋をあけ、空の箱へとハート型の手紙を収めて元に戻したあと、
「──文箱さま、どうか……どうかわたしの悩みを、聞いてください」
 両手を合わせて拝んでから、いざ、スチールロッカーの扉を閉めようとした香緒利のもとに、下校時刻を告げる『遠き山に日は落ちて』の校内放送が流れてきた。

 ──はて、墨をとろりと闇に溶かし込んだような文箱へと、納められた文は何処へ──

「……また、文箱が」
 世に隠れ棲むに相応しい、常磐緑をぐるりと配した宮。その女あるじたる時雨の方は、文机の脇にあらわれた黒き文箱へと視線を落とした。花盛りはとうに過ぎ、時雨の方の静謐さと才気とをふたつながらに愛された大殿も、流行病にはかなくなり、久しい。そうした過ぎし刻をいろどった方々の後世を祈る日々のさなか、どこからともなく現れる文箱へと、時雨の方はちらりと笑みを投げかけ、黒漆もゆるりとやわらかい蓋を開けた。
「これはまた、なんともおもしろき結び文」
 時雨の方が目にしたのは、あわい桃色の紙を幾重にも几帳面に折りたたんだ文、ひとつ。よくよく見慣れた、季節の花やゆかりの品に添えた結び文や、はたまた、この黒き文箱に納められていたこれまでの文とは異なるものの、これを考案したものはよくよくの芸達者、と、時雨の方はたのしげに微笑んだ。
「とはいえ、桃のかたちに似せて折られておるということは──祈るは長寿か、それとも」
恋、と脳裏にちらついた言葉に、時雨の方はかすかに目を伏せた。
「……かつては都で、あまたあるおみなたちの恋文を代わりに綴りしことこそ、藤の花のよく似合っておられた大殿との縁のはじまりで──もし、あのころ、このような文の折りかたを知っていたら」
 ひとたびは試してみたかった、とひとりごち、時雨の方は文を開く。
「これはまた……見慣れぬ文づかい。なれど」
 ひとつひとつ、言葉を選んだような筆跡。そしてなにより文からは、行きかた知れずの恋に思いあまる熱が伝わってくる。
「この文を送りたきかたに、あっさりと折り目をほどかれ、すぐさま想いを汲んで欲しい文なれば、このような折りかたなどすまい、か……おそらくは、恋にまつわる思い惑いは、この文を綴りしものが思う以上にずっとずっと深く、そして」
 かつて、藤の大殿が隔ての御簾を越え、差し伸べられた手に、この手を重ねるか否かを迷いしときと同じか──あるいはそれ以上に、重いものやもしれぬ。
 遠い、遠いまなざしを彼方へとしばらく向け、ふ、とひとつ息をついてから、時雨の方は萩色ぼかしの紙に、さらさらと筆をはしらせた。

 はなのとき おしまずめでよ ひたぶるに ときめくひのとくすぎゆくゆえに

 ただ一首を書きつけた紙を結び、時雨の方は文箱にそっと蓋をする。
「時折ふ、と現れる文箱に納められた文に、返し文をするなどと──世人はわらわのふるまいを、こころ弱りのはてのこと、とあざ笑うのやもしれぬ。
 なれど……この文箱が届ける文もことのはも、けして見慣れぬものではあれど、偽らざる想いのあることばかりは伝わるものがあればこそ──わらわの刻と命の続く限りは、返し文にて答えようぞ」
 己が顔と文箱との間に差し入れた扇のうち、時雨の方はひとり、覚悟を決めたような笑みをそっと浮かべていた。

「……やっぱり気になる」
 噂の『文箱さま』に、手紙を預けて一晩明けて。
 悶々と悩んでいたことをいったん預け、今夜くらいはスッキリ眠れると、下校時は思っていた香緒利だったが──よくよく考えてみれば、『文箱さま』の納められたロッカーには鍵がかかっていなかったし、そもそもあの部室にだって、たやすく忍びこめてしまうし──返事が来るとかどうとか以前に、あの手紙を誰かに読まれでもしたら、と気になって眠れず、香緒利は朝練用の門が開く七時ぴったりに、あたふたと学校に駆けつけていた。
 誰か入った形跡は、とおそるおそる部室を覗いてみたが、まだ仄暗い床には香緒利の上履きがつけた「21.5」だけが浮かんでいる。少しだけほっとして、自分のちいさな足もこういうふうに役立つこともあるのねえ、と妙な感心をしながら、香緒利はロッカーの扉を開けた。
 ひんやりとした朝の空気をまつわらせ、黒い文箱はロッカーのなかにそのまま鎮座している。ああよかった、と蓋を開けた香緒利だが──
「な、なにこれ!」
 昨日、自分が入れたハート型に折った手紙はそこにはなく、アザレアみたいな濃い色の、古典の教科書の挿絵で見たような結び文が入っていた。
「え? わたしの置いた手紙は? ……で、でも、ここにはわたしの足跡しかないし」
 まさか幽霊のしわざ、とも思ったが、この学校には『文箱さま』の他には不思議な話も怪談もなかったような気がする、と香緒利はしばらく考えてから、
「……結論。これはわたしの手紙に対する返事、ということで」
 おそるおそる文を解いてはみたものの──
「……読めない」
 さらさらと流麗な筆遣いで書き留められているのは和歌らしいけれど、まったく太刀打ちできない。それなのに──なんとなくだが、『今このときを惜しまないで』と活を入れられたような気が、香緒利にはしていた。
「せっかくもらった返事なのに……読めないのが、なんかくやしい」
 呟いた瞬間、脳裏に奔るひらめき。
「……この手紙を読めるようになるには、やっぱり文学部がいいのかしら」
 ぽつりと口にした言葉を合図に、香緒利のなかで片付けられずにいた、ふわふわとした思い悩みがすこしずつまとまりはじめていく。
「それに中原くんのことも……気になるなら、それとなくでも聞いてみればいい」
 中原くんの志望校に文学部があれば、それはそれでラッキーだし、なければないで──卒業の日に、笑って決着をつけられるようになってればいいじゃない。
 うん、とうなずき、香緒利はふふ、と笑む。
「先のことは分からないけれど──いつかはこの『文箱さま』に返し歌を届けてもらおうかしら」
 手紙をたいせつに胸ポケットに入れ、文箱を元の場所へと納めたあと、香緒利は深くていねいに頭を下げる。閉ざされたロッカーの扉と、ぱたぱた駆けてゆく香緒利の足跡を、やわらかい朝日がやさしく照らし出していた。

サークル情報

サークル名:絲桐謡俗
執筆者名:一福千遥
URL(Twitter):@ichihukuchiharu

一言アピール
絲桐謡俗ではあまくせつない恋愛物語、あわい色調の幻想小説をメインに創作小説を書いています。和洋中あちこちの世界を行き来しながら、ふわりとした手触りのなか、ひと匙のスパイスを効かせた物語を綴っています。どうぞお気軽にお立ち寄りください。

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文箱さま” に対して2件のコメントがあります。

  1. ぶれこみ より:

    とても面白かったです。時雨の方が何時代の人かは明記ないですが、たぶん平安貴族でしょうか? 短歌を返すところなど、短歌の内容も面白かったですし、その時代の雰囲気が出ていて面白かったです。表現もとてもつまびらかで、書き慣れていらっしゃるのだなと思いました。アイデアもユニークで、短篇にしては素晴らしい出来だと思ったのですが、ただラストが少しうまく纏まりすぎの嫌いがないでもなかったです。でも、とても楽しめました。ありがとう御座います。

    1. 一福千遥 より:

      ぶれこみ様、『文箱さま』へのコメントをありがとうございます! 時雨の方ですが、そろそろ黄昏どきが見え始めている時代の平安貴族をイメージしております。この物語を楽しんで戴けましたなら書き手として嬉しく思いますし、作劇にひとつだいじな課題をいただけましたことも、今後の糧にしていきます。

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