落とし文
今朝起きたら、僕の世界から「虫」が消えてしまっていた。
その虫は、体は小豆くらいの大きさで、頸はきゅっと絞ったみたいにくびれて、錆びた血の滴のような赤い翅を持っている。
それは、ずっと僕の目の中に住んでいる、僕だけに見える虫だった。
初めてソイツを見たのは、小学校4年生の頃。風も冷たい秋の午後のことだ。学校行事の合唱コンクールが1週間後に迫り、音楽の授業でもここ1ヶ月は、クラス全員で合唱の練習をすることになっていた。
僕は、どちらかと言えば歌は苦手だ。けれど、合唱の練習は密かな楽しみだった。
僕の隣で歌う女の子は、僕の幼なじみで、しおりちゃんと言った。ショートカットで、その当時は僕よりも背が高く、快活な女子だった。彼女は歌が上手かった。彼女の隣で彼女の澄んだ歌声を聴く時間が僕は好きだったのだ。
その日も僕はなんとなく浮かれた気持ちで、しおりちゃんの気配を横に感じながら、でも顔はまっすぐ前を向いたままで教科書を開いた。何十回となく目にした、課題曲の楽譜を見るともなしに眺める。
ふと違和感を感じた。なぜか今日は音符の数が多い気がする。目をこらす。小豆のような赤い音符が紙の上でもぞりと動いた。僕は驚いて声を上げかけた。
それは虫だった。2本の細い触角をひょこひょこと動かし、時折、頭を上下に振っている。
――どこから入ってきたんだろう?
ピアノの伴奏が始まった。クラスメイトの声が重なり合って響く。しおりちゃんの声も僕の耳元の空気を震わせていた。けれど、僕は歌うことも忘れて楽譜の上の虫にただじっと見入っていた。
「さぼってないでちゃんと歌いなさい」
同じ課題曲を3回歌った後、教壇で指揮をとっていた先生が僕の前にやってきて不機嫌そうに眉を吊り上げて言った。
「すみません……教科書に虫が付いていたから気になって……」
僕は謝り、虫が乗ったままの教科書をおずおずと先生に差し出した。先生は一瞬ぎょっとした様子を見せたが、すぐに怒った顔に戻った。
「虫なんてどこにもいないじゃないか。からかうんじゃない!」
先生が怒鳴り、周りのクラスメイト達がどっと笑い声を上げた。
教科書の上にうずくまった虫は、相変わらず、小さな触角をぷるぷると震わせている。
「ねぇ、さっきはどうしたの?」
授業が終わって教室に戻るなり、しおりちゃんに声をかけられた。
「虫がいたんだ、教科書に」
僕は先生に答えたのと同じ言葉を言い掛けてハッとした。しおりちゃんの右腕にあの虫が止まっていたのだ。
「しおりちゃん、腕に虫が……」
「え?」
しおりちゃんは、自分の腕を目の高さまで持ち上げてまじまじと見つめた。
「いないよ、虫なんて」
しおりちゃんは困惑したような表情を顔に浮かべた。しかし、困惑したのは僕も同じだった。指の爪の先くらいの大きさの色鮮やかな虫が、今、しおりちゃんのすぐ目の前にいて、しかも腕の上を這っているというのに、全然気がつかないなんて!
そして、僕はさっきの先生の態度も思い出していた。虫なんて全然見えていない様子だった。
――もしかしてゲンカクなのかな?
僕は不安になった。
「その虫の絵、書ける?」
黙ってしまった僕に、しおりちゃんが気遣うように優しく言ってくれた。
僕は頷き、机の上にノートを取り出した。
「あ」
開いたページの上には、またさっきの虫がいた。しおりちゃんの腕を見る。虫はいない。しおりちゃんの腕からノートに、まるで瞬間移動してきたみたいだ。
とにかく、僕は、目の前の虫を見ながら鉛筆を動かした。ノートの端っこにその姿を写し取る。
頸が異様に細い、ヘンテコな格好の虫。
こんな虫が本当に実在するんだろうか、と、自分の絵を見て改めて思う。やっぱり僕は頭がおかしくなってしまったのだろうか……。
いろいろ考えて泣き出しそうになってしまった僕の横から、しおりちゃんは身を乗り出して絵をのぞき込んでいた。
「これ、オトシブミじゃない?」
彼女の口から聞き慣れない単語が紡がれた。
[オトシブミ(オトシブミ科)]
広葉樹林などで見られる甲虫。葉を巻いて揺籃をつくり、その中に産卵する。切り落とされた揺籃が、落とし文(わざと落として相手に拾わせる手紙)に似ていることからこの名前が付いた。
放課後、しおりちゃんと一緒に訪れた図書館で、二人並んで閲覧席に腰掛け、分厚い昆虫図鑑を眺めていた。
開いたページの上にはまたもやあの虫が乗って、ちょこちょこと紙の上を歩いていたが、やはりしおりちゃんには見えていないようだった。
僕の目の前の「幻の虫」と図鑑のオトシブミの写真とを見比べる。よく似ている。やっぱりしおりちゃんが言う通り、この虫はオトシブミなのか。
図鑑には、オトシブミの姿とともに、オトシブミが葉を巻いて作った「揺籃」の写真も載っていた。切り取った葉を幾重にも巻いて作られたそれは、まるで繊細な工芸品のようだった。
オトシブミの卵はこの揺籃の中で孵化する。幼虫は葉っぱの揺りかごの壁を食べながら成虫になるまで揺籃の中で過ごすのだそうだ。
「ヨウランって、未来への手紙、なんだね」
しおりちゃんがポツリと呟いた。
「だって、この揺籃を作ったオトシブミが死んじゃっても、次が中で育ってるわけでしょ? 過去のオトシブミが、未来のオトシブミに宛てた手紙なのかな、って」
そう言って、しおりちゃんは少し照れたように笑ったのだった。
その日からずっと、僕の視界から虫は消えなかった。手の甲にも、枕の上にも、電車の手すりにも、虫はいつもいて、触角を動かしていた。
やがて僕は虫が気にならなくなった。別に悪いことをする訳でもないし、幻覚といっても、人に言わなければ変に思われることもない。
そうして僕は十年以上、目の中にオトシブミを飼ったまま、大人になり、社会人になった。
しかし、虫は、なぜか突然姿を消してしまった。
僕はショックを受けた。あの虫に特に愛着があった訳じゃない。けれど、虫がいなくなるとともに、初恋の思い出も手の届かない場所にいってしまったような気分になったのだ。
その日は一日中落ち着かず、仕事にも身が入らなかった。
重い足取りで一人暮らしのアパートの部屋に帰り、ドアを開ける。窓の外の街灯の明かりがうっすらと滲む暗闇が広がっていた。
カタリ、と音がした。
暗がりの中、微かな気配。何かが潜んでいる。この部屋には誰もいないはずなのに。
明かりをつけるのも忘れて、薄闇に目をこらす。
小さな子供の影が立っていた。
僕はどきりとした。
「しおりちゃん?」
思わず影に呼びかけた。けれど、これは幻だ。だって、目の前のしおりちゃんは小学校4年生の背丈のままだから。
「あのね」
か細い声が響いた。
「虫がね、しんじゃったの」
しおりちゃんの影はそう言い残してふわりと闇の中に消えた。
僕は急いで壁の照明スイッチを押した。部屋が白い光に照らされる。やはりそこには誰もいない。
――疲れてるのかなぁ。
僕はため息を吐いて鞄をテーブルの上に投げ出した。
その時、テーブルの上に小さな緑色の筒状のものが転がっているのに気が付いた。
拾い上げ、掌の上に載せてじっと観察してみる。
「ヨウラン……」
僕はぽつりと呟いた。しおりちゃんと一緒に見た「オトシブミの揺籃」の写真が脳裏に蘇る。
オトシブミが葉を切り取り、折り畳んで作る揺りかご。僕の掌にあるのは、まさにあの揺籃だった。
揺籃から微かに音がした。耳を近づける。歌声がきこえた。
クラスメイトたちが、僕が、しおりちゃんが、歌っていた合唱曲。あの時の歌がオトシブミの揺籃から流れていた。
目を閉じて、しばらくじっと歌声に耳を傾ける。
――過去から未来への手紙。
そう言った時のしおりちゃんの照れたような笑顔を思い出す。
歌声は徐々に小さくなり、静寂が戻った。目を開けると、いつの間にか手の上の揺籃は消えていた。
僕に本当の手紙が届いたのは、それから3日後のことだった。
差出人は、真汐莉子。最近、少しずつ世の中に名前が広がりつつあるシンガーソングライターだった。
腰まで伸びた長い髪と、どこか寂しさを宿した瞳。壊れてしまいそうな程、細く、儚げなその女性があの「しおりちゃん」だと気が付く元同級生はそう多くないかもしれない。
けれど、真っ直ぐに澄んだ歌声は今も昔も変わらない。
小学校5年生になる直前にしおりちゃんは転校した。それ以来、年賀状のやりとりだけが細々と続いていたけれど、ちょうど2年前、しおりちゃんは、音楽の道でプロデビューしたことを伝える手紙を僕にくれた。
コンサートがある時は、チケットも毎回送ってくれ、僕はその度にしおりちゃんの歌声を聴きにいった。けれども、しおりちゃんと直接言葉を交わす機会には未だ恵まれていない。
今回届いたのも、コンサートのお知らせの手紙だ。同封されているのは、いつも通り、定型文のA4の招待状、そして一人分のチケット。
僕はチケットに書かれたコンサートタイトルを見て「あ」と声を上げた。
「未来への手紙」
それがタイトルだった。
覚えていてくれたのかもしれない。僕の幻のオトシブミのことを。なぜかそう確信して、しおりちゃんのことを思い、真汐莉子のことを思う。見た目はまるで違うが、やはり、どちらも彼女であることに変わりはないのだ。
そして、三日前に現れた幻のしおりちゃんも、きっと……。
彼女は虫は死んでしまったと告げた。けれど、その死は再生に繋がる。新しい世代を宿す、オトシブミの揺籃のように。新しい歌を紡ぐ真汐莉子のように。
とりとめもない思考をぼんやりと追いかける。
その視界の端では、いつの間にか、前よりも小さな体の新しいオトシブミが姿を現していた。
虫は、相変わらず細い触角を静かに震わせている。
サークル情報
サークル名:UROKO
執筆者名:三谷銀屋
URL(Twitter):@miyaginn_books
一言アピール
幻想怪奇小説の短編中心で参加しています。最近、昆虫の生態を見たり、読んだりすることにはまっているので、テキレボ新刊も昆虫をテーマにした短編集を出す予定です(出せますように)。虫ファンタジーが気になる方には「記憶を食べるイモムシ」が出てくる現代ファンタジー小説「とこよのゆめ」(既刊)もおすすめです。