──うつくしい楼閣を築けるものは、それが砂のように崩れ果てるのを誰よりも恐れる。

「これは……」
 定年退職の日、使い込んだ机の奥からひょっこり現れた一筆箋。それを手に取り、萩谷は深く、腹の底から溜息をついていた。四隅はすでにセピア色に染まってしまった他には、なんの飾りも素っ気もない長方形の紙のなか、ブループラックのインクで書かれた字だけがやけにつややかに浮かび上がっている。
「──あれからもう、三十五年、か」
 深くなった皺に、ずいぶんと肉の薄くなった手、いつからか作家の原稿待ちの徹夜もできなくなり、自然と一線からは退くかたちになっていた萩谷。
「入社当時はちょこちょこと、足取り軽く御用聞きしていた小柄な俺を、小兵、小兵と呼び名をつけて、かわいがってくれた先輩や作家もたくさんいたけれど」
 懐かしい誰彼もとうに、この会社どころか世を去って久しい。その現実にまたひとつこぼれてしまっていた、溜息。黄昏せまる社内の一角、来しかたの追懐にひたる萩谷ではあったが──ただひとり、消息がまるまる知れない作家の名が口をついていた。
良瀬あたらせ、ゆきこ……」
 かさかさと音を立てる一筆箋を残したひとの名を萩谷は呟き、暮れなずむ空を遮るビルへと、視線をぼんやり向けていた。

 それは、萩谷が新人編集者から中堅編集者にそろそろ脱皮して欲しい、と周囲から願われていた時分のこと。
 萩谷は急遽、新しく担当となった作家の自宅に赴いていた。良瀬ゆきこ、というその作家は、ひとがこころの内に折り畳んだ情を、研ぎ澄まされた筆致で描きだす繊細な作風の物語で着目されていた。特に、萩谷の勤める出版社で、昨年発行した上下巻の精華集が見込み以上の売れ行きで、ベテラン勢と拮抗しながら版を重ねていることから、社でも次世代の稼ぎ頭と目論んで丁重に扱っていることは、萩谷も知っていた。
 だが──文筆に生きようとするものは多かれ少なかれ変人である、という世間の偏見を良瀬はそのまま体現しているという噂も同時に耳にしていた。
 そんな扱いづらい作家はベテランが時に根気よく、時にうまくあやなして、いい作品を書いてもらうものと思っていたのに──夏のはじめ、いきなり新しい担当に任ぜられたのは、他ならぬ萩谷だった。
「ここ、か」
 中央線の終点ちかくの駅で降り、北に歩くこと三十分。なかなかきついな、と思った矢先、その家は現れた。
 近隣が住宅街としてひらける以前より建っていた、とおぼしき木造二階建ての家は、南向きの窓の雨戸をすべて閉ざしている。ほんとうに住人がいるのか、と疑いたくなるほどひっそりしたたたずまいを訝しみつつ、萩谷はインターホンのボタンを押した。
「ごめんください、××出版社の萩谷と申します、あの、良瀬先生は……」
 なるたけ小声で、萩谷は近所の住民に聞こえぬように囁いた──つもりだったが。
『玄関先でその名を呼ばないで! 裏から!』
 返されたのは、くぐもっているのにどこか鋭い声。これはなかなか癇性な方か、と思いつつ、おとなしく裏手に回った萩谷が見たのは、玄関の物々しい雰囲気とはうらはらの、やけに粗末なドアだった。錆びたアルミ色のドアノブにおそるおそる手をかけ、予想外にするりと回ったドアの隙間から、萩谷はおずおずと中を覗き見た。
「あの……」
 萩谷がそこで目にした光景は、彼よりも頭ひとつ大きく、さらに言えばもうひと回り大きく膨らませたような女が、煤けたレンゲを手に炒飯をかき込んでいる姿だった。派手に染めた髪と化粧が、もとの年齢どころか本来の相貌さえ曖昧にしている女を前に、萩谷は固唾を飲む。
「あの、あなた、は」
「良瀬ゆきこ」
 咀嚼の合間にぶっきらぼうに答えた女は、ほどなくして八角形の皿から炒飯を駆逐したあと、萩谷を睨むように見据え、てらてらと真っ赤な唇を開いた。
「で、ファンレターなんて持ってきてないでしょうね?」
 冷えて重いその問いかけに、萩谷は肺を鷲づかみにされたような息苦しさに咳き込みながら──たった半日の引き継ぎのなか、前任者から厳命されたことをようよう思い出す。
「だ、大丈夫、です……ファンレターに類する手紙は、一通たりとも、持ってきていません」
 そう口にした萩谷に、女は顎をしゃくり、中に入るよう促していた。

「はぁぁ……」
 会社の屋上で至福の一服を味わいながら、萩谷は盛大な溜息をついていた。
「よっ、良瀬番も板についてきたじゃないか。あの変物相手に二ヶ月保つなんて上等上等」
「茅原さん……」
 古株の編集者らしく、白髪と禿頭がせめぎ合う茅原に、萩谷は思い切って尋ねてみた。
「なんで良瀬先生は、あんなにファンレターを嫌うんですか? 脅迫まがいのことでもされたのか、と剃刀探知に磁石を向けてみたり、申し訳ないと思いつつ開封してみたこともありましたけど……どれもこれも、すてきな手紙ばかりで」
 ありったけの言葉で、ただ純粋に良瀬の作品が好きであること、この作品が読めて幸せであると、何より良瀬の身体を気遣い励ますそれらの手紙の束からは、一片の悪意も邪気もまるで感じられなかった。だからこそ萩谷には、良瀬のファンレター嫌い──どころか、忌避とも映る行為が腑に落ちない。
「美馬坂先生みたいに原稿の受け渡しよりファンレター優先、っていう方を同時に担当しているからか、なかなか腑に落ちなくて……でも、あの先生はほんとうに、読者からのファンレターを糧に書いてる、って感じはしますね」
 あのくらい素直なら、こちらもやりやすいんですけど、と苦笑する萩谷に、茅原はからからと笑ってみせた。
「まあ、何を糧に書くかなんて、それこそ作家先生の自由だし──こっちとしてはファンレター嫌いだろうが変人だろうが、売れっ子サマサマさ。……とは言っても、な」
 茅原は空を見上げ、ぼそりと、ひくい声で呟いた。
「ファンレターを不要と言い切れるのは、ただ己だけを恃みにしてるからだとしても──ほんと、何を糧に書くんだろうな」

「創作の糧?」
 狭い台所でラーメンを貪り食らう良瀬に、萩谷はふと、そう尋ねてしまっていた。
 萩谷が見る良瀬は、いつもこの台所で、近所の食堂から出前で取り寄せたラーメンか炒飯ばかり食べている。そんなに美味いのだろうか、と萩谷はその店に入ってみたが、不味くもなければ美味くもなく、一度食べれば十分、という感想しか抱けなかった。
 それをもりもりと口にし、胃袋に叩き込むように飲み干す良瀬の目つきが、ぎろりと鋭く光る。そのきつさに、あきらかに機嫌を損ねてしまった、と及び腰になった萩谷に、良瀬はふん、と鼻を鳴らしてみせた。
「考えたこともないね。そこに紙と万年筆がある、だから書く──あたしの楼閣を」
 まっすぐに萩谷を見つめてから、良瀬ははみ出た脂にギトついた指を丹念にウエットティッシュで拭ってから、原稿の入った袋を差し出してきた。
「ありがとうございます。……あ、そういえば、先日雑誌に掲載された短編ですが、賞の候補作に推す声がいくつか上がっているそうですよ」
 偉大な作家の名を冠したその賞の名に、良瀬はぎこちなく表情を動かす。
「それは、光栄の極み」

「『それは、光栄の極み』なんて、皮肉めかせた口ぶりでしたけれど、ほんとうは嬉しかったんじゃないですか?」
 手にした一筆箋に、苦さにと後悔をにじませた視線を萩谷は落とす。
「賞の候補になっていよいよこれから、と思っていた矢先──献本を届けに行ったあなたの家はもぬけの殻になっていて、あなたの行方も、杳として知れなくなっていた」

 見慣れた台所から炒飯とラーメンの匂いはきれいさっぱり拭い去られ、萩谷が初めて足を踏み入れた室内では、作りつけの本棚がぱっくり空の口を開けていた。清掃が行き届いた分だけ、がらんどうに感じる家の最奥、秋も間近の夕暮れが雨戸の隙間から差し込む部屋に、残されていた一筆箋。

 ──うつくしい楼閣を築けるものは、それが砂のように崩れ果てるのを誰よりも恐れる。

 原稿用紙では一度も見たことがない、衝動に任せているようでどこか冷め切っている良瀬の整った筆致を、萩谷は唇を噛みしめたまま、じっと凝視していた。

「没交渉ゆえに近所の誰もあなたの失踪を知らなかったのとは裏腹に、社内では衝撃がはしったんですよ──ことに、茅原さんが」
 良瀬の姿も、家財道具も一切見当たらないと報告したその夜、頭を抱えてうずくまった茅原の姿を萩谷は思い返す。
『見知らぬ誰かの言葉があたしを捕らえるなんて真っ平ごめん、なんて抜かして、ファンレターも一顧だにせず、耳目に入る言葉を慎重に選んできた挙げ句がこのザマか!
 楼閣が崩れ果てるのが怖いなんて、小娘みたいなこと抜かしやがって──そのふてぶてしい鼻ッ柱を挫くような言葉を、聞いちまったとでもいうのかよ……!』
 震える声の意外な熱は、他ならぬ茅原こそが良瀬の初代担当であったがゆえ──と知ったのは、だいぶ後になってからだった。
 そして萩谷は茅原の思いがけぬ悲嘆を目の当たりにし、もしかしたら、良瀬が失踪する引き金を引く言葉を、自分は何かかけてしまっていたのかと悩み──そこから目を背けるようにして働き続けていたのかもしれない、と思い返す。
「……良瀬先生、あなたの小説ならば、ここで……」
 あたらしい楼閣を築き上げた証の入った封筒が萩谷のもとに届く、と結んでいたかもしれない──そんな想像を巡らせるほど、痛みが萩谷の胸をちくりと刺す。
 さりとて、ふたたび見出されたこの一筆箋を破り捨てることだけは躊躇われた。
「──……いつか誰かがあなたの、まぎれもなくうつくしい楼閣をふたたび見出してくれたそのときに、あなたの残したこの一筆箋をそのかたに進呈する日を夢見て」
 胸ポケットに一筆箋をたいせつにしまい込み、深々と頭を下げてから萩谷は踵を返す。投げかけられた黄昏の光は、かつてあった楼閣の輪郭を探し出すように、あわくはかなく、揺らめいていた。

サークル情報

サークル名:絲桐謡俗
執筆者名:一福千遥
URL(Twitter):@ichihukuchiharu

一言アピール
絲桐謡俗ではあまくてせつない恋愛小説、あわい色調の幻想小説をメインに物語を綴っております。舞台は和風・洋風・中華風それぞれですが、そのなかで少しずつ創作の幅を拡げようと企んでおります。次は何にどう転ぶか分からぬ書き手の紡ぐ小説ですが、興味をそそられましたら、どうぞお気軽にお手に取ってみてください。

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