恋文御伽噺(偽)

 天を突き刺すようにそそり立つ峰を持つキャレベツカ峠の山頂に薄らと雪が降り積り始める初秋にララは生まれた。
 母親から繰り返し聞かされた話によると、その夜は草木がわずかに触れ合う乾いた音だけが聞こえる静かな新月の夜だったという。空気はひやりと冷え込んで、初産の母のために麓の集落から来た産婆は鹿の毛皮で防寒していた。厳しい山村で暮らすには少々心許ないと評されていた母のお産は案の定困難を極め、ララがようやく産声をあげた頃にはとっぷり夜も更け、汗だくの産婆はほぼ半裸の状態だったそうだ。
 新生児としては小柄に生まれた女の子は両親の心配をよそにすくすくと成長した。村の子たちと朝から晩まで泥だらけになって遊ぶのが好きで、ままごとや布遊びにはあまり興味を示さず、弓矢作りや魚釣りに明け暮れた。
 けれど、村の女として生まれた以上、なんの憂いもなく無邪気にはしゃげる時間は長くはない。
 七つになると娘たちは「女主人」と呼ばれる老婆の家に集められた。
 そこにはおおよそ七つから十四、五の嫁入り前の娘たちが澄ました面持ちで並んでいた。女主人は村の内外から一目置かれた才女だ。彼女は炊事や洗濯をはじめとした基本的な家事から機織り、染織、刺繍、紙漉きまで村の女に必要とされる、ありとあらゆる事柄を教えた。娘たちは様々な技能を貪欲に学び、習得した。しかし、彼女たちが何より熱心に取り組んだのは文字の習得である。
 この村で文字が読み書きできるのはいつの時代も女たちだけだった。
 文字を読み、意味を理解し、紙とインクとペンを所持し、文字を書く。一連の行為は女たちにのみ許された。村でのみ通用する文字は最初の女主人が作り上げたと言い伝えられているが、実際のところはわからない。けれど、一生をこの山々に囲まれた共同体で暮らす人々にとってそれはなんの不自由にもならなかった。
 娘たちが何より文字を学ぶことに意欲的なのには理由がある。それは、この村において唯一許される求婚の方法が手紙を書くことだからだ。
 適齢期を迎えた娘は自身の誕生日に思いの丈を込めた恋文をこしらえ、そっとそれを意中の相手に手渡す。男の方は当然内容を理解することはできないが、娘が選びに選んだ紙とインク。それから情熱的にしたためられた文字と乱れた行間によって、それが自身への求婚だと悟る。
 受け入れる場合は手紙を懐に仕舞う。
 断る場合は手紙を返す。
 そんな単純な仕草で若人たちの婚姻は決まった。単純だからこそ娘たちは準備に躍起になり、男たちはそわそわと落ち着かなかった。
 そして、ララにも当然そのときはやってきた。
 「彼」のことを思い、綴り、使い物にならなくなった紙は何枚になっただろう。十六の誕生日まで指折り数えた。日毎少なくなっていくインク壺の中身を心細げに思いながらも期待で胸はふくらんだ。ああ、一体どんな顔をするだろう。ララが心を込めて書いた手紙を受け取って、驚くだろうか、それとも微笑んでくれるだろうか。
 準備は万端だった。一字一句間違いのないように見直した。乾く前のインクが擦れてしまうことのないように慎重に広げる。自室の窓を開けると、白く冴え冴えとした月の光が差し込んできた。少し冷えるなと思いながらも、風が通る方がインクはよく乾くだろうとそのままにしておいたのがすべての悪夢の始まりだった。
 ララはいつの間にか眠ってしまったのだ。
 明け方、東の空が薄紫から紅色へと変化する時刻。鳥の声と草を食む音でララは目を覚ました。
 草を食む音?
 なぜ、と思う間もない。飛び起きたララの目に飛び込んできたのは黄金色の瞳。細い下弦の月が横たわる目を持ち、よく動く大きな耳と立派な角を持つ山羊はむしゃむしゃと無感動にララの手紙を食べていた。
 早朝から長老会が開かれることになった。
 事の顛末を聞いたララの母は卒倒し、父は血相を変えて村の集会所へと駆け込んだ。
 何しろ前例のない事である。動物に、しかも山羊に求婚の恋文を食べられたなど過去にあったはずもない。
 ララは部屋での待機を命じられた。今日はきっと人生でもっとも幸福な誕生日になるはずだったのに。いつになく静まり返った家の中で膝を抱える。元はと言えばララが悪い。その通りだ。あのとき窓を開けなければ。窓を開けたまま寝こけてしまわなければ。後悔しても時間は元には戻らない。ただ、窓の外には山羊の姿があるだけだ。
 山羊は不思議とララの部屋の前から立ち去ろうとしなかった。
 まるであたかも自分が食べた「餌」の意味をわかっているかのように。山羊は村では山の使いとして崇められていた。どんな断崖絶壁であろうと軽やかに飛び跳ね、獣の牙から逃れ、厳しい山岳でたくましく生きる彼らは村人の敬意を集めるには充分だっただろう。
 だから、このときから嫌な予感を感じ取ってはいたのだ。父が衰弱しきった様子で家に戻り、泣き崩れた母を見ても、動揺しなかったのはそのせいに違いない。
 長老たちはララに山羊のもとへ嫁ぐように告げた。
 準備は粛々と進められた。ララが織り、刺繍を入れた布は最小限持って行くことにした。皮の水筒にナイフ、弓矢などおおよそ嫁入り道具に似つかわしくないものも、特例として準備された。村の中では貧しくも富んでいるわけでもなかったララの家だが、山羊のもとへと娘を嫁がせることになった両親を不憫に思ったのか、村の人々が代わる代わるお祝いを持参したため、家の中はあっという間に品物で溢れかえってしまった。
 母はずっと泣いていた。ララが送り出されるその日でさえ。花冠と豪華な婚礼衣装で着飾った娘を見て、そのまま死んでしまうのではないかと思われるような声で泣き叫んだ。母の悲しみと苦しみがわかっていながら、ララにはどうすることもできなかった。父はそんな母の肩を抱き、鎮痛な面持ちだった。娘に何かを言わなくてはと考え、逆に何も言えなくなった顔だ。
 これらはララが想像していた結婚とは何もかも違っていた。悲しみに暮れる両親、好奇心だけで覗きにくる村の人々、そうして、のそりと藪の中から姿を現した黒毛の大きな山羊の姿。
 「彼」が「新郎」だなんて。
 泣きたいのは私の方だ、という台詞をぐっと飲み込んでララは村を後にした。
 その隣には付かず離れずの距離で山羊が寄り添い、その蹄は危なげなく砂利の転がる道を進んで行く。
 カラカラジャラジャラ。一人と一頭の道中が村よりも秋の深まった山間に続く。
 一体どこまで歩くのだろうかとララが不安になった頃、そびえる岩肌に張り出した小さな洞窟の入り口が見えた。下から辿る道はほぼ垂直でほんのわずかな足場しかない。確かに猛獣の類は容易く近寄れそうもないが、それはララにとっても同じことだ。まさか登る気ではなかろうなとちらりと「伴侶」を見れば、その鼻先は雄々しくも得意げに「くい」とその背を指して見せた。
 結論から言うとララは山羊の背に乗って、無事洞窟へと辿り着いた。
 穴はそれほど深くなく、しばらく壁伝いに進むと乾いた砂地を持つ空洞で行き止まりになっていた。おそらくここが当面の「新居」なのだろう。そう解釈して、ララは荷物を降ろす。山羊はといえば洞窟の入り口で月の光を浴びて、ララの様子を窺っていた。
 いつの間にか日は落ちて、山は他者を拒絶するような昏い闇に包まれている。ララはそっと山羊の横に寄り添った。それは逞しくそそり立つ峰のような角を撫でても、身じろぎ一つしない。
「ねえ、知ってるんだからね」
 毛むくじゃらの首筋に手を添えて囁く。その視線は真っ直ぐ山々を見据えたままだったが、意識だけはこちらを向いたことがわかった。
「あなた、女の子でしょう」
 正確に言うと「雌」か。
 動揺は見られなかった。何しろ長い付き合いだ。ララが「彼女」のことを理解していたのと同様に、彼女がララのことを理解していたとして不思議はない。ただ、金色の瞳から放たれる視線がララにそそがれた。だったらどうするの、と問われた気がして、ため息をつく。
「何も。みんな恋とか愛とか手紙とか結婚とか馬鹿みたい。そんなの昔から全然わからないし、いまでも全然わからない。お母さんは私を産んで死にかけたのに弟も妹も生まされた。今頃メソメソ泣いてるのよ。私は可哀想な母親ですっていう顔して。ほんと」

 馬鹿みたい。

 ララの言葉を山羊は黙って聞いていた。慰めの仕草も優しい言葉もない。けれど、それがララにとっては何より居心地がよかった。彼女とララは同等だ。ずっと昔から唯一の。
「恋文ってね、あれも嘘なの。みんなの真似して、いかにもな顔して書いただけ。だから、あなたがむしゃむしゃ食べてくれたときスッキリした。私の嘘、美味しくなかったでしょう」
 ララはしゃべった。これまでの鬱憤を晴らすように。憤りを、怒りを、悲しみを吐き捨てるように。何もかもが間違っているとは言わない。けれど、あの小さな社会が一人の少女に押し付けてきたものは彼女にとって醜悪な重荷でしかなかった。
「きっと今日の日のことも過去になる。村の人は七日もすれば忘れて、お父さんとお母さんは十日ぐらいかな。それで、いつの日か都合のいい御伽噺になる。私はここに確かに生きてたのに。生きてたのに!」
 山羊はララを見上げた。四つ脚の蹄を踏みしめて、雄々しい角を振り上げて、目にたっぷりためこんだ涙を乱暴に拭う彼女を見つめた。
「お話おしまい。今日から私とあなたの二人きり」
 そうだね、と頷く。
「仲良くやりましょう。群れからはぐれたものどうし」
 鳴く。たとえその意味が彼女に伝わらなくとも。
 少女はもう泣いてはいない。にっと真っ白な歯を見せて笑う、何よりも美しい一匹の生き物がそこにはいた。

サークル情報

サークル名:棘屋
執筆者名:瓜野
URL(Twitter):@baraniku_i

一言アピール
人間と人間でないものが、交わったりすれ違ったりするお話を書いています。現代から異世界ファンタジーまで世界観も登場人物もいろいろ。お手に取りやすい短編集が多いです。よろしくお願いします。

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