見えない言葉

 山茶花の花咲く門を越えた所の白く小さく上品なその家に、彼女は住んでいる。
 郵便でえす、と大きめの声を出しながら扉を叩くと、彼女の為のドアベルがちりんちりんと向こう側で心地良く鳴り響く。
「いらっしゃい、庭にいるわ」
 彼女の声はひそやかながら、秋風に乗って僕の声によく届いた。
 横に回るとそれ程大きくない庭がある。彼女は中央のテーブルにお茶の用意をして、上品に着席していた。
 庭に咲いている秋の花も、どれも小柄なものばかり。
 何もかもが慎ましやかで、彼女を体現したかのような空間。
「いくら天気が良いといっても秋なんだ。風邪引きますよ」
「大丈夫よ。ブランケットも用意したし、手紙を聞いたら戻るから」
 貴方が来たという事は、今日も手紙があるのでしょう?
 少しだけ声を弾ませて、彼女は上品に微笑んだ。
「ええ、ありますよ。いつもの一通」
 ぼくが答えると彼女はふふ、と上機嫌な声を漏らす。
「さあどうぞ、向かいの椅子におかけなさいな。貴方の分のブランケットも用意させたし、お茶のカップもある筈だわ。あるでしょう?」
「ありますね。じゃあ、これってまさかぼくの為に?」
「いつも読んで貰っているばかりじゃ悪いもの。……お茶を注いであげられないのは、申し訳ないけれど」
「十分ですよ」
 彼女は両の目が見えない。ある時、高熱を出し続けたのがきっかけで見えなくなったのだと彼女は言う。元は良家のお嬢様だったのに目が見えなくなってしまった所為で、「ここは医者の家が近いから」という名分の下、馴染みのメイドと二人きり、こんな平民の暮らすような場所に住む事となってしまったのだ。
 それでも彼女は今までぼくに、泣き言や不満一つも言った事がない。
 容姿のみならず心根から清らかな女性なのだ。
 本人は目の所為で嫁の貰い手がなくなったと笑っているが、嫁の貰い手がない筈はない、と思う。目の為にあまり外出をしない様だから、今はまだ誰も彼女の本当の魅力を知らないだけだ。
「それで、今回は一体どんな内容なのかしら?」
 声を弾ませた催促に、ぼくは淹れたばかりのお茶を一口味わってから白い封筒をゆっくり開いた。

「木枯らしが私の隣を過ぎ去る度に、私の隣に貴女がいないという事実を思い出す。枯れ葉が一枚また一枚と力失くして落ちゆくもの悲しさも、孤独を感じる自分の姿に重ねてしまう。それでも貴女は月のように、私の心を暗闇にあってさえ照らし続ける。肌身に滲みる寒々しささえ貴女の光を凛としてより一層見映えさせる装置となる……」
 ぼくは手紙の中身を読み上げる。

 真っ白で、何も書かれていない手紙。

 暗号や、あぶり出しめいたギミックがある訳でもない。目の見えない───それも恐らく一生治る事のない彼女に宛てた手紙なのだ、書かれていても彼女が目に出来ないならば意味が無く、いたずらに辱めを受けるリスクが高まるだけならこれで良い。
 彼女に必要なのは「彼女宛てに、毎日恋文が届き続けている」という事実。
 差出人がいつも目の前にいて、その場で読み上げているのだから問題もないだろう。
 適当な所で彼女に宛てた今日のポエムをしめくくると、彼女はいつものように頬を少しだけ赤く染めながら、ほう、と一つ溜息を吐いた。
「ありがとう、郵便屋さん。……今日も差出人の名前は書かれていないのね?」
「どうやらその様で」
「住所も?」
「はい」
 直接渡しているのだから、名前どころかこの家の住所さえ書く必要がない。ただ、きちんと「手紙が来た」と分かるように白紙の封筒に白紙の紙を入れて音を出しているだけだ。
 彼女は「残念だわ」と返すものの、いつもの事なので本当に気落ちなどはしていない。
「いつか何かの間違いで、うっかり書かれていたら良いのに。そうしたら私もお返事が書けるのに……ねえ、本当に書かれていないの? 私の目が見えないからって嘘を吐いてはいないわよね?」
「ええ、誓って。子供だからって、そこまで子供じみた事はしませんよ」
「あらまあ、ふふ。それは失礼。そうよね、貴方はこんなに親切な紳士だものね」
「そうですよ」
 とは返したものの、ぼくは人に褒められる程親切でなければ、紳士という訳でもない。思わず肯定してしまったが、よりにもよって彼女にそう評価をされるのは、とても後ろめたかった。
「手紙の方は、一体誰なのかしら」
 彼女はいつものようにうっとりと手紙の誰かに思いを馳せる。
「随分前に知り合った方だとは思うの。遠方にいて、あまり面識がない人だとも。だって今の私を知っていたなら、毎日こんな私には勿体ないくらいの言葉で口説いて下さるとは思えないし……そもそもきっと、こうして、手紙という形では思いを伝えて下さる事はないでしょうしね」
 こうして誰かに読んで貰わないといけないのだから。
 彼女は少し眉尻を下げて悪戯っぽく舌を出した。
「あえて誰かに読ませる事で、他の殿方に対して牽制をしているのかもしれませんよ」
「あら、だとしたらその方は結構な策略家なのね。まあ実際は、こうして人払いをしてひっそりと楽しませて貰っているのだけど。ふふふ」
「人の口に戸は立てられませんから」
「……貴方、他の誰かにこの事を話しているの?」
「まさか。そうだったら今頃、あなたの詮索好きで口やかましいメイドさんが、今頃あなたを問い詰めている筈ですよ」
「それもそうね。でも、あの子の事をあんまり悪く言ってはいけないわ。私の為に唯一ついて来てくれた、優しい子なのよ」
「すみません」
「いいえ。こちらこそ疑ってしまってごめんなさいね。目が見えなくなったからかしら、何だか前より不安になる事が多くって」
「それはそうでしょう。ぼくの事ならお気になさらず」
 失明したばかりの彼女の絶望は、今でも目に焼き付いていて鮮明に思い出せる。いつも上品で、優雅で、何事にも取り乱す事のなかった彼女は診察の度に涙を流して、時には自傷で手を付けられない事もあった。

 この手紙が届くようになってから、やっと落ち着き始めたのだ。

 ある日から欠かさず届く、差出人不明の恋文。彼女の現状を思い到らしめる内容はどこにもなく、ただ移りゆく季節に恋心を重ねただけの愛の言葉。
 最初は不振がっていたものの、やはり好意を持たれ続けて悪い気はしなかった様だ。丁度その時分は彼女が屋敷を追い出されてここに越して来たばかりの事もあり、彼女にとっては孤独を埋めるのに都合の良いものでもあったのかもしれない。
 生きる希望を取り戻した彼女の笑顔は何よりも美しく、ぼくはただ、それが見たくて堪らなかった。
「私ね、この方にもしも返事が書けるなら、伝えたい事が山程あるの」
 彼女は温かいティーカップで両手に暖を取りながら、言う。
「今はもう残念ながら、貴方の思い描いているような人ではなくなってしまった事。それでも、貴方が毎日くれる手紙のおかげで救われたような気持ちでいる事……何よりも、目の見えない私に季節を教えてくれてとっても感謝しているの。貴方の恋文を通して、私は今でも季節の花や情景がありありと思い出せるんだって。それがめくらの私にとってどれほど素敵で素晴らしい事かなんて、きっと想像もつかないんでしょうけど」
 それでも確かに、私は貴方の手紙に救われていますって伝えられたら良いのにね、と彼女は笑った。
 十字を切ってもいないのに、まるで祈るような囁きだった。
 聖母のような穏やかな微笑。
「……あまり長居をしていると、風邪引きますよ」
 ぼくはようやく、それだけ返した。
「ああ、ごめんなさい。貴方も他の仕事があるでしょうに、長い事引き留めてしまったみたいね」
「いえ、ぼくの事は良いんですが……」
 彼女は慌てて立ち上がり、ぼくがいるであろう方向に手を伸ばす。
 ぼくも慌てて彼女の手を取る。
「まあ、こんなに冷えて。本当にごめんなさい。でもいつも、こうして文字の読めない私に付き合ってくれてありがとう。貴方がいなければ、この楽しみだってなかったのだもの。また……明日も手紙が来たなら、空いた時間で構わないから会いに来て下さいな」
「ええ、勿論。手紙は今日もぼくの所で保管して良いんですか?」
「ええ。今の私じゃ隠し持つ事も難しいから。もしも目がまた見えたなら、きっとまとめて私に寄越して下さいね、小さな郵便屋さん」
「はい、きっと」
 彼女の目が再び世界を捉える日はきっと来ない。
 それでもぼくは毎日このやり取りをして、メイドに用が済んだと声掛けをして帰るのだった。

 ところでぼくは郵便屋じゃない。
 大きなバッグと手紙を持った初対面時の服装から彼女のメイドが勘違いをして、彼女にそう伝えたのだ。ぼくにとっては素性を知られない方が好都合だったので、今に到るまで否定をしていないだけである。
 ぼくは息を切らして自宅へ戻る。「どうしたんだ、そんなに慌てて帰って来て。どこかにぶつけたりするんじゃないぞ」と、別室から父の低い声が聴こえる。「分かってるよ!」とぼくも大声で返す。
 そう、そのくらいの事は幼児の頃から嫌という程分かっている。
 ぶつかって高い薬品を壊したり、ぶつかった衝撃で隣り合わせで調合している薬が混ざってしまったら……命の危機にも及ぶのだ。
 物心つく前から、繰り返し繰り返し叩き込まれた効能と危険性の話。
 ぼくは荷物を置いてから、父の診察室の後ろに回って息を潜める。ここからなら、ガラス越しに患者の顔がよく見える。
 そうして少しした後に、先程ぼくと談話をしていた彼女が診察室へ入って来た。
 相変わらず原因は分からないままで───目以外の異常は見られず───
 医者である父と、いつも通り進展のしないやり取りをする彼女を凝視する。

 名医である父が軽い事故で足を怪我して屋敷に往診出来なかった時、初めて彼女は家に来た。人見知りな方であるぼくは、それでもその頃からこうして診察室の後ろで患者を観察するのが趣味であったのだが───

 一目惚れだった。
 もう一度、彼女の事を見たいと思った。

 ぼくが今まで聞いた薬の効果と副作用について全て忘れず覚えているとは、きっと誰も考えやしないだろう。だからこんな子供が副作用や調合を知った上で、故意に毒薬を作るとも思わないだろうし———今までずっと良い子でいたから、いたずらをすると疑いもしない。
 いたずらをしたのだって、彼女の薬の一回きりだ。
 その一回で、ぼくは彼女の世界を奪った。
 いけない事だと分かってやった。取り返しのつかない事をしたっていうのも、嫌になる程自覚している。ぼくは彼女の絶望を、もう何度も目にしている。
 それでもぼくは、彼女に毎日愛を伝えてその笑顔を享受している。
 彼女へ今なお恋焦がれてしまう事への罪悪感。
 最早ぼくは今後一生、彼女に真っ当な告白など許されないのだ。

 もし本当に、彼女の目に再び光が差したなら。
 許されなくてもその時は、謝罪の手紙をあなたに宛てたい。

サークル情報

サークル名:塩屋
執筆者名:さびき
URL:https://www.pixiv.net/users/15161497

一言アピール
主に年上女性と少年の仄暗い恋愛を中心とした様々な関係性の話を書いています。
単純にハッピーエンド、バッドエンドと言って良いのか分からない話が多いかと思います。
基本的に一話/一冊で完結します。
大体今回の話のような文体で、今回の話のような展開の捏ねくり回し方をしている事が多いです。

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