友人より
学食の手前にはソファの並ぶホールがあり、講義の合間に学生が時間を潰すためのたまり場になっていた。
本やノートを開いて勉強をしているものはごく少数で、おおむね友人同士で雑談をしているか、あるいはスマートフォンを横にして画面を熱心に見つめている。
常に賑やかであるから勉強には適していないので、それは自然なことだ。
自然なことだが、いくら何でも騒がしすぎると感じる日もしばしばあって、稲葉佳矢はここのソファに腰を下ろしたことはまだ一度もなかった。
この日も、佳矢は早々にホールを通り抜けようとしていた。学食も学食でうるさくはあるのだが、食事を摂る場所という名目があるだけ、ホールよりは少しましである。
足を止めたのは、ホールのソファに座るもののなかに、珍しく本を広げている男子学生がいたからだ。
知らない学生だった。跳ねた黒髪に白くメッシュが入っているのも、そのわりにずいぶん大人しい服装なのも目を引いた理由だったが、重要なのは彼が読んでいる本である。
「あの、すいません」
声をかけると、青年はすぐにこちらを向いた。近づく前から、見られていることに気がついていたように感じた。
「その本って、ここの図書館にあるやつですか」
「ああ」
胸元の赤いリボンタイが、本を閉じる動きに合わせて揺れる。
何年生だろうか。白い顔はついこの前まで高校生だったようにも見えるが、その割には堂々としているから、上級生かもしれない。
手の中の本には『▲▲教授退職記念論集』とある。この大学に数年前まで勤めていた教授で、佳矢は何冊かその著作を読んでいたけれど、その本はまだ触れていなかった。
「そうとも、書庫の本。たったいま借りてきたところだ」
「すぐに貸してってわけじゃない」
釘を刺すような相手の言葉にとっさに言い返すと、佳矢はスマートフォンを取り出した。
「表紙の写真、撮らせてもらっていいか。あとで読みたいんだ」
「ふうん……」
じろりと青年の目がこちらを向く。
正面からその顔を見て、佳矢は思わず目をすがめた。瞳が茶を通り越して、血のように赤く見えたのだ。
幸い、相手は佳矢が顔を歪めたのを見咎めなかったようだった。その赤い目を笑みの形に細めて、背もたれに体重をかける。
「うん、それはなかなか感心な学生だな。お前、名前は?」
「……稲葉佳矢」
つまり、その青年が武田真子だった。
◇ ◇ ◇
真子は癖の強い男だった。
褒めるならば、誰に対しても物怖じせず、自分の考えというものを持っている。悪く言うなら尊大で高慢、おまけに口さがない。
相手は選んでいるようだが、むしろその選ぶことによって不公平さが際立った。いつも上機嫌そうに見えたが、愛想の良いままに人を小馬鹿にしてくるのだから、相手をする方はたまったものではない。
客観的に見れば、あまり付き合いたくない人物かもしれない。ただし、佳矢はこの男のことが嫌いではなかった。
初めて会った時、佳矢に対して感心な学生、などと上から言ってきたけれども、そういう意味では真子の方がよほど勉強熱心に見えた。
学生とは思えないほど博学で、今では手に入れるのも難しいような古い本まで手に入れて読み漁っている。話好きで、時代がかった喋り方が不思議とよく似合った。
本当に老人かと思うこともあった。あまり友達付き合いをしてこなかったのか、最近のことは驚くほど知らなかったりする。スマートフォンは持っているものの、よく充電をし忘れて電池が切れており、それで連絡がつかないことがしばしばあった。
それでも約束の時間は守るほうで、付き合いも悪くない。一滴も飲まず少食なのに学部生の飲み会には出てきて、隅の方で酔った学生相手に話をする姿が見られた。その向かいに佳矢が座ることもあったし、真子から話しかけてくることもあった。
「何だ、お前は真面目だが、どうも頭が固いな。
こういうことには、もう少し想像力を働かせねばならないぞ」
「それをするにはまだ勉強が足りない。
真子ほど色々詳しければいいんだろうが、俺には早いよ」
「俺のことは参考にするな。比べものにならんのだから」
謙遜する様子もなく言って、真子は唇を尖らせる。
会って半年以上経ってもその顔からはあどけなさが抜けず、そういう顔をするとひどく子供っぽく見えた。
「そういえば、お前はどのゼミに入るつもりなんだ?」
真子は面倒な人格をしていて、褒めたら喜ぶとか、貶せば怒るというわけでもなく、まったく逆の反応をすることもある。
この時は理由は分からなくとも怒らせたのだと思って、佳矢は話を変えることにした。
だが、変えた先の話題も良くはなかったらしい。
真子はそんなことはいいだろうと少しわざとらしく声を上げて、立ち上がった。
安い居酒屋の電灯の中で、やはり真子の目は赤く煌めいているような気がした。
◇ ◇ ◇
ひどく好き嫌いが激しくて気ままな男だったから、自分が嫌われているということはないだろう、とは思っていた。
周りから見れば、むしろずいぶん気に入られている、と、そういう風に見えていたらしい。
佳矢も、真子と話すのは楽しかった。この時期から就職の話を始めたり、遊びの話ばかりする学友の中で、真子は一番に話が合う相手だったし、彼と話していると勉強になった。
てっきり、院に進んで研究者になるつもりなのだと思っていた。
真子の口から同学年であると聞いたことはなかったが、同じ講義に出ていることがあったし、疑うべくもなかった。
だがそれは、疑うつもりもなく、ただ素直に受け止めれば、の話だ。
あれほど熱心に勉強している彼を、百人単位で集まるような大教室の講義でしか見ないと気がついたのは、半年経ってようやくのことだった。
たまたま同じ講義を取っていないだけだと思っていたけれど、よく考えてみれば彼がいかにも興味を持ちそうなテーマでも関係なく、決まって少人数の際にはいないのである。
あるいは上級生で、同じ講義にいたのは再履修だったのだろうか。あんなに勤勉で自信に満ちた男が?
彼は、いったい何者なのだろう。
真子から封筒を差し出されたのは、その疑問を直接ぶつけるべきか考えている時のことだった。
今時、こうして手紙を手渡してきてもおかしくないような、古風な青年だった。いつもの笑みは鳴りを潜めて、思い詰めたような顔をしていた。
その手紙の内容について、佳矢は立ち尽くしたまま、いくつも想像を巡らせた。
まずはじめに思ったのは、彼と変わらず友人でありたいということだった。
そして、この手紙を受け取ったとき、そこに何が書いてあるにしろ、それまでと同じようではいられないだろうということまでを考えた。彼がそれきり目の前からいなくなってしまうような、そんな気さえした。
「……そうか」
彼のことを本当に考えるのなら、きっとちゃんと受け取るべきだった、と思ったのは、手紙を断ったあとになってからだった。
前言を翻す暇は与えられなかった。飾り気ない白い封筒は、真子の細い指ですぐさま細かく破られてしまった。
「うん。それならそれでいいさ、俺は──」
こちらを見上げる真子の口元には、いつもと同じ軽薄な笑みが浮かんでいる。
◇ ◇ ◇
果たして、望み通りになった。
あれきり真子はあんな思い詰めた顔をすることはなかったし、佳矢もその時抱いていた疑念をぶつけることはついぞなかった。
相変わらず彼との話は得ることが多く、互いに仲の良い友人として接している。何もなかったかのように。
あくまで、そう見えるだけだというのは分かっている。
真子の内心は分からなかったが、少なくともこちらには後悔が棘のように刺さっていて、時折傷んだ。
そのたびに、相手が感じている痛みはこんなものではあるまいとも思ったけれど、今更、元通りになって、何の問題もないように見える関係を崩すこともできなかった。
崩れることがあっても、それは自分の手によってではない方が良かった。
ただ、真子が講義の内容を書きつけるのを見かける時、その神経質に整った細い字を見るたびに、きっと同じ文字で書かれていた手紙の文面を想像せずにはいられない。
そこには、面と向かって話をするよりもずっと、何にも包み隠されていない友人の姿が書かれていたはずなのだ。
それを見る機会は失われた。失われたままだった。
サークル情報
サークル名:イヌノフグリ
執筆者名:ω
URL(Twitter):@UselessArts
一言アピール
イヌノフグリは若い男もちゃんと苦しめときます。
真子の正体は既刊にありますが……