女神のきまぐれ

 手紙が届いた。郵便受けのそばで立ち尽くす。七年間、ひたすらに待ち続けた手紙だ。
 次いで、はっと表書きを隠すように胸先に押しあて、急いで下宿の部屋へ戻る。
 信じがたさと焦れったさにうまく動かない指で封を切る。
 晩秋の夕日は暮れゆくのが早い。遠く稜線に橙を残した空は紫と紺の濃淡。灯を用意するのももどかしく、薄暗い中で目を凝らした。
  婚家を出ました。
  一週間後、あの場所で待っています。
 流麗な一筆と、五日前の日付。指定の日は考えるまでもなく、この日からだろう。
 そして差出人の署名。姓はなく名のみだ。片時も忘れたことのない、すべての中心にいた。
「……稀子まれこ
 その二字に何度も指を這わせ、青柳あおやぎは暗がりで背を丸めて呟いた。

 青柳緑樹りょくじゅは画家である。鳴かず飛ばずの貧乏無名画家だ。それは七年前も現在も変わらない。
 稀子と出会ったのは、まだ大正だった頃。
 人々の憩う大きな公園の池を眺め、青柳はイーゼルを立てて絵の具を広げていた。
 池のほとりで、一人の女性がたたずんでいる。白いワンピースが微風に揺れる。同色のつば広の帽子から流れ出る黒髪は長く、緑がかってつややかに陽光をはじいていた。
 新緑と水面のきらめきと、うら若い乙女。風景画の題材としてはもってこいだ。青柳は目の前の美しい光景を画布に収めようと、パレットに作り出した幾つもの緑の一つに筆先を落とした。
 ただそれだけのことで終わっていたはずだ。春の突風が、彼女の帽子を吹き飛ばさなければ。
 青柳は、とっさに伸ばした手で帽子を捕まえた。
「ありがとうございま……」
 小走りに追ってきた女性が言葉を切った時、青柳は己のしくじりを悟る。指先についた緑の絵の具が、真っ白な布地を汚していた。
 おんぼろ下宿の一部屋を借り(それでも時々家賃を滞らせ)、日々の食費をも削ってなんとか絵の具代を捻出する身の上だ。こんな上質な布を使った帽子を弁償するなんて不可能。
 困り果てた青柳が、指を動かすことも、まして帽子を返すことすらできないまま固まっていると、唐突に小さく声がした。
 見れば、帽子の持ち主である女性が細かく身を震わせていた。絹糸のような黒髪が顔を隠すが、これは……笑っている。鈴を転がすような上品な笑声が、何故だろう、どこか不躾な印象を拭えない。
 ようよう笑いを収めた彼女は、青柳の手からパッと帽子を取り上げると、彼の頭にかぶせ込んだ。
「あげるわ」
「……え!? いや、でも」
 弁償する金もないのに買い取りなど無理だ。ましてこれは女物。いらない、と再度顔を上げた青柳は、またしても固まった。
 目の前に、天女がいた。
 まだ少女の域を抜けきらない容貌。透きとおるように滑らかな白い肌にほのりと色づく頬。長く繊細なまつ毛が縁どる、黒く濡れたようにきらめく大きな瞳。比してやや小ぶりな、すっと通った鼻筋と形のよい唇。
 あぁ、と思う。風が飛ばし、自分が汚したのは、天女の羽衣だったのか。
「その代わり、私を描いてちょうだい。若い絵描きさん」
 言って彼女は可憐に微笑んだ。

 その日から青柳は同じ場所で絵を描きはじめた。風景画ではなく、新緑を背景にした人物画を。
 彼女は、稀子、と名乗った。
 本人から聞いたのはそれだけだったものの、少し調べれば簡単にわかるほど、彼女はちょっとした有名人だった。十七歳になったばかりの華族の娘。貴い家柄とそれにふさわしい高い教養、加えて人目を惹く楚々とした美しさ。才色兼備で、誰がそんな彼女を射止めるかと噂になるほどの人物。そして――近々、とある実業家の元へ嫁ぐ。
 すぐに知らなければよかったと後悔したその情報は、青柳の心に重く影を落とす。稀子本人と会い、彼女を描いている間、世界はかつてないほどにまばゆく輝いて見えた。彼女がいない時、世界はモノトーンへと表情を変えた。
 きっと最高の絵になる。そう逸ると同時に、ずっと仕上がらなければいい、と祈った。
 青柳は恋をしていた。だが、それは彼だけではなかった。
「ねぇ。あなたはいつまで私を待てる?」
 完成した絵を受け取った稀子が訊いた。漆黒の瞳に強い意志の光を宿している。
「いつまでも」
 青柳はためらうことなく返す。
「私は、必ずあなたの元へ行くわ。待っていて」
 その日以来、稀子とは会っていない。

 山奥の小さな宿の一室で、青柳は画帳を取り出し、胡坐をかいて座椅子の背もたれに体重を預ける。ここへは、駆け落ち、と称してやって来た。ちなみに宿帳上では夫婦だ。
「稀子」
「なぁに?」
 窓外では、濃い灰色の闇に周辺の岩や木々が溶け、白い雪が発光するようにちらちらと舞い落ちていく。微かに川の流れる音が聞こえた。
 元号はいつしか昭和へと移り、肘掛窓の縁に座る洋装の稀子は、脳裏に残る姿より大人びている。室内の行灯がほのと照らす横顔は、少女の面影を消し、女の香りをまとう。
 高欄から雪を追い回すように手をひらめかせた後、稀子は穏やかに笑む瞳を真っ直ぐに青柳へ向けた。
「どうして手紙をくれたんだ? 住まいを知っていたなら、直接訪ねてきてもよかっただろう」
 封筒には青柳緑樹の宛名と下宿先の住所が明記されていた。思い出の場所とはいえ、わざわざ待ち合わせることもなかったのではないか。何故、一刻も早く会いに来てくれなかったのか。
「あら、だって、心変わりや別の女性がいる可能性もあったでしょう」
「……そういうことは、婚家を出る前に確認しないか?」
「もう一度あなたの心を私に向ける自信はあったわ。でも、心構えくらいはしてもいいじゃない?」
 彼女はいたずらっぽく微笑みを深め、人差し指を室内に伸ばす。
「あなたはたくさんの手紙を描いてくれたみたいね」
 気づけば、画帳に挟んだ何枚もの素描が膝元から畳へ滑り落ちていた。焦って集めかけ、そのとおりだと手を止める。
 待てと言われた後の日々は、本当にただ待つだけの毎日だった。音信もなく、いつ終わるとも知れず、彼女が本当に言葉のとおりにするという保証もない。疑うわけではないが、常識で考えれば、高貴なお嬢様のほんの気まぐれだったという見方が一番しっくりくる。不安、焦燥、嫉妬、期待、狂おしいほどの愛情と寂寥。宛てもなく言葉に昇華することもない感情は波打ち、渦を巻き、荒れ狂う。捌け口のようにただ記憶の中の彼女を描き続けるより他に、できることなどなかった。
 青柳は、折り重なる紙に目を落とし、口を開いては閉じ、また開いた。訊きたいことがあった。彼女は少し前まで実業家の妻だった。不自由のない豪奢な暮らしを手にしていたはずだ。何も持たない自分の元へ来る。そのことを。
「……迷ったことは、ないのか」
「あるわ」
 即答に顔を跳ね上げる。稀子は小さく首を傾げ、いいえ、とかぶりを振る。ついと外に目を逃がし、遠くを眺めた。
「違うわ、ただ――そう、ただ惑ったの」
 まつ毛の影に沈む瞳。淡い光の滲む頬。ふっと知らない人物を見たような心持ちになる。
 青柳は、何故、とこぼした。
 稀子は再び振り返った。緩やかな足取りがスカートの裾を揺らして畳を踏む。その背後で、風に撒かれた雪が窓から吹き込む。
「愛は、あなたにあげると決めた」
 長い髪が簾のように視界を薄暗くする。なめらかな指に顎を取られ、青柳は覆いかぶさるように覗き込んでくる女の顔を見上げた。
「あなたこそ、いいの? 私はファム・ファタルよ」
 黒く潤むような瞳が青柳をとらえる。それは仏語で、運命の女。
「ファム・ファタル?」
 いいや違う。彼女は――
 否定の響きに、稀子は艶やかな笑みを浮かべる。
「あなたのそういうところが好きよ、緑樹」
 青柳はゆっくりと瞼を落とす。唇に柔らかな熱を感じた。
 ――彼女は、すべてを捧ぐべき女神だ。

サークル情報

サークル名:ひろあんこう
執筆者名:市瀬まち
URL(Twitter):@ichimachi_16_5

一言アピール
古今東西、美女とは謎の多いものですが、稀子を惑わせた何か(と二人の行く末)はほんの少しだけ『スメルスケープ~幻想珈琲香~』に出てきます。気になられた方は、ぜひ。こちらはコーヒーと香りにまつわる現代ファンタジーです。

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