図書室への手紙
運動会がおわったつぎの週から、朝晩はぐっと冷え込むようになった。朝、家を出るとき、まだ寒さに慣れない身体が少し強張るのをむりやりほぐすようにして、歩き出す。
バス停までの道は両脇に巨大な街路樹が茂っていて、秋が深まると毎朝、歩道と車道の境目にまるで打ち寄せる波のように枯葉が積もる。帰るころにはもうなくなっているから、きっと日中にだれか、おそらく専門の業者の人たちが来て片付けて行くのだろう。
余計な心配なのかもしれないけど、ここを通るたびいつもこの樹が、たとえば大きすぎるとか枯葉が落ちすぎるとかで、切られてしまったりしなければいいなあと思う。見上げれば、まだ散っていない葉もたくさんある。茶色と緑の混ざり合った向こうは、高い、青い空だ。
二時間目のあとの長休みにはいつも賑わう図書室だが、今日はどことなく静かだった。廊下がざわめいている気配はするから、子どもたちは外で遊んでいるか、あるいは、なにかほかに行事があるのかもしれない。借りていた本の返却期限が迫った子や、常連の子たちがぽつぽつと訪れ、そして去って行った。
長休みが終わるのと同時に、調べ学習で三年生の一クラスが訪れる。その一団も去り、ブックトラックに溜まった返却本を棚に返し終えたところで、こんこんと小さく扉がノックされた。見ると、そっと開けた隙間から覗いているのは、四年生の瑠奈ちゃんだった。
「先生、これあげる!」
差し出されたのは、四つ折りにされた薄い水色の紙。内側に、なにか書かれているのがうっすらと見える。
「見ていいの?」
訊くと、こくんと頷く。
「でも、あとで見て」
えへへ、と笑い、じゃあね、と胸もとで小さく手を振って、身を翻す。レインボーカラーのハイソックスを履いた足もとが、遅くも速くもないかろやかな速度で階段の方へ行くのを見送った。
ふと時計を見ると、時刻は三時間目のあとの短い休み時間を指していた。この時間は、子どもたちは本当は図書室には来ないことになっている。こっそり渡しに来てくれたのだろう。ちょっとどきどきしながら、きれいに折り畳まれた紙を開いた。
A4のカラー紙に印刷された四角い枠と花のイラスト。その上に、がっこうゆうびん、という文字が見える。最近、子どもたちがざわめいていたのは、このイベントのためだったのか、と気付く。そういえば校舎のあちこちに、郵便ポストを模したような、カラフルな厚紙の箱が設えられていたっけ。
図書室の非常勤職員である私は、図書委員が主催するイベント以外の行事には基本的にはかかわらない。どれだけ外が騒がしくても、どんな日でも、図書室はずっと変わらない。そのことに、ほんの少しだけさみしいような気持ちになるときもある。でも反面、いつも同じであることに、安心できるような気もするのだった。
開いた「がっこうゆうびん」の紙には、瑠奈ちゃんの丁寧な字で、図書室の中谷先生へ、と書かれていた。
《先生、いつも本の貸し出しや返きゃくをしたり、
本をきれいにならべたりしてくれて、ありがとう!
わたしは、図書室が大すきです。
これからも、たくさん本をかりたいです。
かぜをひかないように気をつけて、図書室のしごとをがんばってください。
4年2組 沢井るなより》
瑠奈ちゃんはふだんから図書室をよく訪れ、本もたくさん借りる子だ。ただ、同じクラスの啓太くんのようにカウンターにいろいろ話しに来るタイプではないし、五年生の美璃ちゃんや史帆ちゃんのように、閲覧用のテーブルで友達同士ちいさな声で話しながら過ごしたりするタイプでもない。いつもひとりでひょこっと来て、目当ての本を借りて、そして、じゃあね、と今日みたいにはにかんだような笑顔で小さく手を振って、さっと教室に帰って行く。
図書室の外での子どもたちの姿を、私は知らない。図書室の中での言動や、先生たちの話から垣間見えることもあるけど、でも、本当のことは知らない。子どもたちも、図書室にいつもいる人、というぐらいにしか、私のことは知らないだろう。
それでいいのだと、今は思っている。図書室は、ただここにある。
図書室は異世界なのよね、と言ったのは、去年、定年してしまった養護教諭の瀧川先生だった。
「異世界、ですか」
「ちょっとちがうか、うーん、うまく言えないんだけど……ある意味、保健室もまあ、そうなんだけど、学校の中で、ちょっと特殊な場所じゃない、図書室って」
「……、」
「司書の先生もさ、ふつうの先生とは、やっぱりちょっと、違うでしょ」
「……、はい」
「それも含めて、……中谷先生がいることも含めて、居場所になってると思うわよ、子どもたちの」
図書室は、私の居場所だった。子どものころ。本当は、……本当は、教室に居場所が欲しかった、のだと思う。
苦手だった学校という場所で働くことをなぜ選んだのか、自分でも不思議だった。ここに来るまで、いろいろなことがあった、というほどでもない。ただ、いろいろなことが、うまくやれなかった、それだけ。
図書室の職員は、学校にひとりずつしかいない。一応フルタイムではあるが半年契約の非常勤で、お給料は本当に安い。毎日、先生たちより遅く来て、早く帰る。ほかの学校に勤める同業の人たちは、結婚して子どもがいるか、年配の人ばかりだ。
はじめは冗談まじりで、独身で若いのにどうして、と言う人もいた。でもしばらくすると気を遣われるのか、だれにも、表立ってはなにも言われなくなった。子どもたちに本を手渡す大切な仕事だ、といわれる反面、昇給もなく、ひとりで生計を立てるのはむずかしい仕事。先生たちのように遅くまで残業しなければならないこともなく、きめられた図書室の業務以外の仕事や、責任の重い仕事を任されることもない。
私は、また図書室に逃げてきたのかもしれない、と思うこともあった。安心できる場所に閉じこもって、自分の苦手なことや、できないことから、逃げているだけなのかもしれないと。
そうやって迷っていた私の心に、だからそのときの瀧川先生の言葉は、じんわりと染みわたった。幼かった、教室にうまく馴染めなかった私、その幼い心を抱えたまま大人になってしまった私にとって図書室が居場所であるなら、私に似た、あるいは似ていない、幾人かの子どもたちの、ここが居場所になり得る可能性も、あるのだと。
ふと、思い出した。あのころ、子どもだったころも、同じような催しがあった。あのとき、私にはだれからの手紙も届かなかった。今はもう、そんなふうではなくて、手紙を一通ももらえない子がいないような配慮が、きっとなされているのだろうけれど。自分に配られた紙は、書いたふりをして捨ててしまった。それから今まで、そういえば私はだれかと手紙をやり取りするようなことは、せずに来たなと思う。
初めてもらった手紙、瑠奈ちゃんからの、図書室への手紙を持った指先が、しっとりと温まってくるように感じられた。元通りにそっと折り畳んで、エプロンのポケットにしまった。
司書がエプロンを着けるというのは、別に規則で決められているわけではない。けれどどこの図書館に行っても、だいたい勤務している人はエプロン姿だという気がする。なぜなのか私は知らぬまま、それでも、近所のディスカウントショップで千円で買った青いエプロンを、図書室の中にいるときには必ず着けるようにしている。
*
職員室で給食を食べて戻ると、数人の子どもたちがもう図書室の前で待っているのが見えた。図書委員も先生もいないときは勝手に図書室に入ってはいけません、というきまりを、子どもたちは驚くほどよく守る。
私が近づくのを見て、あっ、と二年生の悟くんが大きな声をあげる。
「先生、もう入っていい?」
いいよ、待たせてごめんね、と声をかけると、やったあ、と歓声をあげて子どもたちは次々と図書室の中へ入って行く。勢い余って走り出す二年生たちに、図書室の中は歩くんだよ、と言うと、あっ、そっかあ、などと言ってわざとスローモーションのような動きをするので、笑ってしまった。
そのうち図書委員の五年生と六年生が訪れ、彼らに貸出を任せて私はカウンターを出る。本を探している子に声をかけたり、棚の乱れたところを直したりしながら、図書室の中をゆっくりと歩いた。
よく見ると閲覧席の端で六年生の女の子たちが楽しそうに、さっき私がもらったのと同じ用紙になにか書いている。互いに手紙を書き合っているのか、大きなペンポーチで手元を隠すようにしている。カラフルなペンが、テーブルの上を彩っている。
窓辺に、瑠奈ちゃんの姿を見つけた。事典用の、ほかより背が低い本棚の上に分厚い図鑑を載せて、熱心に見入っているようだった。
そっと近づいて行くと、ぱっと顔を上げてこちらを見る。淡い水色のリボンの飾られたポニーテールが、ふわりと揺れた。
「ありがとう、お手紙」
言うと瑠奈ちゃんは満面の笑顔になり、そして言った。
「あのね、本当はお友達に書かなきゃいけなかったんだけど、先生に書きたかったの、だから、ひみつね」
頷くと彼女は、えへへ、といつものように照れくさそうに笑う。
窓の向こう、中庭にはもう夕方のような色の、やわらかな陽が差している。昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。瑠奈ちゃんは図鑑をぱふんと閉じて棚にそっと戻し、じゃあね、と小さく手を振って、そしてかろやかに身を翻し、図書室を出て行った。
サークル情報
サークル名:ロゼット文庫
執筆者名:伴美砂都
URL:https://kakuyomu.jp/users/misatovan
一言アピール
カクヨムで連載している図書室シリーズの番外編です(単体でもお楽しみいただけます)。運動会、いまは秋にやらない学校も多いのかもしれないと思いつつ……。よろしくどうぞ。