癲狂恋歌

 大学一年も、なんとか単位を取って進級し、二年になった。二年からは、学科専門の教科を学ぶことになるが、四年になるまで進級試験がないので、黙っていても三年には成れるはずだった。
 だからというわけではないが、透は大学にあまり通わなくなった。講義も受けに行かず、家で心理学の専門書ばかりを読み耽るようになった。しかし、もとより対人恐怖が強かった上の、逃避的引きこもりだったので、精神状態に悪影響を及ぼしだした。
 下宿は八百屋の二階だったが、隣にも学生が住んでいた。その隣の部屋から、声が聞こえだしたのだ。初めは、何だか判らなかったのだが、本を読もうとするとすごく苛々するのである。なんで、本を読むことが苛立たしいのか、僕はこの本を読みたくて買ったんじゃないか、と理性的に考えて読み出すと、ようやく苛々の原因が判ってきた。
 人は、文字を読むときには、こころの中で声を出して読み上げて認識する。それが、読み上げようとすると、それを邪魔するように逐一非難中傷の声が聞こえてくるのである。
 ――農学部の学生の癖して、何でそんな妙なものを読む必要があるんだ? おまえは、専門分野から逃げて、我流で独学している負け犬だ!
 声は、耳ではなく頭に直接響いて聞こえてきた。事実、心理学の専門書には、専門用語が多多出てきて、透の学識ではちんぷんかんぷんなものが多かった。しかし、それでも心理学に固執したのは、ユングもまた、患者と転移を起して半狂乱な心持ちになった上で、それを乗り切ったという事実があるからである。しかし、ユング心理学は難解な著書が多く、なかなかユングの原著をそのまま読みこなせなかった。大まかなことしか判らなかった。
 ユングは、まず第一に「アニマ」との対決をせねばならないと言った。「アニマ」とは、一般の男性の中にある元型のことで、理想的女性像を示す集団的無意識のことである。男性が女性に惹かれるのは、その女性に「アニマ」像を投影するからに他ならない。生まれたとき無だった自分が「男らしく」生きてきたつけとして、集団的無意識として、男性共通の「女らしさ」が形成され、それが相手の女性に投影されるのである。その「アニマとの対決」には、かならず実際の女性との付き合いが、必要とされるということらしい。
 そんなことを勉強する最中、本屋で可愛らしい女性店員に出逢ってしまった。当時は、透は視線恐怖のためなかなか人の笑顔を正視できなかったが、その女性店員は、側面視野で伺う様子では、栗毛で艶やかな髪の毛を肩まで垂らして、にこやかにお客に接する女子高生のアルバイト店員だった。店の教育なのか、お釣りを渡されたときに両手で上下から挟むように渡されたので、その暖かい感触がいつまでも透の手に残り、透は一挙に恋に落ちたのだった。
 透は、彼女に告白しようと思った。それが「アニマとの対決」の足がかりとなり、病気の快癒に繋がるのではないかと考えたからだった。それで、手紙を書くことにした。

 拝啓 初秋の候、貴女にはいよいよ御清祥のことと存じ上げます。
 いきなり、かかる粗文を認めてしまって恐縮極まりないです。御心証を害してしまったなら陳謝いたします。しかし、僕は、一目貴女を目にした日から、貴女のことが頭から離れません。
 貴女の名前すら知らない、ただの客の一人に過ぎませんが、どうしてももう一度貴女にお会いして、貴女とより親しくなりたかったので、このような恥知らずの恋文を書いてしまいました。
 一句詠ませて頂きます。
 あしびきの峰の高みに色添ふるたをやかなるを名もや知られじ
 短歌や俳句の類いは、高校時代に文芸部で囓った程度の全くの素人なのですが、アカデミックな都心の書店に勤める女子高校生のアルバイト店員であれば、おそらく教養も富士の峰ほど高いでしょうので、少し背伸びして詠ませて戴きました。
 僕は、貴女のにこやかな微笑みに、多大な優しさを感じ取ってしまいました。もう一度、貴女に逢いたい。たぶん、書店に行けば貴女にお逢いすることが出来るでしょう。しかし、この下手くそ極まりない恋文を読んで、貴女は僕を軽薄な男と思うかも知れない。一目見ただけで、こんな思慮の足りない手紙を、恥も外聞も無く渡してしまうのですから、そう思われても致し方ありません。
 それでも、僕の中に一度灯った恋愛の炎は、僕のこころのエンジンを駆動して、破廉恥行動に走らせてしまうことでしょう。つまり、このラブレターを手渡しすると思います。
 もし、僕と交際して呉れたら、貴女を幸せにするために、あらゆる努力を厭わないと誓います。
 と言っても、素性の知れぬ相手から告白されて承諾するような女性は居ないと思うので、少し、僕の自己紹介をしておきます。
 僕の名前は、箕崎透です。T県の進学校を出て、国立A大学に入学しました。今年二年生です。応用生物化学科で、遺伝子工学などを勉強して、将来はSF作家になろうと志しています。小説は、高校時代に文芸部に所属していたので、何作か書いて商業賞に応募しました。しかし、箸にも棒にも引っ掛からないのが現状です。しかし、簡単に諦められる夢ではないので、腹を据えて努力していくつもりでおります。
 簡単な自己紹介でしたが、あまりいきなり長文を送りつけるのも不躾かと思うので、この辺で筆を擱きます。もし、交際して戴けるのであれば、文末に書いたアドレスにメールを下さい。つもりがなければ、スルーして戴いて結構ですので、よろしくお願いします。
敬具
名も知らぬ美しき人へ
箕崎透

 透は、この手紙を持って、次の日、新宿まで出てその本屋に行った。しかし、レジの方を伺っても、その女の子らしい店員が見付からず、まだシフトの時間が来ていないのかと思い、雑誌の立ち読みの振りをして、何時間か粘った。しかし、その日はその娘に会えなかった。仕方ないので、日を改めることにして、何日か連続してその本屋に通った。毎日、長時間雑誌コーナーで立ち読みの振りをするのも、店員に変に思われるので、大層時間を潰して待つのに苦労した。毎回、手ぶらで何も買わずに帰っていく透を見て、店員は忌まわしげに不審な視線を隠そうとしなかった。
 そのような視線に耐えて四日目の夕方、ようやく彼女が姿を現わした。何処にでもいる少し可愛いだけの娘ではなく、オーラを発しているかのような美しさだったので、見間違うことはなかった。
 透は、かねてよりこれを買おうと思って決めていた、やたら難しい心理学の専門書を手に取り、レジに向かった。幸い、レジには彼女しかいなかった。
 レジに本を差し出すと、彼女は、輝かしい笑顔で言った。
 「こちら一点で、三八五〇円になります」
 透は、懐から手紙を出して、黙って彼女に手渡した。彼女は、少し怪訝そうな顔つきをしたが、すぐに笑顔に戻って、透に訊いた。
 「これは、何のお手紙ですか?」
 透は、何も考えられずに、口から出たままを言葉にした。
 「貴女が好きです。受け取って下さい」
 すると、彼女は、アフロディーテが実在したら、確かにこのようであろうと思わせるような、透が今まで見た中で最も女性的に美しい笑顔をして、黙って受け取った。
 「本にカバーをお掛けしますか?」
 「お願いします」
 そして、釣り銭を貰うと、彼女は明るく微笑んだ。
 「またのお越しを、お待ちしております。ありがとう御座いました」
 透は、心臓の鼓動が高鳴っていたのを、後から気付いた。返事が来れば良いな、と思った。

サークル情報

サークル名:文藝同人無刀会
執筆者名:大坪命樹
URL(Twitter):@CoterieMutoukai

一言アピール
富山で活動している文藝同人無刀会です。出版社にはすっかり見放されていますが、芸術を追究して日々小説を執筆しております。

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