配達鞄の奥に眠る

 その昔、書店には紙の本が並び、会社では紙の書類が必要不可欠だったという。もう何年も前、歴史の授業で習ったことを思い出す。今では考えられないことだ。そう思いながら落とした視線の先には、自転車の前カゴに取り付けられた看板があった。錆の目立つ白い丸看板の中央には、赤いポストと「杉崎郵便舎」の名が描かれている。
 深緑の配達鞄を斜めがけにし、自転車のサドルへと跨がる。骨董品と呼んだ方がしっくりくる黒塗りのそれは、抗議のように耳障りな音を響かせた。
 昼下がりの通りは、車がひっきりなしに行き交っている。それでも、電気自動車が大半を占める中では、走行音はほとんど気にならない。閑静なという言葉がぴったりな街を、自転車のたてる危なかしい金属音が汚す。視線を感じて振り返れば、母親に手を引かれた少年が、物珍しそうに黒い車体を見つめていた。片手でひらひらと手を振れば、ぱっと母親の後ろに隠れてしまう。喉の奥で一つだけ笑って、ペダルを漕ぐスピードを速くする。
 情報通信産業が発達した現代。あらゆることが電子の海で行われるようになった。家にいながら、誰もが好きな物を買い、通勤の労苦もなく働ける時代。すべての物事がオンライン上で行われ、紙の役割はデータに取って代わられた。需要をなくした紙は高級品となり、今や一部の富裕層だけが手にできる代物になった。当然郵便の需要も減り、俺が勤める郵便舎を始め、多くの郵便屋は金持ちが道楽で出す手紙で成り立っている。

 出発して二時間も経てば、分厚かった配達鞄は薄くなった。すっかり軽くなった鞄を揺らしながら、最後の配達先へと向かう。煉瓦畳みの道を進めば、大きな門が見えてきた。白い塀に囲まれ、大名屋敷のような風格を漂わせる家の前で自転車を停める。桐の門は、外界を遮断するようにぴちりと閉じていた。
〈はい〉
「こんにちは。杉崎郵便舎です」
 インターホンに向かって声を張り上げる。お届けにあがりました、と言い終わらぬうちに、ぶつりと音を立てて通話は切れた。眉を寄せかけ、毎度のことだと慌てて気を鎮める。それからたっぷり十分ほど経った時、門の横の通用口が開いた。かっちりとシャツとベストとを着込んだ男性が、中から出てくる。
「ご苦労様」
 そう言うや、男性は当然のように手を差し出す。銀縁眼鏡の奥の瞳は冴え冴えとしていて、一分一秒でも無駄にしたくないと思っているのが、ありありと伝わってくる。鞄から取り出した手紙を渡せば、神経質そうな細眉が僅かに歪んだ。
「結構。差し戻します」
 数秒も置かず、骨張った手が手紙を突き返す。金木犀が描かれた長方形の中央に刻まれた字は、ミミズのように波打ち、頼りなさげにそこにあった。

 サドルから降り、自転車を押して進む。車一台がやっと通れそうなほど細い道は、両脇から木影が下り、静謐な空気に満ちていた。昼間でもいつも薄暗い道は、液晶画面に慣れきった目を癒し、通るたびに心が落ち着く。白い地面に落ちた木の葉を踏めば、乾いた音が鼓膜を撫でた。
 人気のない通りを、ひたすら真っ直ぐに進む。木影で作られた暗がりに目が慣れた頃、突然視界が開けた。飛び込む陽光に、思わず目を細める。ぼやける視界。徐々に瞼を上げようやくピントが合った時、目の前には白壁が美しい洋館が建っていた。
 青々とした生垣の傍に自転車を停める。鍵をかけ、ポケットに突っ込んだところで音がした。見れば、深い木目の玄関扉の前に、総白髪を結い上げた老女がいた。黒のロングワンピースに白のエプロンを合わせた女性は、俺を見とめると深々と頭を下げる。
「いつもありがとうございます」
 暑かったでしょう。労りの滲む声で問われ、ささくれだっていた心が弛緩するのがわかった。
「涼しくなったとはいえ、まだ暑さが抜けきらないですね」
「そうですねえ。あとで冷えた番茶をお持ちしますね」
 そう言うや、女性は目配せして白壁と生垣の間の細道を進みだす。革靴が芝生を踏む音が響く。それに手繰り寄せられるように、慌てて黒い後ろ姿を追いかける。
 大きな洋館を回り込むと、屋敷に恥じぬ立派な裏庭が眼前に広がった。水をやったばかりなのか、葉についた水滴が陽を浴び輝いている。秋明菊にコスモス、リンドウにオンシジウム。季節の花々が咲き誇る中、視線が一点へと吸い寄せられる。庭の最奥に建てられた白い東屋。この場の主人のように佇むその中に、一人の少女がいた。亜麻色の髪を緩く三つ編みにした少女は、俺の姿を見とめると勢いよく立ち上がる。
「遅い!」
 瞬間、傍のヤマボウシが揺れた。空へと飛び立った雀を見て、女性は苦笑を滲ませる。そして俺に会釈をすると、黒い裾を揺らし屋敷へと戻って行った。
「遅くないですよ。いつも通りです」
「じゃあいつも遅いのよ!」
 頭に響く甲高い声に、額に手を当てる。溜息を吐きつつ東屋に近づけば、少女は見る間に細い眉を下げた。さっきの威勢の良さはどこへやら。迷子のような情けない顔に、口端から笑い声が零れだす。
「……何笑ってるのよ」
「いえ、別に」
 誤魔化しながら、東屋の柱に作り付けられたベンチへ座る。向かい合う形になった少女は、不服げに口を尖らせながらも、真っ直ぐ見つめ返してきた。
「で?」
 短い問いかけ。けれど、この三ヶ月ほぼ毎日繰り返されれば、何を求めているか脊髄でわかる。返事もそこそこに、いつものように配達鞄から手紙を取り出す。開かれた痕跡のない金木犀の封筒を見た途端、彼女の顔がくしゃりと歪んだ。けれどそれは瞬きする間のことで、すぐにその顔には勝気な笑みが浮かぶ。
「今日も差し戻し。本当強情な人」
 花柄のブラウスに包まれた腕が伸ばされる。差し出した手紙を、手荒れなど無縁の指は躊躇いがちに受け取った。咲き誇る金木犀の真下に綴られた宛先を見て、少女は眉を寄せる。
「汚い字……」
 これじゃ無理もないわね。零した言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。
 技術の発達と共に手書きが一般社会から姿を消し、もはや自分の筆跡すら知らぬ者が多い中で、字が美しいことはそれだけで教養と富の証となった。郵便舎に届く手紙も例外でなく、総じて流麗な字で書かれたものが多い。ただ一通を除いて。
「あー! もう、どうしてダメなんだろ」
 堪りかねたように叫ぶと、少女は白石のテーブルに勢いよく突っ伏した。苛立ちともどかしさを表すように、細い足が前後に激しく揺れている。革靴の先が脛を掠め、痛みに思わず声をもらした時、彼女は目だけを上げて傍らの紙を見やった。箔押しのコスモスが咲いた便箋には、その豪奢さに似合わぬ不恰好な字が並んでいる。
「今日の分ですか?」
 茶色い頭が縦に揺れる。毎日毎日、届きもしない手紙をよく書くものだ。妙な感心が胸に浮かぶ。暇なのだろうかとすら思った時、何かを察知したように少女が顔を上げた。
「……懲りないやつと思ってるでしょ」
 榛色の瞳が睨みつけてくる。とんでもないと被りを振れば、瞳に宿る光は剣呑さを増した。暫しの沈黙。硬直。やがて根負けしたように、少女は深々と息を吐く。
「わかってるわよ。どれだけ書いたって、あの人が受け取ることはないし、読むこともない」
 この字じゃね。呟きと共に、白い指先が便箋を摘む。よれよれと波打つ字は、真白の中で泣いているようにも見えた。
 自分を見惚れさせるほどの手紙を書くこと。それが、一大商社を経営する三嶋家の嫡男彰信が、婚約にあたり提示した条件らしい。もはや家格しか取り柄のない笠木家にとってこの婚約は願ってもないもので、全関係者の期待が一人娘である目の前の少女の両肩にのしかかっているのだという。
 微かな鳴き声が鼓膜を揺らした。見れば、ベンチの端に雀が止まっている。掌に乗るほど小さなそれは、何かを探すようにしきりに辺りを見回していた。
「……諦めないんですか?」
問いかけに、彼女は片口端だけを上げる。
「諦めないわよ。この家を潰すわけにはいかないもの。……それに」
 その先は音にならなかった。けれど伏せた瞳が、頬に落ちる睫毛の影が、何を言いかけたのか雄弁に語る。
 冷徹に突き返した手が脳裏に過ぎる。あんな奴のどこが好きなのか。胸に浮かんだ疑問は、声に乗せることは叶わなかった。配達員と利用者。この屋敷に来るようになって三ヶ月が経っても、彼女との間に横たわる距離は一ミリも変わってはいない。届かなかった疑問は喉奥に張り付いて、本当に言いたい言葉を堰き止める。
「だから今日もよろしくね」
 見つめる榛色は、太陽よりも強く瞬いていた。
 封筒に向き直った彼女は、テーブルに投げ出していたペンを手に取る。一文字一文字確かめるように、見慣れた住所が、見慣れた不恰好な字で綴られていく。銀のペン先が三嶋の名を書き始めた時、思わず視線を逸らした。
 好きです。
金で引かれた罫線の上、衒いもなく刻まれた言葉が目にとまる。変に波打って、一字一字妙にサイズの違う相変わらず頼りない字。汚いと一蹴されるそれを見るたび、安堵する者がいること。変わってくれるなと願う者がいること。どんな美しい字でも覚えなかった愛しさを、胸に募らせる者がいることを、いつまでも彼女は知らぬままだろう。
「よし」
 独り言めいた呟き。キャップの閉まる音。紙がたてる摩擦音。風に紛れそうなほど微かなそれを、意地悪な耳は一つ残らず拾い上げる。伏せた視線を上げた時、少女は緊張を顔いっぱいに広げ、俺を見つめていた。
「……お願いします」
 薄く桃色がかった封筒が差し出される。丸い爪の指先は白く色が変わっていた。柔らかな色合いの中で、その白だけがやけに鮮烈に視界に映る。
「ご利用ありがとうございます。杉崎郵便舎がお預かりします」
 お決まりの口上が唇から滑り出る。受け取った手紙は鉛より重く、薄桃を揺蕩う字は金塊より貴く、胸奥に巣食った想いが声を上げる。行く宛のない叫びは、今日も誰にも届かぬまま、手紙と共に配達鞄の奥へと舞い落ちた。

サークル情報

サークル名:波色水晶
執筆者名:法田波佳
URL(Twitter):@nammmmika

一言アピール
少年少女の物語と、愛し合う2人を好んで書いています。愛か恋か、はたまた友情か。名前のつかない想いを描くのが好きです。ハピエン率高し。テキレボEX2では新刊として、主催中のアンソロジー「同じ日日記」(総勢22名の8/22の日記と小説を集めた作品集)と個人誌を発行予定です。

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