もしも僕が君より先に死んでしまったら

 ある夏の日のことだ。
 夫のイルタとイルタの弟のルスカが、噂のエーデマルク人宣教師に会うと言って村を出ていった。これは基本的に異民族を嫌うスオラの民にしては進歩的なことだ。
 とはいえ、当事者の妻であるケサとしては、大事な伴侶が得体の知れない異民族に会いに行くなんて、と思うと気が気ではない。しかしそう言って突っかかっていって相手と喧嘩になれば夫に迷惑をかける。
 叫び出したいのを堪えてふたりを見送った。出発を見届けてからベッドの上でのたうち回った。
 イルタが異民族に捕まって何かされたらどうしよう、イルタに手を出すようなら殺してやる――という物騒なことを考えて一日悶々と過ごす。こんなことならやはりついていくべきだったか。
 彼がどこで何をしているのかすべて知りたい。誰とどんな会話をしたのかすべて把握していたい。彼はケサのものなのだ。
 そんなケサの心配もよそに、夕方、イルタとルスカは能天気な顔で家に帰ってきた。
「ただいま」
 嫌なことがあったわけではなさそうだ。むしろ楽しかったのであろうか、ルスカは早口でこんなことをまくしたてる。
「字を教わった。エーデマルク語というのを聞いたぞ。スオラの民のことばも字で表せるって。宣教師が書いてくれた。俺の名前! 俺の名前が世に残る。これはすごいことだケサ」
「何が言いたいのかぜんぜんわかんねえ」
「だから、俺習いに行く。イルタもいいって。俺勉強しに行くから」
「ルスカ、落ち着いて」
 イルタが食卓につく。土産のパンとチーズをテーブルの上に広げる。夕飯だ。
「ええっとね、順を追って説明するとね――」
 彼が言うには、こうである。
 エーデマルクのことば――エーデマルク語――には、文字、というものがあるらしい。紙にペンを使って文字を書くことによって、ことばを記すことができる。文字の羅列によってことばを紙の上に表現でき、保存することができるのである。
 文字の読み書き、という概念のないスオラの民にとっては、衝撃的なことであった。
 ことばを保存することができる。
 なんと画期的なことか。
「どうやらスオラの森の外では広く一般的に行われていることらしいよ。異民族の多くは自分たちのことばをアルファベットというもので表現するんだとか」
 ルスカが呪文を唱え始めた。
「アー、ベー、セー、デー、エー、アェフ、ゲー」
 歌うようなその声に、イルタが苦笑する。
「文字の読み方らしい」
「ほー」
「そのエーデマルク人の宣教師が言うには、エーデマルク語の文字であるアルファベットを使ってスオラのことばも表現できるそうだよ。すでに都や大きな町では始めていることだって。この辺の地域でもやってみないか、と言われた」
「それで、ルスカはやる気になってんのか」
「そう。文字を覚えてスオラのことばを紙に書いてみたいんだって。やる気満々だ」
「どうすんだよ」
「まあ、気が済むまでやらせてみようかな。僕も保護者としてついていくことになってしまうと思うけど――」
 はっきり言われてしまった。
「留守番よろしくね」
 ケサは唇を引き結んだ。
「おう……」

 それからしばらくイルタとルスカは隣村の宣教師のもとに通った。
 宣教師は気前が良く、イルタとルスカにノートという紙の束とペンという文字を書くための道具を与えてくれた。ルスカはたいへん気に入って毎晩ノートとペンを使って文章の練習をした。スオラのことばはすらすら書けるようになったようだが、エーデマルク語はまったく未知のことばなので難しいらしい。それでもルスカにとってはいいパズルなのかもしれない。ルスカは昔からひとり遊びが得意な子で、放っておけばひとりでそうやって遊んでいる。
「ちょっと悩んでるんだよね」
 夕食の席で、イルタが溜息をついた。
「僕、あまり向いていない気がして、ルスカほど楽しめなくて。自分がこんなに勉強ができないとは思っていなかったよ」
 ケサは勢いよく立ち上がった。
「辞めちまえ! ルスカに付き合って無理をすることない」
「でもそうなるとルスカひとりを宣教師のところに通わせることになってしまうよね」
 そう言われるとケサも困った。ケサとしてはルスカをひとりで放り出すくらい何でもないが、そう言うと悲しむのはイルタである。イルタからしたらルスカはこの世で唯一のきょうだいであり、心から大事に思っているのだ。
 イルタが悲しむとケサも悲しい。イルタの喜びはケサの喜び、イルタの悲しみはケサの悲しみなのであった。
「一対一になることもないんだけどね。エーデマルク語を習いに何人も――全部で八人かな? スオラのこどもが通っているから」
「じゃあ大丈夫だろ。ルスカが完全にひとりになるってんならあたしも心配だけど」
 というのはイルタを悲しませないための口から出まかせで、この子がいなくなればケサは晴れてイルタとふたりきりになる。ケサはイルタを独占したいのである。
「宣教師もいいひとそうだしなあ。エーデマルク人にこんなに善良な人がいるのか、と思うと意外だな、というくらい」
「じゃあそいつに任せよう。ルスカがやりたいことをやるんだしいいだろ」
 勢いに任せて、拳を握り締めた。
「お前もさあ、ちょっとは気を抜いてさあ、ルスカのすること一から十まで見守らなくてもさあ。ルスカももう大きいんだし、そろそろお互い独り立ちするべきなんじゃないの」
 そう言うと、イルタが細く息を吐いた。
「そうかもしれないな。僕がルスカを束縛していると思われるのも嫌だしなあ」
 いい感じである。
「決まりだ。ルスカをひとりで宣教師のところに通わせる」
「そうだね、そうしよう。僕は次回を最後にして、挨拶をして辞めてくるよ」
 ケサは両手を挙げて喜んだ。

 その三日後、イルタは変わったつくりの紙を持って帰ってきた。折りたたまれ、のりで角を貼り合わせた四角いその紙のかたまりを、封筒、というらしい。
「最後に、と言ったらプレゼントしてくれたんだ」
 そう言って微笑むイルタを見ていると、ケサは胸が痛む。宣教師とやらは、イルタとの別れを惜しんでプレゼントをくれた、と思うと、ふたりの最後が平和だが悲しみに満ちたものであったことがうかがい知れた。
 向いていないかもしれないと言ったあの時、イルタは本当はどう言ってほしかったのだろう。続けるべきだと言っていたら、何かが変わっていたのではないか。ケサの、イルタに家にいてほしい、イルタを独占したい、という気持ちが彼を苦しめていないか。
 彼の交友関係はどうでもいいが、彼が傷つくところは見たくなかった。彼は優しいひとなのだ。彼は誰にでも分け隔てなく接するひとなのだ。
 だからこそ自分だけにその優しさを向けてほしいという気持ちと、村のみんなに愛される彼のままでいてほしいという気持ちと、彼自身を大事にするためにもそういう世界を大事にしてほしいという気持ちと――胸の中がごちゃごちゃする。
 夕飯を片づけてテーブルが空いた時、イルタがペンとインク壺を持ってきて、紙に何かを書き始めた。
「なに書いてるんだ?」
 イルタは何のこともなく答えた。
「手紙」
「てがみ?」
「ひとに気持ちを伝えるために書く紙のことだよ。文章を書いておいて、後から渡すんだ」
 ぎょっとした。
「誰か、気持ちを伝えたいひとがいるのか?」
 自分以外に、と思うとつらい。イルタを独占していたい。イルタの気持ちが他人に向いているところを見たくない。
 そんなケサの心を読んだかのように、彼は微笑んだ。
「未来のケサに宛てて」
「未来のあたし?」
「そう」
 次の時、ケサは胸が締めつけられるのを感じた。
「もしも僕がケサより先に死んでしまったら、後のことが心配だから。僕が確かにここにいて、ケサのことを想っていたと、僕がいなくなったあとのケサの将来を心配していたということがわかるように」
 その微笑みが、美しい。
「僕はねケサ、君より長生きしたいと思っているんだ。でないとケサ、後追いしかねないから。僕は最後の瞬間までケサの手を握って、ケサを見送ってから、ひとりでケサとの思い出に浸りながらひっそりこの家で老後を過ごしたいな、と思っているんだよ」
 その光景が目に浮かぶようだ。
「でも、万が一のことがあったら」
 はあ、とわかりやすく息を吐く。
「もしその時が来たら、この手紙を開いて。生きている時の僕からのラブレター。ケサが道に迷いませんように、という祈りを込めて」
 たまらなくなってイルタを抱き締めた。イルタが小さく笑った。
「大丈夫だよ、心配しないで。別にどこか調子が悪いというわけじゃないんだ、怪我も病気もしていないよ。ただ手紙をあげる相手というのがどうしてもケサしか思いつかなかっただけなんだよ」
 華奢だが大きい手が、ケサの肩を叩くように撫でる。
「ねえ、わかってよ、ケサ。僕にとってケサより気持ちを伝えたい相手なんていないんだ」
「わかってる、わかってるよ」
「ケサもそうでしょう? ケサも僕のことをそう思ってくれているでしょう?」
「当たり前だろ!」
 彼の肩に顔を押しつける。ともすれば泣いてしまいそうだ。
「イルタ、すき。世界で一番すき」
「知ってる。僕もだよ」
「あいしてる。本当に、心から」
「僕もだよ。ねえ、ケサ。僕もだからね」
 体を離した。そしてそっと、その唇に口づけをした。イルタがまた小さく声を上げて笑った。
 この時間が永遠に続けばいいのに、と思う。こんな平和で愛に満ちた時間が、永遠に続きますように。
「というわけで、ケサも勉強してね」
「そうきたか!」

サークル情報

サークル名:イノセントフラワァ
執筆者名:丹羽夏子
URL(Twitter):@shahexorshid

一言アピール
歴史を題材に取りつつファンタジー要素をこれでもかと詰め込んでそれっぽく仕立てた小説を頒布しています。今回の新刊はこの作品はぜんぜん関係のないアラビアンです。ちなみにルスカは便宜上弟扱いをされていますが本当は両性体で「ルスカ」本編後は女性として生きていきます、性描写があるので気をつけてくださいね。

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