枇杷

キーホルダーの中からひとつを選び、鍵穴に差し込んだ。
桜の花びらが舞う。外から別世界に入り込んだようにそこは、冷たくてしんとしていた。
わたしの後ろで不動産業者の川村が見回す。
「きれいにお住まいになられていたんですね」
壁や天井は経年劣化による偏食はみられても、傷などはほとんどなかった。
次々に部屋の扉や雨戸を開け放す。冷ややかな世界にまぶしいばかりの日が差し込んだ。二階に上がって同じようにすると、窓から雑草で鬱蒼となっている庭が見えた。あの梅や槇の木は母が生存していたら初冬には剪定を依頼していたものだ。それが今は枝が伸び放題になってとうとう道にはみ出している。その場所で入学式や卒業式には生前、カメラ好きだった父が記念撮影をしていたのを思い出す。
「二階は六畳間が三部屋ですか」
川村が値踏みするようにきょろきょろし、窓の外から庭をのぞんだ。
「大きな木がありますね。あれは処分されますか」
処分、の二文字に胃が重くなる。
「いいえ。庭付きの一戸建てなので。これも込みでお願いできますか」
川村は軽くうなずいた。
「やぁ、しかし。ここはいいですねぇ。駅も近いし。車庫も広めにとってある。角地だし」
だが売れる、とは言ってこない。
「内覧会をさせていただいてもいいですか」
家具も白布を被せてあるのでそれは差し支えない。承諾すると、川村は今日中にインターネットで公開すると答えた。
「斜向かいの家も売りに出されてすぐに買い手がつきましたからね。値段次第にはなりますが、期待されていいと思いますよ」
そう。斜向かいの蓮川邸もすぐに買い手がついたのだ。それでこちらも売る気になった。誰もいないのに表札はあげているから、たまに来たらチラシ類などで郵便受けがいつもいっぱいなのだ。このままでは防犯上でも心配だった。
「御社が手がけたんですか?」
いいえ、と川村は首を振った。
「この業界は広いようで狭いので。調べようと思えばすぐにどこの業者が関わったかはわかります」
「あの。それっていかほどで売れました?」
俗物っぽいなと思ったが、ここは昭和五十年代に父が建てたものだ。当時で三千五百万円と聞いている。できればそれを割りたくはなかった。
「ここだけの話ですよ」
川村は我々以外誰もいないというのに声を潜めた。
「四千だったそうです」
さらに川村は取り繕うように、ここは角地だからもっといけるかもと無責任なことを付け加えた。かつてバブル絶頂期に父が「今ここを売ったら一億」と戯言を言っていたが、内心そこまで値崩れしたかと苦笑する。こちらを見ていた川村が首をかしげた。
「失礼。では、五千で売り出していただいていいですか」
「そうですねぇ。それで買い手がつかなかったら値引きすることも考えておいてください。はっきり申し上げて上物の価値はありませんし」
「え。価値がないって」
「もちろんタダって訳ではありませんが。価値があるのは利便性のある六十数坪の土地と角地という意味ですよ。この家だけですとだいたいがんばって……五十くらいでしょうか」
思わずため息が出た。確かに古い物件だが十分住むことはできる。まったくの無価値と言われているようで気分はよくない。だが不動産業界では常識だと言われたら黙るしかなかった。
「平面図と価格、そして富田さんの条件を入れて公開します。玄関の鍵をお預かりします」
かねてより言われていたのでスペアキーを預けると、彼はそれをボックス型南京錠に入れて、といの金具にぶら下げるように設置した。
「弊社だけではなく、他社も立ち入る可能性もありますので。あと暗証番号は――」
口頭で言ってくるので念のため手帳に書き留めた。
川村が帰ってしまうと、しんとした静寂が襲ってきた。窓を開け放しているのでよどんだ空気はないが、かつて自分が住んでいたにおいやなじみきった雰囲気はなかった。懐かしいが自分の場所ではない、そんな感じだ。
ダイニングキッチンへ行き、テーブルに掛けてうっすらと埃が張った白布をそっと取り払った。とりあえず椅子に座って大きくため息をついた。
先日、空気の入れ換えを行った際は気づかなかったが改めて周囲を見ると、家財道具がそのままになっている。水道も電気も通したままだから、冷蔵庫の低くうなる音だけが大きかった。ここが売れるようなことになったら、当然すべて片付けなければならない。亡き両親は捨てることができない人間だったからこれからのことを考えてぞっとした。
バッグからスマートフォンを取り出して、妹のせりかへ電話する。
十鈴くらい待っていよいよ切ろうかと思ったときに、やっと寝ぼけたような声が聞こえた。
「あんたこの時間まで寝てたの」
せりかは素直に謝ってきた。
「ちょっと頭痛がして。まぁ、たいしたことないけど。それよりもなんか用?」
実家を売りに出した旨を説明すると、彼女はあまり興味ないように「ふーん」とだけ返事をした。
「それだけ? やけにあっさりしてるのね」
「この間の一周忌で話し合いしたじゃない。いつ売るのかって思ってたわよ。ちょっと寂しい気もするけど」
「そりゃわたしだって……じゃなくて。ちょっと実家がやばいくらいモノがあると思うの。売れてからでは引き渡しまで時間ないだろうし、一緒に片付けてくれない?」
電話口から大きなため息が聞こえた。
「全部捨てたら? ほら、遺品整理のチラシがよく入ってるじゃない」
明らかに面倒くさがっている。整理整頓が苦手なせりかのことだ。きっと彼女の家も片付けが行き届いていないに違いない。独身時代からその気はあった。
「気が進まないならわたしから安藤さんへお願いしたっていいのよ。実家の整理にあなたの嫁を借りたいのですがって。それにあなたのモノだってあるんだからね。昔の写真やたくさんのマンガ本。あれ、バイブルって言ってなかった?
全部捨てていいわけ?」
一気にまくしたてると、電話の奥からうなるような声が聞こえた。
「わかった……わかったからもう皆まで言うな」
「わたしも片付くまで泊まり込む覚悟を決めたから。安藤さんとあすかちゃんにうまく言える? また改めて日にちを決めよう」
通話を終えると、また冷蔵庫のうなり声が大きくなった。この場所だけでもモノに溢れている。水屋を見てみた。母の趣味で買い集めたウェッジウッドのティーセットの隣にはガラス製の洋菓子屋のプリン型がふたつ、その奥に縁の欠けたブランド物の皿が重ねてあった。他の段にも百円ショップで買った皿などがある。見える範囲だけでもぎっしりと入っており、押しつぶされそうだ。
冷蔵庫を見てみると、ほとんどモノは入っていない。調味料の他に保存の利く茶葉やペットボトルの飲料が未開封のまま並んでいた。
その中からコーラを取り出して蓋を開ける。ひとくちふたくちそれを飲んで手帳を広げた。いつ売れるかわからないが、梅雨に入る前には片付けを完了させていつでも明け渡しができるようにしたい。
せりかと一緒に二週間でできるだろうか。いや、この家を甘く見てはいけない。モノを捨てることに対して嫌悪感すら抱いていた両親だ。蓋を開けて夥しい量の荷物が出てきたらどうする。
「……一ヶ月は欲しいか」
手帳を閉じて立ち上がった。五月末までには済ませることを目標にしてみよう。
コーラを飲み干して各部屋の収納庫や押し入れなどを開けていく。予想通りモノが、しかも雑多に押し込んだように詰め込まれている箇所もあって、これを絡まった毛糸玉をほどくように整理していくのかと思うとぞっとする。せりかの言うとおり、遺品整理の業者に丸投げしたい気持ちも理解できる。だが――これは遺族の仕事だと思った。

五月の大型連休後。再び実家を見上げた。
庭の木はさほど変わっていなかったが雑草は明らかに増えている。バッグに入れていたスマートフォンが鳴ったので取り出すと、せりかからのLINEで「あと半時間で着く」とだけ送られてきた。それにかわいいタヌキが親指を突き上げた絵柄で「了解!」と書かれたスタンプを選んで送信する。
家に入り締め切っていた雨戸をすべて開けて、空気を入れ換えた。
この家はダイニングキッチンが六畳、和室六畳が五部屋、洋室が一部屋。洗面所、浴室、トイレ付きの六DK木造物件になる。モノが大量だということを考えても一部屋ずつ片付けていかなくてはならない。まず客間として使っていた和室六畳間へと足を踏み入れた。ここは比較的モノが少ないと思われ、とっかかりには丁度良いだろう。
押し入れを開けると、思わずうなった。
上段はいっぱいに布団が詰め込まれている。下には大きさの違う段ボール箱が占めていた。
「いったいなによこれ……」
両親はこの段ボールの中身を知ってて収納したのか、それとも取り急ぎしまい込んで忘れているかのどちらかだとは思った。とりあえず布団を二人分出して二階の窓に掛けて干す。布団も捨てるか、欲しい人がいたらクリーニングして譲るかしたほうがいい。
チャイムが鳴ると同時に門扉を開けて入ってくる気配を感じた。玄関まで行くと、ちょうど鍵を開けて入ってきたせりかと目が合う。
「お姉ちゃん、久しぶりー」
せりかとは半年ぶりに会うが、髪が伸びゴムで後ろにまとめていた。赤いセーターにベージュ色のジャケット、ジーンズというカジュアルな装いだ。
「お疲れ。悪いけど荷物置いたらこっち手伝って」
気の抜けた返事が返ってきたが、すぐにジャケットを脱いで姿を現した。
下段の箱の中身は何かと思ったが親族や知り合いの結婚式でもらった引き出物がそのままの状態で詰め込まれていた。洋皿やお盆、ティーセットもある。すべて新品で水引ののし紙もかかったままだ。
「まぁお母さんの趣味じゃなかったよね、これ」
せりかがティーセットや食器類を前にため息をつく。
「捨てるのももったいないし。フリマアプリにでもあげる?」
「まぁご近所さんで欲しい人がいなかったらそうしよう」
押し入れの上段は布団が積まれているが、大昔の綿布団で子供の頃に掛けてもらった記憶がある。乳幼児に掛ける大きさで、元々は白い布団だったのだろうがもう、すべてベージュ色に変色していた。よくこんな状態になるまで置いていたものだ。他も昔使っていた綿の掛けと敷き布団だ。せんべい布団よろしく譲ることなど思いもつかぬほど固く、端がすり切れている。そういった再利用が難しいモノはすべて、粗大ゴミにするようにした。
「せりか、わかってると思うけど。思い切って捨てることが大事だからね」
彼女はわかっているのかいないのか、うなるだけでごそごそと小さな木箱を漁っている。
「ちょっと、聞いてる?」
「お姉ちゃん、これを見て」
「……なに」
大きめのマスクをかけたせりかが長方形の木箱を差し出した。
「箱? なんなの。いらないなら――」
「ちがう。中身」
首をかしげて中を見ると――手紙の束が入っていた。
「手紙……? お父さん宛だよね」
せりかはうなずいた。「差出人見て」
言われて裏面を見ると「田端霞渓」とあった。筆で書かれており、流麗な字だ。
「知ってる? めっちゃ来てる。それにこのひと、なんて読むの?」
見覚えのない名前だ。父の葬儀の芳名録にも載っていなかった気がする。最古の封筒は変色が激しく、五十円切手が貼られていた。消印はかすれていたが五十二が見て取れる。切手は毎通デザインが違い、最新のものは八十円で終わっている。
「最後は平成十年……なんでこんな古いのを後生大事に置いてるんだろ」
「あんただって学生時代にもらったラブレター、嫁に行くまで取ってたでしょ」
「う」せりかはばつが悪そうに咳払いした。
「まぁお父さんの友達かな。筆まめだったし。それより読んでたら片付けが終わらないでしょ。興味あるなら休憩のときにして」
せりかは肩をすくめて木箱を傍らに置き、片付けを再開させた。それにしても引き出物関係が多い。中身を確かめて、欲しければ我々で使うようにして、あとは譲るかフリマアプリを利用してもいいかと思った。
午前中は押し入れ上段と下段の半分を出せた。思ったよりも時間がかかったので先が思いやられる。洋室には収納こそないが、もはや使えないブラウン管テレビや動かなくなったビデオデッキ、ソファが鎮座している。
そろそろ昼食にしようと、せりかを誘って近所のうどん屋へ食べに行った。待っている間も彼女は田端さんのことが気になってしょうがないようで、わたしが取捨選択している間に少し読んだらしく、二週間に一度、空いていても一ヶ月に一度の頻度で便りをよこしていたようだと、どこかわくわくしたような表情で茶をすすった。
「田端さんの素性はともかく。今は片付けを優先してよ」
「んもう。二言目には片付け片付けって。売れればわたしだって慌てるけどね。売れそうなの、うちの家?」
わからない、と首を振った。
「ネットの反応はいいらしいけど。公開してすぐ内覧の申し込みがあったみたいだし」
「マジ? あー、でもうちって駅チカだし快速停まるし興味持ってくれる人はいるかもね」
運ばれてきたうどんを食べる。せりかではないが、田端さんという人物が気になった。頻繁に手紙のやりとりをするほど懇意にしていたのだ。父宛の年賀状までは確認しないが、ぷつりと音信が途絶えたのが気になる。母が健在なら何か知っていたかもしれないが。
「亡くなってるのかもね」
うどんを食べて一息つくと、せりかが首をかしげた。
「田端さんよ。急に手紙が途絶えたんだとしたら、もういらっしゃらないかも」
同じことを考えていたようで「うん」とだけ返ってきた。
「食べたらもう行こう。売れるときは急だからね」
わたしたちはその名前に触れることなく黙々と片付けをこなした。
それでも一日一部屋を片付け切るのは不可能で、捨てるには惜しく、誰かに貰ってほしいモノを置くためのスペースが和室の四分の一を占めた。
夕食はスーパーで弁当を買ってきてふたり向かい合って食べた。続きになっている六畳間ではプラズマテレビがついて、ニュースが読まれている。
先に食べ終えたせりかが例の田端さんの手紙を開いている。読み進めていくうちに、彼女の眉間に皺が寄りだした。
「変なこと書いてあるの?」
「いや……身辺のことばかりだねぇ。この田端さんの日常っていうか。季節の挨拶と、庭の花がきれいに咲いたとかそういうことをわざわざ書いてよこすかなぁ。字はとてもきれい」
「それが月に一、二度?」
せりかが他の手紙に手を伸ばし、開けると首をかしげた。
「……これなんか達筆すぎて読めない」
「どれ」
手紙を受け取ると、確かに。意味不明の文字でまったく読めない。所々漢字があるからその部分だけ読めるものの、枇杷だの薔薇だのと植物のことだけだ。
「変体仮名ってやつかな、これ。ずっと前にお父さんが見せてくれたことある。でもこれ、けっこう崩してるし読みにくい……」
「仮名なんて素直に書けばいいじゃん……なんでわざわざ変にするの。何通か見たけどたまにそんなのが入ってる」
せりかが突然ひゅっと息を吸い込んだかと思うと激しく咳き込んだ。顔を真っ赤にして胸を押さえ、聞いているこちらが辛くなるほどの咳が続く。湯飲みの茶を握らせた。
「……まだ治ってなかったの」
声を出せずにひゅうひゅうと苦しく呼吸しながら首を振る。少しずつ茶を飲んで大きくため息をついた。
「たまに出る。お母さんにはいやがられたけど……咳喘息はいきなりだから仕方ない」
この子は昔から気管支が弱かった。幼少の頃は小児喘息に悩まされていた。成長とともに徐々に回復して完治したと思っていたのに。今は季節の変わり目やストレスで咳き込むのだと説明された。
「小さい頃は、よくお母さんに枇杷を剥いてもらってたっけ。咳に効くって」
「え……?」
「いやだ、覚えてないの。咳があまりにひどくって、お母さんが枇杷を買ってきてあんたにだけ食べさせたのよ。おかげでわたしは枇杷なんて食べた覚えないわ。そういえば梨もあんた優先だったっけねー」
「お姉ちゃん、食べてなかったの?」
初めて聞いたように目を丸くされたので、反射的に首を振った。
「いや。食べてないは言い過ぎた。けど、しんどそうなあんたを心配してたんでしょうね。やっぱりほら、咳は乾燥が原因のひとつだし」
せりかは再び田端さんの手紙に視線を落とした。
「これにも枇杷って書いてある。平仮名は読めないけど」
「ふーん?」
消印を確認したら昭和六十三年五月一日となっていた。
「ちょうど枇杷が出回る時季だから。たぶん田端邸には枇杷の木があって実がついたとかそんなんじゃないかな」
せりかは手紙を封筒に入れた。
「なんか今日は田端さんを気にする一日だったね。ずっと前に亡くなってるなら、葬儀になんの連絡がないのもわかるし」
「年賀状が出てきたら念のため見てみよう。それよりも咳、だいじょうぶなの」
「んー、まぁ。マスクしてるし。お姉ちゃんもしたほうがいいよ。埃で気管支やられて風邪ひくこともあるし」
「その状態で風邪引いたらえらいことだねぇ」
さて、と椅子から立ち上がった。
「お風呂わいてるから先に入って。明日は二階の部屋をやっつけようか」
「待って、あすかに電話するから」
言うなりスマートフォンを操作する。わたしはテレビの音量を下げて食べ終わった食器を片付けた。
「あっちゃん? ママだよー。そっち変わりない? ごはんちゃんと食べた?」
話の内容は家のことに終始し、最後に「助かるわぁ」と笑って電話を切る。
「あすかちゃん、しっかりしてるのね。もう就活始まってるでしょ」
「母親はのんびりしてるのにねぇ。家事もしっかりやってくれるから楽で楽で」
「……たまにはやりなさいよ」
「さ、お風呂お風呂」
せりかがそそくさと席を立ち居間を出て行くと、自宅へ電話をかける。夫はすぐに出た。のんきな声なのでやや上機嫌に思えた。夫の声とテレビの音が重なって聞こえる。わたし宛に届いた郵便物の差出人を読み上げてもらい、ダイレクトメール関係はすべて捨てるようにお願いした。彼は他に変わったことはないと締めくくる。
「不便をかけてごめんね」
「家事は適当にできるから気にすんな」
「飲み過ぎちゃだめよ」
かまを掛けてみる。電話の向こうで乾いた笑い声が立った。「ばれたか」
「明日も仕事でしょ。居間で寝ないでちょうだいよ」
夫は面倒くさそうに答え、無理するな、と返してきた。
「葬儀のときも動きすぎて終わった途端に目を回してたからな」
今度はこちらが笑う番だった。

片付けは順調に進んだ。作業の途中で不動産業者が内覧希望者を連れて訪問してきたこともあったが、彼らは我々に会釈しただけで家をじろじろと見、庭の広さを確認して帰って行った。売れるかどうかはわからないが、値踏みされているのを感じるのはなんとも言えぬ居心地の悪さがあった。
しかし実家の片付けとは、遺跡の発掘のようだ。
収納を開ければ開けるほど驚きの連続で、わたしが幼少の頃に使っていたおもちゃが出てきたときにはせりかも目を丸くした。
「懐かし! ママレンジ! 昔これで目玉焼きつくったよね、お姉ちゃん?」
せりかが直径十センチメートルのフライパンを矯めつ眇めつ眺めた。そう。コンセントから電源を取れば目玉焼きやホットケーキが焼ける。全長三十センチメートル弱のミニキッチンだ。当時結構高かったと思うが、みんな持っているからとおもちゃ売り場から離れなかったのを今も思い出す。これを買ってくれたのは父だった。クリスマスプレゼントにと大きなリボンがついたそれをくれたのだ。買ってもらうために頑張ったのはわたしなのに、父が最初に小さなホットケーキを得意満面で焼いたのを思い出した。
「今も使えるのかな、これ」
「さあ。けっこう使ったと思うけど、焼けなくなったと思う」
「これも……捨てちゃう?」
おもちゃでちゃんとした料理がつくれた、というものに家族全員が興奮した。父も母もせりかもにこにこしながらこれで焼いた料理を食べた。いざ使わないから捨てる――ということに寂しさや辛さがないと言えば嘘になる。
「うん……仕方ないでしょう。たぶん壊れているだろうし。動くならホットケーキ焼いて最後の晩餐する?」
せりかは渋い顔で首を振るとそれを臨時ゴミに出す分としてまとめている場所へ置いた。
発掘はそれだけにとどまらなかった。今度は母のモノだ。
母は趣味で洋裁をしていたが、ラスボス級の足踏みミシンにとどまらず劣化したビニールを被せられたロックミシンや家庭用横編み機が出てきた。しかも添えるように置かれていたクッキー缶には大量のボビンが、様々な色の糸が巻かれた状態で入っている。
それらを前にするとまったく言葉が出ない。
「ご、ご近所さんでミシンされる方、いるかな……」
「あのさお姉ちゃん。ミシンはともかく、編み機は壊れてるってお母さんが言ってた気がする……」
母も修理するという考えはあったのだろうが、どこへ頼んだらいいかわからないまま押し込んだと思われる。それとも時間が経てば直るとでも思ったのだろうか。
「壊れてるなら捨てろ……」
つい、口に出してしまった。
「使わなくなったらもう誰かに譲るかしろ……」
せりかもげんなりした様子だ。
家庭用横編み機は臨時ゴミへ、ロックミシンと糸類は保留へ移す。
そのほか、母が趣味で始めたアートフラワーや押し花類の作品にも頭を抱えた。なかなかきれいにつくっているがアートフラワーは埃まみれ、押し花はもう色あせて元の色がわからなくなっている。母の作品はかねてよりひとつ譲ってもらい、自宅に飾ってあるので「ごめんね」と言いつつゴミへ分別した。
「なんかもう、辛くなってきた。思い出を捨ててるみたい」
せりかが咳き込みながらこぼす。わたしも同じ気持ちだ。昔使っていたおもちゃひとつで子ども時代を思い出す。母が編み機で編んだセーターや、足踏みミシンとロックミシンで縫った洋服を着て学校へ行った。足踏みミシンは中学生の頃、家庭科の課題が間に合わずあれで仕上げたこともある。
「よくお父さんもお母さんも死んだら捨ててくれって言っていたけど。そう思うならもう捨て時だってことだよね」
「ふたりとも、昔の人間だからねぇ……」
今度は大量の洋服が出てきた。すべてクリーニング店の袋がかけられているがコートなどは分厚い肩パッドが入っていて時代を感じた。わたしたちがかつて着ていたモノまであった。それらは手直しをすれば着られるため引き取ることにし、両親の服についてはまた頭を悩ませた。
「プレタポルテのジャケットやコートとかあるけど。リフォームしたら着られるよ」
分厚い肩パッドということはバブル時代にほいほいと買ったモノだろうか。だがモノはいいのでそれをはずして縫い詰めれば着られる。両親の服は取捨選別し、父の服でそれぞれの夫に着てもらえそうなモノは分ける。
やっと服のことが解決したとたん、スマートフォンが鳴った。
画面を見ると、川村からだった。
「富田すばるさんの携帯ですか? 川村です。お宅を買いたいと申し込みがありました」
思わずせりかを見ると、唇が「聞かせて」と動いたのでスピーカーモードにする。
「買いたい? 本当ですか」
はい、と川村は一オクターブ高い音階で答えた。声が弾み、興奮しているのか吐息の音も入ってくる。
「ただ」
普段の川村のトーンに戻った。これは覚悟を決めた方がいいかもしれない。
「値引きできないかと要望がありまして」
せりかの小鼻が膨らんだ。
「値引き……いくらなら買っていいとおっしゃってるんですか、先方さんは」
「四千、と……解体費用も買い手持ちだからと」
語尾がか細くなった。
今まで処分してきたモノたちを思い浮かべた。川村はタダ同然の上物つきの土地を売りたいだけだろうが、こちらはそうではない。遺品ひとつにしんどい思いをしながら片付けをしている。古い家だから解体するのは納得できるが、その費用のことなどこちらにそのまま伝えることに無神経さを感じた。
「四千でもいい線だと思いますよ。快速が停まる、都心まで三十分で駅近という好物件ですけど、郊外であることには変わりないですからね」
黙っていると川村が調子の良いことを言い出した。頭のどこかでぷちっと音がする。
「話になりません」
思いのほか冷たい声が出て、せりかも驚いた目を向けた。
「そんな価格、納得いきません。川村さんもこの物件の立地条件や相場などを考えて先方さんにお伝え願えますか」
川村の恐縮した声がスマートフォンから鳴り響く。こちらが怒っていると思っているのだろうが、買い手がつきそうと思えば我々ではなく相手のほうへなびくような雰囲気が気に障った。
「別に値引きに応じないとは言っていません。さすがに安すぎると申し上げたのです。蓮川邸がいくらで売れたか、川村さんが教えてくださったんじゃないですか。うちはそれよりも面積は広く、角地なんですよ?
それが売りだとあなたもおっしゃっていたことですよね」
川村は急に弱々しい口調になって「おっしゃるとおりです、先方へ交渉します」と言うや電話が切れた。
頭が熱くなっているのがわかる。呼吸も荒く、喉も渇いた。
「お姉ちゃん、怒っちゃだめだよ」
せりかがペットボトルの茶を注いでこちらへ差し出す。
「あの業者……お母さんの知り合いだからお願いしたけど。買い手がつきそうになったらあんな態度。解体費用云々なんて初めて聞いたわ。女だと思って馬鹿にしてるのかしら」
せりかはこくこくとうずいた。
「たまにそういうひとはいるけど……もしものときは旦那を呼ぶよ。少しは重しになるでしょう。向こうは商売のことしか考えてないし、まぁ相手がどう出るか待とうよ」
それでも川村の態度ははらわたが煮える。だがここで文句を言っても仕方がない。気を取り直して父の本棚を見た。
本棚とはいえ、カラーボックスを横にみっつほど並べたものにすぎないが、古い文芸雑誌が縦に横に詰め込まれている。父は小説単行本はたまに買うものの、普段は雑誌を読んでこのように溜めていたのを思い出す。これらを読む人はもういない。雑誌類は古紙回収に出すとして、問題はアルバムだ。
「古いアルバムもあるけど、どうする……捨てるのもちょっと、ねぇ」
「そういえばうちの両親て同級生だったよね。同じクラスじゃなかったようだけど」
「同じだったのは中学でしょう。高校は別々だと聞いたけど」
いやな予感がする。これを開けたら見入ってしまって日が暮れるだろう。
「うわー、これお父さんか。かわいいー」
遅かった。せりかが感嘆をあげているのは父が祖母に抱かれて写っている写真だった。手のひらに収まる大きさのそれは、色あせた台紙になんとか貼り付いている状態だった。でもやはり昔の人だったから記念日くらいにしか写真を撮らないようで、幼少期からすでにすました表情をしていた。
中学校の卒業アルバムを開いた。顔と名前を照らし合わせながら見ると、すぐに両親は見つけることができた。父は一組、母は三組にいた。
「ねぇ、このひと、誰だろう」
三、四人で写っている写真では、寸劇でもやっているのか衣装を着た父がいた。その隣にはお下げの女子学生が笑っている。
「おお、美人」
母ではない。白黒写真だから肌の色はわからないが、目が大きく、にっこり笑っていて両頬にえくぼができている。清楚な印象を受ける昔の美少女といった感じだ。
集合写真でその人を探す。
「たぶん……山本香澄ってひとかなぁ」
「うーん、お父さんも隅に置けないね」
卒業アルバムを閉じると、今度は家族アルバムを開いた。幼い頃のわたしやせりか。若い時分の父母の写真が整理された状態で貼られていた。写真を見ていると、古い記憶が呼び起こされて心の中に明かりがひとつ、またひとつと灯る。
「こっちはまた学生時代みたい。高校かな?」
このアルバムは写真を四隅で留めるタイプのものだが台紙も変色し、劣化していた。所々写真が外れかかっている。
「これ……なんだろう」
写真が二重になっていた。表で見えているのは父が野球をしている姿を撮ったもので、その下に隠れている写真を見て――鼓動が強くはねた。
「え? これって」
せりかがさっきの卒業アルバムを開く。このえくぼ。この大きな目は、山本香澄に見えた。裏を返すと、年月日が書かれている。高校時代で間違いない。
「香澄と……って」
「付き合ってたのかな」
「たぶん……まぁ、独身時代はそういうこともあるでしょうよ」
写真を重ねて貼っていたのが気になる。いかん。これがあるからアルバムもラスボス級なのだ。
「せりか。アルバムはおいといて、他をやろう」
川村の腕次第だが売れるかもしれないのだ。父の過去は気になるがとりあえず片付けを進める。この家の家財は不要なモノの方が多く、部屋の片隅に置いていた臨時ゴミは日増しに増え続け、使われなくなった車庫に移すようにまでになっていた。
その間もご近所さんに会ったりするので、遺品の整理をしている旨を伝え、家財で入り用なモノは譲りたいと伝えている。片付けの最中に彼らがやってきて家具などを見てもらい、引き取りたいと申し出てくれる分には無償で渡していた。もちろん、大事なモノが紛れていないか何度も確認はする。
母が嫁入りのときに持ち込んだ整理ダンスはもう開け閉めもスムーズに行かないので廃棄にグループ分けをしていた。中は両親が使っていた下着類などの他になぜか母の手芸道具や父の雑記帳など本当に雑多なモノが詰め込まれていた。
「また手紙が出てきた。なんでこんな整理ダンスの奥にしまってんの……」
「また田端さん?」
差出人を見たせりかの表情が固まった。
「違う。山本香澄って。お父さんの、たぶん元カノだ」
これは見ていいのだろうか。いや、見たからと言って当事者はいないし山本香澄を探しだそうとは思わない。だがこれだけ母の目に触れないよう、隠すようにしまわれていたのだ。
「だめだ、気になる。読む!」
せりかが封筒のひとつを開けた。
「――あれ? これ」
首をかしげて「どっかで見た」と呟いた。
わたしものぞき見して無意識に声が出た。
「この字。田端さんのものに似てる……かも」
幸いこちらは変体仮名でもなければ毛筆でもない。万年筆で書かれているが田端さんの毛筆と手蹟が似ていた。はやる気持ちで文面を追う。
「せりかちゃんの咳は止まりましたか……え?」
まさか山本香澄からせりかの名前が出るとは思わなかった。
「枇杷の味はいかがですか……せりかちゃんの具合が一日も早くよくなりますように。敦さんもお変わりなくなによりでした。わたしは書道で雅号を名乗ることになりまして、母の旧姓に名前が香澄なので霞の字を使うことに……以後はお便りも雅号で出すことにします。なんだか照れくさいですけどね……」
せりかが驚愕の声を上げた。
「ちょっと、マジなのこれ! 田端さんが山本香澄?」
「変わった名前だと思ったけど、雅号なら納得いくわ」
霞渓をどう読むかわからなかったが、雅号なら「かけい」と読ませるのかもしれない。
「ひょっとして毎年枇杷を食べられたのって……このひとの?」
せりかの唇が震えている。
「お母さん、このこと知っていたのかな」
せりかはあの枇杷を母が買ってきたものだと思っていた。わたしの口にはめったに入らないそれは、特別な果物だった。母は妹ばかりを可愛がると、当時はひがんだりもした。
「考えても仕方ないね。片付け、続けようか……」
珍しくせりかが腰を上げた。

家の売り時、買い時は縁というものを感じずにはいられない。
三日後、川村の訪問を受けた。値下げしない代わりに庭の植木をどかせだの、物置やエアコン類を一切とりはずせだのと食い下がるのだと言う。せりかとも話をしたが、値下げには応じても動産類込みの値段として提示している。それは断ると、今度は純粋な値下げ交渉をしてきた。購入に前向きなのは八十歳を超えた夫婦で、大学病院で医師をしている孫への譲渡目的らしい。川村はこの辺りの者なら誰でも知っている病院名をあげた。
結局、四千六百万円で首を縦に振った。最初の提示額を思えば、川村も食い下がった方だ。もちろん仲介業者も潤うので当然と言えば当然だが。
すっかり舞い上がった様子の川村が「先方と打ち合わせをする」と輝かんばかりの笑顔で帰って行った。その後の書類の取り交わしや家の明け渡しなどで何度か足繁く来ることになるだろう。
売れたお祝いをしようとせりかがスーパーで発泡酒を買った。これといった自炊はしないので、惣菜は近所のスーパーで好きなものを買う。今まで酒を飲もうという考えは浮かばなかった。出口が見えてきたようでほっとした。
ふたりで乾杯をし、さすがに食傷気味に感じ始めた惣菜をつつきながらテレビを見ていると、スマートフォンが鳴った。川村だ。口に入っているものを発泡酒で流し込み、咳払いをして出ると、やや急いた様子の川村が先ほどの礼を言ってきた。
「先方様もすごく喜んでおられます。また書類のやりとりなど伺いますので」
そう前置きした。その後逡巡しているようなので、なにかあったのかと問う。
「購入後、すぐに建て替えを行いたいらしく、つきましてはボーリング作業を希望されていて」
先日のようにまたしても語尾が小さくなっていく。
「ボーリング?」
つい語尾が荒くなった。スピーカー機能でやりとりを聞いていたせりかも天を仰ぎ「あいたー」と小声で呟いた。この期に及んでまたそんな舐めたことを。
「それは明け渡しが完了してからなさったらいかがですか。この家はまだ我々の所有ですし。それにこの家は鉄道会社の分譲地です。この辺り昔は空き地でしたから、ボーリングしても何も出ないと思いますけど」
所有がまだこちらにある以上、相手の好きにされたくない。人情としてわかりそうなものだ。川村のこの態度は無意識だろうか。早く売買契約を完了させてこの男と縁を切りたい気持ちが高ぶってきた。
不機嫌な声を隠さず電話を切ると、せりかが肩をすくめた。
「買い手の顔、見てやりたいね。マッチングしてるから買うのだろうに、この期に及んでぐちぐちと。案外細かいひとかもしれない」
「契約書の取り交わしでいやでも顔を合わすよ。ほんと中古物件ってこんなものかも。それにすぐに建て替えるとかこっちが知らなくていい情報じゃない。腹立つ」
家を売るとは、そういうことかもしれない。個人によって違うかもしれないが、わたしはこの家が影も形もなくなることにやるせなさしかない。売ると決心していてもだ。そんな感傷的になるのは決まって寝るときだった。かつてこの天井を見つめながら寝た。木目が怪物の目に見えて勝手に怖がったこともある。遠足や入学式の前日、高校や大学受験前日に眠れなかったときも、この怪物の目が見下ろしていた。
先に眠りについていたせりかが時折激しい咳をする。片付けに終わりが見えてくるにつれ、彼女の発作も多くなってきた。諸々を早く終わらせて休ませてやりたい。
本当に売れてしまう。
この家が、なくなってしまう。
手放したからと言って両親との思い出までなくなるわけではない。だが。
目頭が熱くなって慌ててパジャマの袖で拭った。

結局ボーリングは引き渡しまで行わないことになった。当然だ。
引き渡しは六月一日。駅に近い銀行支店で売買契約を結ぶことになった。そのときにスペアを含む鍵を渡すことになっている。それまでにはすっかり片付けて、一度自分の家にも戻りたい。毎晩夫に電話をしているがずいぶんと不便をかけてしまっている。
家具類で傷がないモノは近所の人が見繕って貰ってくれた。食器棚はまだ新しいので市の環境事業部で引き取ってもらった。市の施設で再利用されるのだという。臨時ゴミとして破壊されるよりも罪悪感のない処分方法だった。
家財――モノで溢れていた我が家が、かなり隙間が目立つようになってきた。物置を開けて中を出してゆくと、プラスチック製の衣装ケースが発掘された。
「うげ。まさかまだ洋服が詰まってたりして」
せりかが「かんべんしてよ」とため息をついた。昔我々が着ていた母の手製の子供服なども捨てられずにしまってあったのだ。これをこのまま捨ててしまっても良いような気もしてきた。
開けてみると、大量の紙袋が入っている。デパートの汎用の紙袋からブランド物のロゴが入ったモノまで。これだけで衣装ケースにぎっしりと詰まっていて、また言葉も出ない。
「捨てようか」
「うん」
それでも念のため何かが入っていないかどうかだけ確認してからゴミ袋に詰める。
「あれ?」
せりかが手を止めた。「これ、中になんか入ってる。厚みが……」
出してみると、広告類だった。新聞の中に折り込んであるもので、単色刷か二色刷のものが多い。本日限りの表示と共にいちご一パック二百九十八円の見出しが大きい。
「なんで広告……。さすがにこれはないわー」
「お姉ちゃん、裏! 裏になんか書いてある」
裏を返すとそこに鉛筆で何か書かれており、大きな×印がつけられていた。
「これ以上、ビワはいりません……? え?」
呼吸するのを忘れていたと思う。何秒その状態が続いたのか。苦しくなって激しく咳き込んでしまった。
「これ、お父さんの字じゃないよ」
「お母さんの、だ……」
父は田端さんほどではないが達筆の域に達するだろう。だが母はそうではない。字が汚いことをコンプレックスにして、書類や手紙を書くのにも自らはペンを持ちたがらず、必ずわたしたちに代筆をさせてきた。
「わたしが何も知らないと思ってますか。主人は娘のためにビワを買ってくるような殊勝なひとではありません……主人が娘たちのことをあなたに話すことも、あなたとこっそり文通していることもすべて知ってます。娘の健康を気遣ってくださるのはありがたいですが」
そこまで書いて、×で消している。手紙の下書きだと思えた。田端さんに対する恨み節の文面が何枚とあり、そのすべてをボールペンで強く×をつけていた。
母と父は中学時代同級生だった。田端さんもしかりだ。だから母が知っている可能性は高い。父は田端さんと高校まで一緒に過ごした。母だけ別の商業高校へ入学した。高校時代に付き合いだし、別れてからも交流して、結婚してからも隠れるように繋がっていたとしたら、この手紙もうなずける。
「お母さん、たぶんこの手紙は清書してないと思う」
「あたしもそう思う。そうかぁ……あの枇杷、やっぱり田端さんのか」
出してもし返信が来たときの母の心境を考える。どういう内容であれ相手の字を見たら自分のコンプレックスがたまっていく一方だ。
「でもお父さんは気づいたのかもしれないね。お母さんの気持ちに」
季節の便りは読めるのに、枇杷の話だけ変体仮名を使っていたのは母に見られたときにごまかしが効くようにという田端さんの策だったのかもしれない。それでもさすがに続くと母が怪しむ。こじれる前に、父から交流を切ったのだろう。それとも、父もこれを読んだのかもと推測ばかりが湧き起こる。或いは父に読ませるためにわざと書いたのか。
「今となっては確認のしようもないし、したくないけど。そう考えられないかな」
「やましいことがないならオープンにしてくれたらいいのに。わたしも枇杷のおばちゃんって呼んでいたかもしれないよ」
「やましいこと……」
せりかは自分が重大発言をしたことに気づいていない。
父と田端さんは交流を隠していたのだ。田端さんは本名ではなく雅号で。微妙な内容の手紙はわざわざ書体を変えてきた。父にしかわからぬように。
「お姉ちゃん?」
首を激しく振った。もう父はいない。田端さんもどうしているかわからない。今更真実を確かめてどうするのだろう。
「ううん。なんでもない。もうお父さんと田端さんの詮索、やめようか」
そうだね、とせりかはうなずいた。
「お母さんも、これが見つかるのは不本意だと思うし。ちゃんと捨ててあげよう」
家の片付けは発掘と似ている。
だが念のこもったモノを昇華させる機会でもある。
父と田端さんのことも。母の嫉妬も。

部屋を見渡す。家具がひとつも残っていなかった。
臨時ゴミはゴミ収集車が来て、その場で粉砕されていく。
手紙を隠していた整理ダンスも、大きな音を立てて一瞬でその形を失った。
古い机、カラーボックスなど粗大ゴミは業者によって淡々と収集車へ投げ入れられていく。せりかはポケットからスマートフォンを取り出してゲームをしだした。完全に収集車に背を向けて、得意なはずのパズルはちっとも解けずに何度もゲームオーバーになっていく。
すべての臨時ゴミがなくなると、業者が提示した金額を支払った。
業者が帰ってもまだせりかはスマートフォンを手放さない。
「本当に……なくなっちゃうんだなぁ」
ゲームオーバーを繰り返して、大きくため息をついた。
「うん。あとはもう、冷蔵庫だけかな」
午後に電気店がやってきて引き取ることになっている。それが済めばもう、エアコンと空の物置しかない。家財がすべて出てブレーカーを落としたら、我々もそれぞれの家に帰る。今度来るときは売買契約の場だが、この家に寄ることはもうないだろう。電気、ガス、水道も明日には止まる。
この家も見納めだからと、各々のスマートフォンで四方から家を撮影した。表札は外してしまったが、正面玄関を撮影すると鼻の奥がつんと痛くなる。
「じゃあこれ、始めようか」
せりかが手紙の束を取り出した。母が感情にまかせて書いた手紙の下書きもある。
庭に穴を掘って、手紙に火をつけた。
田端さんの美しい字が、火中で踊る。
せりかも下書きの手紙をその中へ入れる。
手紙の中から写真が出てきた。大きな枇杷の木が写っている。添えられている文面には「今年も立派な実をつけました」と書かれていた。
黙ってそれを火中へ投げ入れた。ふたりとも無言のまま最後の手紙を燃やす。すべて灰になったのを確認してから消火し、灰を粉々に踏み潰した。
現在も田端さんの枇杷はたわわに実っているのだろうか。かつて枇杷をせりかが食べていた過去を思い起こす。実際は父が持ち帰り、母の手で出されていたのだ。そのときの父母の表情はどんなだったろう。なぜかもう、思い出せない。
母は常に歯に衣着せぬ物言いをしていたが、父を大切に思っていたことはわかる。
自分ならどうだろう。夫に元恋人がいて、ずっとなんらかの形でつながっていたとしたら。すでに切れていたとしても写真などを後生大事に持っていたとしたら。
無性に夫に会いたくなった。毎日の電話ではやはり詳しい様子はわからない。
「お姉ちゃん、電気屋さん来たよ。冷蔵庫の回収!」
はやる気持ちを抑えて返事をすると、玄関先に停まっているトラックへ急いだ。
〈了〉

サークル情報

サークル名:万華鏡寺院
執筆者名:彩あかね
URL(Twitter):@5123tmk

一言アピール
文芸同人誌に寄稿したものですが「手紙」がキーワードですので申し込みをしました。このたびテキレボさんにはミステリで申し込みをしていますがこの拙作もミステリ調です。大衆小説やオマージュ小説もカタログに掲載しています。

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