その恋は海に沈む

 もうすぐあの子がいない、二度目の春が訪れる。
 
 この春に大学の二年生へと学年が上がる頃、春休みに地元へは戻らなかった私は、私が住む都市から電車を乗り継ぎ観光地でもある海岸へと向かって居た。家の近くから出ている電車の始発に揺られていれば、気が付けば県境を超えているのだ。県境を超えるなんて、一大イベントであった地元では考えられないくらい簡単に超えることができるその県境を越え、電車を乗り継いで向かったのはまだ朝焼けの気配が残る海岸。カバンの中に入れたガラスの感触を指で確かめた私は、ゆっくりと足を進める。小さな無人駅を出てアスファルトに舗装された道を歩けば、まだ冬の名残のある朝の爽やかな空気に晒される。雪が積もらない冬は、どこからが冬でどこからが春なのかよくわからなかった。けれど、雪がない冬は、私にとって嫌な事を思い出さずに済ませてくれたから丁度良かったのかもしれない。大学に入るため地元を出てから、私は一度も地元には戻っていない。潮のかおりを胸いっぱいに吸い込み、人もまばらな海岸線に立った私は、出来るだけ人の少ない方へと足を向けた。
「ここら辺でいいかな」
 私は一人でそんな事を呟いて、カバンに入れたままのガラス瓶を握りしめてあの子の事を思い出す。今でも私の胸を締め付けるその子は、同じ高校で出会った女の子だった。女の子と言うには少し格好良すぎるその子は、クラスメイトの中学時代の同級生で。クラスメイトを介して知り合った彼女に私は恋をしてしまった。私服校だった高校で、いつもティーシャツにジーンズ。たまに剣道部とロゴの入ったジャージを羽織る彼女は外見に無頓着であったが、前髪が少し長めのショートカットから見える切れ長な目元や、男子よりは低くても女子の中でも小柄な方だった私よりは十分なくらい高い身長、いつも面倒くさげな仏頂面のくせにたまに口元だけで意地悪そうに笑うその表情はそこら辺の男子よりも全然格好良くて。普段は面倒くさげに丸められた背が、部活動で袴を履く時だけしゃんと伸ばされるその姿が私はたまらないくらい好きだったし、今でも忘れる事が出来なかった。高校二年の時に同じクラスとなったその子と学祭の準備をしている時に、思い余って告白したら「あぁ、うん。ありがと」と気の抜けた返事で、しかし確かに静かに笑みを浮かべ私の想いを受け入れてくれた。今思えば友達に毛が生えたような付き合いだったけれど、それでも彼女は私に好きだと言ってくれて、きっと彼女にとっては億劫だっただろうウィンドウショッピングや喫茶店での長話にも付き合ってくれていた。逆に、たまに彼女が行きたいと呟いていた映画や科学館にも一緒に足を運んで。高校生のデートなんてそんなものだろう。そして、高校三年の冬のある日、そんなままごとみたいな付き合いは、彼女の手によって唐突に終わりを告げられたのだ。
「地元の大学に行くことにしたから」
 一方的にそう告げられたその言葉に、私は動揺を隠せず彼女を詰った。同じ大学に行くって約束したじゃん、こんなの裏切りだ、信じられない。一方的に私が口にした言葉――多分、もっと酷い事も言った気がする。そんな私の恨み言を何一つ否定せず、彼女は表情一つ変えることなく聞いていた。そんな彼女の姿に誠意など全く感じられず私は更に彼女を詰る。それでも彼女はそれに反論する事もなく、「まったくその通りだと思う」と他人事のように頷いた。その時の彼女はどんな顔をしていたのか、全く思い出す事が出来ない。高校三年の夏頃から掛け始めた、「視力一気に下がったからメガネ買うんだけどメガネ選んでくんない?」と彼女が私に選ばせた華奢なスクエアフレームの眼鏡の奥の瞳がどんな感情を浮かべていたのか私が少しでも見る事が出来れば、何かが変わっていたんだろうか。私と彼女には、圧倒的に話し合う事が足りてはいなかった。
「いい機会だよ。チヒロは良い子だし可愛いから、もっといい人に出会えるって」
 別れ際、それまで私の言葉を一方的に受けていた彼女が最後にそう口にした。そしてそれだけを口にして背を向けた彼女は、私が何を言おうとも振り返る事は無かった。そしてそれが、私が彼女の声を聞いた最後の言葉だった。
 
「ホント、なんで忘れらんないのかな」
 早朝の海岸で、私はそうひとりごちる。彼女と共に学ぶはずだった学び舎に、一人で入学した私はそこそこに仲の良い友達が出来ていたが彼女の事を忘れる事が出来なかった。上書きの恋をしようと何人かの男女と付き合ってもみたけれど、それでもどこかで私は彼女とその恋人達を比較していたように思う。だからだろうか、皆長くは続かなかった。高校時代に、彼女が私の心を奪っていったから。だから私は彼女へ出すことの出来ないラブレターを書いたのだ。今の私が思う彼女への気持ちを書いて、海に投げてしまおうと思ったのだ。それは一つの区切りだった。心だけ奪って私の元を去った彼女への言葉は、別れの言葉には上手くならなくて。けれど、もう二度と逢う事はないだろうその恋の相手に、何か言ってやらなければ気が済まなかったのだ。格好良くて、優しくて、酷い――それでも愛しいあなたに、この手紙は届かない。
「さよなら、私の恋」
 カバンから取り出したガラス瓶に詰められたその手紙を私は青空へ向かって渾身の力で投げる。波間へと落ちていったそのガラス瓶は何処へと消えていくのだろう。嵐のように激しく、春の日差しのように柔らかかった私の初恋は海へと沈んで行ったのだ。少しだけスッキリした気持ちで海岸線を歩く私の横を、どこか彼女に似た雰囲気を纏う少女が駈けてゆく。私が向かうのとは反対方向へ走る、少しだけ年下だろうマウンテンパーカーを羽織ったジャージ姿の少女を私は静かに見つめていた。

   ☆

 その日見た美しい人は、涙を堪えるかのように前を見据えていた。
 
 毎週土曜の午前十時、私たちは逢瀬を重ねていた。私の従兄が営むカフェで出会った彼女は、従兄にとっては大学時代の同級生であったらしい。最初の頃はカフェの手伝い代わりに窓際の奥の席を間借りしていた私が彼女の話し相手になっていた関係だったけれど、そのうち私も彼女に会うのが楽しみになっていた。そして、ひょんな事からその毎週土曜の逢瀬にデートという名前が付けられて、私と彼女の関係は恋人というラベリングがなされていた。
「カフェで待ち合わせでもよかったのに」
 彼女の家までヤマハのエスアールを転がして迎えに行った私に、彼女ははにかんでそう告げる。「私がやりたくてやってるんです。好きでしょ? 後ろに乗るの」そう言って私が笑えば、彼女も「そうね」と静かに笑う。最初はふんわりと巻かれていた髪は、私がバイクで迎えに行くことを覚えた頃から一つにまとめられるようになった。ハイヒールでスカートを履いていたルックスも、少しだけカジュアルになりジーンズにスニーカーというスタイルが多くなっていて。バイクに乗る前提で服を決めている事が分かる。首都高を使って一時間と少し、彼女の家へと向かうその時間は私にとって苦ではなかった。ここ一年程は最早彼女専用になっているヘルメットを渡し、私は彼女を後ろに乗せてエスアールを走らせた。
 
「甲斐甲斐しいにも程があるな」
 彼女を迎えに行った時と同じ一時間と少しの時間を掛けて、従兄が営むカフェへと入れば、マスターである従兄が私に向かってからかうような笑みを浮かべて迎え入れた。「いいでしょ、私の彼女」私の後について店内へと入った彼女はじゃれつくように私の腕に彼女自身の腕を絡ませて自慢げに従兄へと笑みを浮かべる。
「尽くしたいタイプなのは従兄の俺も同じなんですけど」
 少し不貞腐れたようにそう言って笑った彼が彼女に恋をしていた事を私は知っている。私としては、彼女と従兄はお似合いだと思うのだけれど従兄の恋心は絶対に届く事はない。何故なら彼女の恋愛対象に男は存在していないから。従兄もそれを知った上で彼女に好意を持ち続けていたし、彼女はそれを知りながら従兄の前で私の腕に自身の腕を絡めて彼へと微笑むのだ。そして、従兄自身はそれを良しとしている――私を彼女にけしかけたのは他ならぬ従兄であったのだ。
「私もバイクの免許取ろうかな、したらツーリング出来るし」
 出会った時と同じ、少し奥まった窓際の席で彼女はコーヒーを飲みながらそんな事を呟く。
「え、運動神経良くないですよね?」
 私は紅茶のカップを手に取りながら、彼女の発言に思わず顔を顰める。だって、この人絶対教習所で怪我するタイプだ。私の不躾な発言に「これでも高校時代は弓道部だったんだからね! 運動部よ!」と彼女は淡い桜色に色付いた唇を尖らせる。そんな子供っぽい仕草に、彼女が年上だという事を一瞬忘れそうになる。私は、初めて彼女と出会った時の彼女の年齢になっていた。
「さてと、どっか行きます?」
 違いに目の前のカップを空にした頃、私はテーブルに置きっ放しにしていたバイクのキーを掴みながら彼女に問う。そんな私の問いに、彼女は「海いこ」と微笑むのだ。
 
 春にはまだ少しだけ遠い、冬の名残が残る海辺を私と彼女はゆっくりと歩く。バイクは店に置いたまま、私たちは昼下がりの海岸線をゆったりとした足取りで何処に向かうでもなくただ足を動かしていた。
「こんな季節でもサーフィンするんだねぇ」
「絶対寒いですよね」
 のんびりと彼女が笑みを浮かべながら海を見つめてそんな事を呟く。そんな彼女に、私は素直な感想を漏らすのだ。「だよね! あっちじゃ考えられない」私の言葉に彼女は心底楽しそうに笑みを浮かべてそう口にする。彼女の地元と、私が中学時代と大学時代、そしてこっちに戻ってくるまでの数年だけあった社会人時代に過ごしていた土地は奇しくも同じ場所だった。
「あっちは今時期だとまだ雪に閉ざされた土地じゃないですか」
 思わず呆れた声色で私がそんな事を口にすれば、彼女は真面目なトーンで「そんなとこでサーフィンなんてしたら、死ぬわね」と返すのだ。「そういえば、サーフィンはしないの?」そう重ねた彼女の言葉に私は「兄貴は少しだけしてましたけどね、私は全然。スキーの方が肌に合いますし」と答える。
「ホント、スポーツ万能で頭良くて、気が利くなんて私にはもったいないくらい」
 呟くようにそう告げた彼女は、一人で小さく困ったように笑みを零した。確証はないけれど、彼女は忘れられない恋を胸に秘めているのだと思う。自分が零した言葉に傷つき、私を見る目は時折誰かを重ねている。だから、私は彼女に深入りする事が出来ずにいた。
「私さ、大学時代にはじめて此処に来たんだよね」
 彼女は海を見つめたまま、ポツリとそう呟いた。「昔、すっごく好きだった子が居て、その子に結構酷い別れ方されたの――まぁ、私も若かったからその子に酷いこと言っちゃったけど」何かを懺悔するかのように、彼女は私に背を向けたままそう告げる。
「本当は一緒に行こうって言ってた大学も、私一人で通って、絶対にもう会うことはないだろうその子の事が忘れられなくて、このくらいの時期に手紙を書いて海に投げたのよね」
 若かったなぁ。しみじみと、そう告げる彼女の言葉に私は何か引っかかりを感じて思わず口を開く。
「大学時代って、十年くらい前の話ですか」
「あぁ、そうね。そのくらいになるかも」
 私の問いに彼女は何も訝しむ事はなく至って普通に返答をくれた。
「その、好きだった子って……少し猫背だけど、剣道をしている時は背筋が伸びる人? それを見るのが好きだった?」
 彼女にそう問えば、彼女は私に背を向けていたその身体ごと振り返る。その表情は驚きの色に染め上げられていて、私はそうだったのか。と一人過去の記憶に心の中だけで頷いた。そうだったのか、あの時のあの綺麗な人は彼女だったのか。と。
「なん、で……」
 信じられないものを見るように私を見つめる彼女に、私は出来るだけ気安い風を装って肩を竦めながらへらりと笑みを浮かべてみせた。
「私が高校生だった頃、ここら辺に住んでたって言ったでしょう?」
「それは聞いたことあるけど、でも」
 努めて柔らかな声色を出して、ゆっくりと彼女にそう告げた私に彼女は動揺が隠せないかのように震える声で言葉を返す。
「高校時代の日課が、朝のランニングだったんです。で、ここがコース」
 答え合わせをするように、私はその頃の話を口にする。私が次に何を言いだすのかと探るような目で私を見つめる彼女に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を繋ぐ。「このくらいの時期の朝、私が走ってたら見かけたことない人とすれ違って、観光にしては早いなぁとか思ってたりしたんですけど。そのあと、浜辺に瓶が打ち上がってるのを見つけて――まぁ、好奇心旺盛な高校生なら拾いますよね」ね? と同意を求めるように笑みを浮かべて首を傾げれば、
「何で拾うのよ! そんな可愛い顔してもダメだからね!」と彼女は頰を紅く染めて叫ぶ。その頰の赤はきっと寒さのせいだけじゃない。
「まぁ、拾っちゃったのは高校時代の私なんで。今苦情を言われてもどうしようも……で、持って帰って読んでみたらとても熱烈なラブレターだったので今でも机の引き出しの奥で保管されてますけど、どうします? 返した方がいいですか?」
 私の言葉に彼女は顔を真っ赤にしながら「何で読んじゃうのよ」と消え入るような声で口にして、それでも「じゃぁ、返して。どうせ捨ててって言っても持ってるつもりでしょう」と言葉を重ねた。
「私の事、よくわかってますね」
「もう、年上をからかわないでよ」
 思わず関心するようにそんな事を口にすれば、彼女はまた唇を尖らせながら私への不満を告げる。
「じゃぁ、取ってきますからカフェで待っててください」
 そう言って、その真っ赤に染まった頰に軽く唇を落とせば、「そういうとこがからかってるって言うの!」と更に紅くなった頰を手のひらで隠しながら彼女は声を上げる。そんな彼女に仕草に思わず笑みを漏らせば、「ほら、早く取って来なさいよ!」と野良猫を追いやるように右手を振った。
 
 彼女に追いやられ、私は一人過去を思い出しながら家路へと急ぐ。十年程前に見たその女性は、零れ落ちそうになる涙を堪えて歩いているように見えた。そんな彼女の凛とした美しさに思わずすれ違った後少ししてから彼女の歩む後ろ姿を見つめて居た事があるなんて、彼女は知らないだろう。きっと、彼女の忘れられない恋はラブレターの相手だ。彼女と出逢って二年経って、やっと彼女に手が届く気がした。
「あと一年、そうしたらもっと近くに居れるようになる」
 修士課程はあと一年残っていた。本当は毎週土曜と言わず、もっと彼女と会っていろんな事を共有したいと思っていた。私がそんな事を考えているなんて、きっと彼女は知りもしないだろう。もしかしたら、私が渋々彼女に付き合っていると思っているのかもしれない。誰も居ない家へと入り、自分の部屋の机に向かう。引き出しの奥に仕舞われた、差出人も宛先も書かれて居ないラブレターを手にとって、最後にもう一度だけ美しくも悲しい文字に彩られた彼女の愛の残り香に視線を落とす。
「絶対負けないから、覚悟して」
 私はそのラブレターに綴られた名も知らない相手への宣戦布告を口にして、カフェへと向かう道を駆けていく。家に帰る彼女を送って、泊めて欲しいと告げた時、彼女はどんな顔をするだろうかと思いながら。
 
 まだ時間はある。ゆっくり、のんびり彼女と歩んでいけばいい。そんな事を思いながら私はカフェの扉を開けた。

サークル情報

サークル名:Sunny.
執筆者名:狹山ハル
URL(Twitter):@sunny_sayama

一言アピール
どこかの世界の日常を切り取るように文章を書き散らす人(狹山)による小説サークル。
現代ものをメインにほんのりSF世界観だったり、ファンタジーだったりと割と何でもやっています。
どんな世界でも世界は繋がっているし、恋や愛に性別などないを地で行く3L闇鍋サークルです。

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