フォゲミノ・フォゲミナ

 君の愛してやまないものを、決して好きにはなれなかった。

 あの冬の静かな朝も、夏のけだるい夜も。巧拙もよくわからない、詩人も画家も音楽家も。
 夜明けの海が綺麗だからと、君はよく深夜に家を抜け出した。相棒の一眼レフを胸に抱きしめて、星明かりを頼りに。あの茫洋ぼうようたる塩辛い水たまりに、今でも僕は何の感想もない。嘘だ。嫌いだ。べたつく空気も、強すぎる風も、死後硬直みたいに身体をガチガチにする夜の凍えも。君に恋みたいに見つめられる、淡い光を抱いた波間も。
 君という価値の孤島に、世界は何一つ漂着しなかった。君が、君だけが価値だった。君が拾い上げたごみだけが、その手にあるというただ一点で価値を持った。僕にとってのアルケミーは、君が世界に生きていることだった。世界は輝いていた。君が、笑っていたのだから。
 嫌いなものが増えていく。君が何かを愛するたび、僕はその君ではないものを呪った。君が僕を愛してくれたら良かったのに、それだけは叶わなかった。

「忘れないで」

 嘘吐きな君の、その言葉だけは信じていたかった。

   ***

 太宰だざいおさむが訪れた頃には南部の谷間を抜けるしかなかったが、今では津軽山地を横断する三本の県道が整備されている。しかし、雪の季節には通行止めの憂き目に遭い、あっけなく昭和に逆戻りしてしまう。結局、本州の果てへたどり着くには、太宰と同様に鶴ヶ坂つるがさかを行くしかないのだ。高速も新幹線も通っていて、時間だけは短縮されたことが救いだった。
 外ヶ浜そとがはまに移り住んで、どれほどの時が経っただろうか。本州北端の駅には、勲章のように太宰の詩が飾られている。一日に五往復しかしないその路線で、若者はこの町からどんどん離れていく。無人駅になって久しいが、ついに来年、廃線になることが決まっていた。無理もない、今では利用者も両手で数えられるほどしかいない。彼らは知っているのだろうか。毎日視界の端に映るその詩の作者は、かつてのこの集落を「鶏小舎にわとりごや」と評したことを。

 君を追いかけて、こんなところまで来てしまった。北緯六十度をめがけて北上していく、君の背を幻視しながら。

 君が海に魅入られていたことは知っていた。気づくと、いつでも君はそちらへ視線を投げていた。白い息を吐いて、手のひらを暖めた二秒後に。会話が途切れて、二人が沈黙を許したその間隙かんげきに。信号待ちの向こうで、出会わない視線を追いかけたその先に。
 海しかない町に、僕らは住んでいた。それでも、海だけは常に生活の隣にあった。その水たまりは僕らの空気で、特別意識に上ることもなく、さりとて悔しいことに確実に暮らしを支えられていた。まともな産業が、それなしには成り立たなかった。せめてもの抵抗に、僕はそいつを呼吸しなかった。そこにあり続けるものをひたすら無視することは、恋みたいだった。気分が悪かった。そんな僕を見て、君が寂しそうに笑うのも常で、それでも君は海を見ていた。海になりたかった。
 国道の向こうには海がある。津軽海峡の先っぽは、霧の狭間に見える大地に焦がれている。こんな辺境ならあるいは竜も飛ぶかもしれないが、当てられただけの文字に意味はない。「突き出た地」という名前の場所で、僕は腕を伸ばす。呼吸をいとった。海は嫌いだ。僕は向こうに行きたいのだ。何より、僕は太宰が嫌いだった。

   ***

 仮住まいの鶏小舎は、今日も雨漏りがしていた。硬直した身体を、末端から伸ばすようにしてむりやり起こす。すきま風のせいか、窓はないのに風通しは良かった。家の中でもたいてい息は白かった。薄い障子は大家により二重にカーテンが巻き付けられ、五層のミルフィーユにされていた。立ち上がろうとして、よろける。床が東へ傾斜しているのか、ときどき重力に異変が生じたように錯覚した。隅にはパチンコの銀玉が幾つか転がっていた。その鈍い光を一瞥し、鉛のような手足を引きずって、僕は鶏に甘んじるのをやめることにした。

 雨の日には、傘をささずに歩く。
 自殺行為だった。今では誰もそんなことをしない。すれ違う幾つかのてるてるぼうずが、ゴーグルの向こう側で目を見張っていた。僕という異常を糾弾する幼い指は、母親によって遮られる。ママ、あの人どうしたの。こら、見ちゃいけません。そんな会話さえ、大仰な銀色のポンチョの内側で行われていた。
 雨粒は容赦なく僕を濡らしていく。空気抵抗でひしゃげたその水滴は、たいてい饅頭まんじゅうのような形をしているという。雨が、涙の形だなんて誰が言い出したのだろう。ひどい詐欺だと思う。雨の臭いにも、ペトリコールだなんて洒落た名前が付いている。要は、微生物の死んだ臭いのくせに。因果なもので、人間はその臭いに敏感なのだという。死が香るのなら、君の匂いもそこにあるのだろうか。
 寒い日だった。この雨もまもなく雪へと変わるだろう。

 ああ、冬が来る。君を喪った忌まわしい季節が。

   ***

 僕が愛してやまないものを、決して好いてはくれなかった。

 あの冬の賑やかな夜景も、夏の忙しない朝の喧噪も。反骨だけで塗り固めた、パンクもロックもグランジも。
 夜明けの海を最初に愛したのは僕で、深夜に家を抜け出すのも僕が始めたことだった。相棒のエレキを肩から提げて、星の降らない闇夜を選んで。あの漆黒の穴のような水たまりには、当時から何の感想もなかった。嫌いになったのは君のせいだ。湿気も強風も寒さもどうでもよかった。君が、あの目で見つめなければ。それだけで、それまでの感情を否定する理由には十分だった。
 僕はロビンソンにしてはあまりに独り善がりで、どこにも漕ぎ出そうとはしなかった。君が、君だけが愛だった。僕が愛してやまないものなんて、結局君しかなかった。僕にとってのアルケーは、君を愛することだった。世界はごみだらけだ。君が、世界を愛そうとするから。
 嫌いなものが増えていく。それはいい。君が何かを愛するたび、僕はずっと祈っていた。君が君を愛してくれたら良かったのに、本当にそれなら良かったのに、それだけは永遠に叶わなかった。

「私を、忘れて」

 嘘吐きな君の、真実に触れてしまったと思った。
 
   ***

 降り注ぐ世界の記憶は、宛てもない手紙のようだ。

 上善じょうぜんは水の如しという。水ほど素材として柔軟であり強靱なものもないだろう。いかようにも形を変えるしなやかさと、どんな衝撃をも受け流してしまうしたたかさを併せ持っていた。ごくわずかな反磁性しか持たず、常識的な温度で相転移させられる。その特性は、磁気テープやプラスチックの円盤、ICチップに代わる次世代の記録メディアとして期待されたのだった。
 そうして出現したのがFSD(Flexible and Solid Disc)だ。水を素材とすることで、ソフト・ハードという表現を超えた媒体になるという意味で名付けられた。その実体は、ナノマシンを含有した水である。細胞外液の組成を模したリンゲル液に、『液状電子技術システム』の頭文字からLETTERSと名付けられたナノデバイスを含ませていた。
 その大きな特徴は、水を貯蔵できるものであれば、何でもディスクケースにできたことである。水槽、プール、貯水タンクといった大型のものから、花瓶、インク壷、プレパラートまで。しかし、利便性と合理性が要請するまま最終的に行き着いた場所は、人体だった。ナノマシンを体内に注射し、自ら膨大なストレージと化すことで、情報メディアはリムーバブルでもウェアラブルでもない、さらに次のステージへと進んだ。
 そう、破滅のステージへと。
 歴史が示すように、問題はすぐに表面化した。おびただしい数のナノマシンが、不法投棄された大型ストレージから空気中に散逸した――正常に消去されなかった情報と一緒に。それが雨に乗って地上へと降り注ぎ、人々に膨大な情報デブリを叩きつけた。それだけではない。雨の日になると、あまりに不連続に感情を爆発させる者が増え、その問題行動が世間の語りぐさとなった。ついには、雨のせいで臨死体験をしたという報告が相次ぎ、調査委員会が発足した。原因は、不慮の事故や残虐な事件に遭遇した人々のナノマシンが、適切にロックを施されないままに恐怖や死の記憶を流出させていたことだった。
 何十億年前からそうしてきたように、地球は水を循環させ、大地に雨をもたらし続ける。いつしか辞書から「慈雨」という言葉は消え去った。

 宛てもない手紙は、今日も大地をえぐっている。

   ***

 君を追いかけて、こんなところまで来てしまった。北緯六十度をめがけて北上していく、君の背を幻視しながら。偏西風に乗ってもうすぐきっと、君はあの海を越えてしまう。ここにとどまるのも、頃合いだと思った。何より、僕は太宰が嫌いだった。彼と同じだとは思いたくなかった。

 あの日、海辺の灯台でかき鳴らしたへたくそなエアロスミスは、君をどれだけ苦しめていたのだろう。

 Now I’m tryin’ to forget you.
(今僕は君を忘れようとしている)

 できるはずがなかった。錠の壊れた入り口から内部に進入する。ささいな反社会性と、六つの弦を爪弾つまびく高揚感が僕を盲目にしていた。体内のナノマシンが熱暴走したかと思った。耐水性の愚かさが、僕の血潮を巡っていた。

 I was cryin’ just to get you.
(僕は、君が欲しくて泣いていた)

 涙なんてまやかしだ。それすらも恋でしかなかった。こめられた欲望だけがすべてだった。灯台の最上部にたどり着く。闇夜のヘヴィ・ロックは自分勝手にヴォルテージを上げていく。夜をく光のたもとで、くらい海の一番近くで、君はぼんやりとこちらを見上げていた。

 Now I’m dyin’ just to let you.
(君が自由すぎて僕は死んでいく)

 君は笑っていた。笑えるはずもないくせに。それすらも優しい嘘だとは、僕には気づけなかった。きっと、君には歌詞の意味なんて分からない。それでも、この間抜けなパフォーマンスの意味は、うんざりするほど分かっていたのだ。今まで一番そばで僕を見ていたのだから。僕は君を愛していた。君が、君だけが愛だった。

 Your love is sweet misery.
(君の愛は、甘い悲劇だった)

 一瞬だった。君は何かを叫んだ。その瞳が、一瞬だけきらめいた気がした。君が海に魅入られていたことは知っていた。君の身体が揺れる。夜は君を包み込んで、永遠に連れ去ってしまった。海は漆黒の穴のようだった。空気はべたつき、風は強すぎる。僕は死後硬直みたいに動けなかった。ただ、愛する人が、たった一人の妹が、冷たい冬の海へ消え去った事実に呆然としていた。
 知らなかった。愛は、人を殺すのだ。
 その遅効性の毒を、僕は絶えず与え続けた。来る日も来る日も、それが良いことだと信じて、それを与えるべきではない存在へ。大丈夫だ、と笑う君の言葉に騙されて。
 僕の愛こそ、悲劇だった。ただただ苦い、許されない悲劇だった。

   ***

 雨の日には、傘をささずに歩く。
 降り注ぐ幾つもの記憶に何度も、何度も臨終しながら僕は探している。君の涙を、君の残滓ざんしを。君が、最後にどんな言葉をこぼしたのかを。
 その絶望に耐えるには、きっと、億の死でも足りない。

引用:Aerosmith “Cryin'” 1993.

サークル情報

サークル名:Bamboo Storage
執筆者名:たけぞう
URL(Twitter):@Takezaux

一言アピール
 愛についての物語を書きます。物語が私のすべてです。
 私を忘れないで。嘘です。どうか忘れてください。
 私の物語だけ、あなたの記憶の片隅にいさせてください。

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