前略、額の中より

 その絵には《恋文を読む女》の題がつけられていた。
 一糸まとわぬ姿でソファに横たわる女が片手に便箋を持ち、気だるげにそれを眺めている。シンプルな構図と控えめな色彩が小さなカンバスに収まった一枚は、壁に並ぶ作品群の中では間違いなく地味なほうだった。
 二〇一X年初夏。入場無料の画廊には鑑賞目的、あるいは冷房の風目当ての人々が出入りする。今週の展示物はどれも色味やポーズの異なる肌色に彩られていた。
 さて、順路通りに巡っていく客の中に一人、その小さな絵の前で立ち止まったままの男がいた。
 受付に座っていた女が席を外し、動かない男の隣へやってきた。そして彼の横顔を確認してから小声で呼びかけた。
「あの、もしかして、天蓋てんがい先生でいらっしゃいますか」
「……ええ、まあ」
「西原陽介の妻でございます」
 深々と頭を下げる女から、男は一歩分だけ下がった。
 丁寧な挨拶の続きが耳に入ってこない。自分のことを知られていたから驚いたのではなく、彼女が続けて口にした名前こそが意外だった。
「陽介さんが、夫が元気だった頃、よく話してくれました。先生が来たときは必ずこの絵の前で立ち止まって新しい解釈を考えていたと」

 小説家、天蓋基宗もとむねがその絵に出会ったのは三十年ほど前、大学を中退してバイトで食いつないでいた頃だった。挫折の痛みがようやく和らぎ、遠い昔の夢を思い出して原稿用紙を広げてみたが、少しも筆が進まない。行き詰まりの連続から逃げようと、街角のポスターで知ったグループ展にふらりと立ち寄った。
 派手な作品に挟まれた小さな額縁は普通なら一瞥だけで終わっただろう。ところが女の絵の隣に真っ白な一枚が飾られていて、まずそちらに引きつけられた。同じデザインの額縁に納まっていたのはなんと何も描かれていないカンバス。手前には小さなテーブルが置かれ、広げられたノートの脇にボールペンと貼り紙が添えられていた。
《ここにあるのはどんな絵だと思う?》
 ノートには好き勝手な落書きに混じって多様なアイデアが書き込まれていた。手紙の内容、書き手の姿、文を待つ女の午睡。差出人との逢瀬を楽しむ様子。真っ白なままが正解で、それは便箋の裏面、あるいは何も書き出せない状態かもしれない。
 一枚の絵といくつかの条件を与えただけでこれほど多様な発想が出てくる。同じ絵と同じ説明を見ているはずなのに、万人が好き勝手に様々な価値を紡ぎ出している。
 じっとしていられなかった。
 天蓋はボールペンを手に取り、次のページに記した。
《扉の前に立つ郵便配達員》
「そう来たか!」
 いきなり耳元で叫ばれた。
 いつの間にか天蓋の斜め後ろに若い男がいて、ノートを覗き込んでいた。名札をつけている。
《西原陽介》
 二つの小さな額縁の下にも同じ四文字が添えられていた。
 真っ白なカンバスを眺める冴えない男に作者が気づき、面白がって見物していたらしい。名前こそ平凡、恐らく本名だろうが、その作風と展示方法はグループ展の中でも異彩を放っていた。
「具体的にはどんな感じ?」
「ここに扉があって、配達員が封筒を差し入れる場面です」
 天蓋は二つの額縁の間を指した。
「つまり覗き見?」
「いえ、郵便受けしか見ていないでしょう。住人が何をしているか詮索する余裕なんてありませんから」
「なるほど!」
 静粛を求められる画廊に明るい声が響いた。幾人かは振り向いたかもしれない。
「でも見てろよ、芸術はまだまだ生まれ続けるんだ。額の中だけがすべてじゃない」
「そのうち大喜利大会にでもなっていそうですね」
「最高。お前面白い奴だな、今度一緒に飯でも行こうぜ」
 後で聞いた話によると、当時の陽介は卒業間近の高校生。作品を持ち寄った画家たちの中で最年少だという。つまり天蓋より年下だったが、なれなれしい態度については黙っておいた。その年でこんな大胆な絵を、と思ったことも口に出さなかった。

 スマホどころか携帯電話も普及していない時代。悪戯めいた展示物の前で知り合った二人の交流は手紙が中心になった。「飯に行く」は結局実現しなかったが、年賀状と仕事の宣伝以外にも年に何通かの封書が互いの家に送られた。
《プロ作家デビューおめでとう!》
 天蓋の長編小説が初めて書店に並んだ日、陽介から花と共に激励のメッセージが届いた。
 記念受験した大学に運良く合格したときと比べれば祝ってくれる人は少ない。凡人が名門のレベルについていけず脱落した頃にいくつもの縁が切れ、親元にも連絡ひとつ出さなくなった。『天蓋基宗』は筆名なので、顔か映像がメディアに載らない限りは誰も正体に気づかないだろう。
 新進気鋭の画家からのエールは担当編集者のハグの次くらいに感激した。しかし御礼の手紙にそのことは含めず、代わりにこう書いた。
《担当が貴方のスタンド花に驚いて腰を痛めました。次から宇宙生物はやめてください。》
 天蓋は小説を書き続け、何作目かで小さな賞を獲ったことを機にバイトをやめた。陽介は裸婦を描き続ける一方、大学卒業後は美大志望者に技術を教える職に就いた。
 二人が次に直接顔を合わせたのは陽介の個展、あの絵の前だった。ノートは置かれていなかったが、天蓋は同じ問いに口頭で答えた。
「誰もいなくなってソファだけが残っている絵」
「どういうこと?」
「特に意味はありません」
「いいねえ」
 陽介は天蓋の肩を叩いて笑った。
「何を伝えたくて描いているんだ、なんて言われることあるけどさ、あれ困るよな。小説でもよく言われない?」
「先週言われました」
「主義主張があるなら最初からそれメインで作ってるっつーの。俺はこんな美しいものに出会った、形にしたい、彩りたい。それだけなのに」
「強い衝動は理屈から生まれるとは限りませんから」
「本当それ!」
 天蓋が描く彩りは文章の形をしている。陽介にとってそれは女の肢体の形をしている。
 目の前の油彩画はセクシャルな描写とも取られかねない作品なのに、いくら凝視しても身体は平熱のままでいられた。しかし頭の中では無数の場面や選択肢や物語が溶鉱炉のように熱く煮えたぎっていた。

 陽介が作品を一般向けに展示すると天蓋は必ず赴いた。天蓋が書店でサイン会を開き、そこへ陽介がひょっこり現れたこともあった。
 しかし往復は思いがけず途切れた。
 一九九X年、天蓋のデビュー作がテレビドラマ化された。ところが原作をなぞった筋書きでは十二話分の尺に足りず、脚本家が独自のエピソードを追加したところ、その場面を模倣した殺人事件が起きてしまった。
 批判や中傷の嵐は制作陣やテレビ局だけでなく出版社と原作者にも押し寄せた。他人の手による挿話が悲劇の原因と知る原作ファンからは擁護の声も上がったが、警察沙汰になるほどの脅迫を受けたショックは天蓋の筆を止めるには充分すぎた。
《俺のせいかもしれない。》
 その年の暮れに陽介から手紙が届いた。
《あのシーンで飾られていた肖像画は俺が描いた。返り血浴びて笑っているみたいで怖いって騒がれたあれだ。》
 知人の依頼で手を貸し、撮影現場の見学もしたという。スタッフロールに彼の名前はなく、載ったところで事件との関連性など微塵も疑われないだろう。しかも犯人は既に逮捕されている。それなのに彼の筆跡は本物の後悔と焦燥で覆われ、まるで犯行をそそのかした人物の懺悔を読んでいるようだった。一方でその理由らしき記述はなく、どうしても納得いかない天蓋は返事を出せなかった。
 手紙を書棚に隠そうとして、過去の個展のカタログが目にとまり、つい開いていた。額縁に収まった真っ白な絵に、ソファの上にうずくまる裸の女が重なって見えた。

 一年後、執筆再開を知らせる葉書を皮切りに文通が復活した。しばらくして陽介は久々に展覧会の招待状を送ってきた。
「読んだよ、『飛行士ヨハネスの彷徨』」
 天蓋が再会の直前に上梓した新作はSFだった。
 謎の巨大生物が地球の各地に出現し、衛星軌道上にある宇宙ステーションへの物資補給が途絶えた。取り残されたクルーたちは危険を承知で地球帰還ミッションに挑む。そんな筋書きの小説はもともと週刊誌の連載だったが、例の事件の余波で打ち切られていた。ほとぼりが冷めた頃に他の出版社の誘いを受けた天蓋は、中途半端な未発表原稿を打ち捨て、プロットから書き直した。
 クルーの友情と極限環境の緊迫感で魅せる前半から一転、後半の軸は組織内での生き残りをかけた人間同士の争いや駆け引き。スリリングな展開は高い評価を受け、後に天蓋の著作の中で最高の売上を記録した。
「最初の方もドキドキしたけど、そこからあの泥沼の後半。全然違う話みたいなのに、ちゃんと一冊の話だった。やっぱりお前凄いわ」
 読者の熱い語りを聞きながら仰いだ額縁の中には、白い背景の前に佇む一人。預かった恋文を届けに来た少年は自分の想いを抑えきれず泣いていた。

 天蓋の代表作が文庫化された年、陽介はこの世を去った。いつも騒がしかった彼は死んだときも世間を派手にざわつかせ、すぐに存在ごと忘れられた。
 それから十年近くが過ぎたこの夏、彼の作品は回顧展という形で再び日の目を見た。このとき初めて《恋文を読む女》は両隣を別の絵に挟まれる形で展示された。
 あの額縁だけの絵はどこへ行ったのか。
「陽介さんはいつも、この絵を飾る位置にこだわっていたそうです。人が立ち止まっても邪魔にならない広い場所へ置いてくれって。きっと先生の考察を毎回楽しみにしていたんでしょうね」
 挨拶ついでに打ち明けてくれた西原夫人は他のスタッフに呼び出され、受付へ戻っていった。残された天蓋は思い出深い絵をもう一度見てから、ふと視線を感じて振り返った。
 向かい側の壁に真っ白なカンバスが飾られていた。
 新しい題を与えられた額縁の上で、懐かしい友が頬杖をつき、こちらに手を振っていた。

《前略、額の中より》

サークル情報

サークル名:化屋月華堂
執筆者名:Rista Falter
URL(Twitter):@Rista_Bakeya

一言アピール
現代ファンタジー長編『DROPOUT』は本作と同じ回顧展の場面から始まります。陽介にそっくりな顔と真逆の嗜好を持つ息子が父の最後の願いに翻弄される物語です。
立ち止まることもあるけれど、何かを書かずに、作らずにはいられない。そんな皆様が集う祭典テキレボEX2、いよいよ開催ですね!

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