ゆきにねむる
雪にうずもれたこの地より遥かかなた、南の海に連なる小さな島々の中でも有人島としてはもっとも小さなとある島から手紙を受け取ったのは、冬眠時期も残りわずかな冬の終わりのことだった。
ポストに重なっている封筒のうち四通は兄から僕に宛てられたもので、残り一通はパパからママへのものだった。兄からの手紙を引き抜き、玄関へ戻る。
ドアノブに手をかけて、ふと振り返る。雪に乱反射する光が目に痛い。あたりを見渡せど幾本かの針葉樹が無言で直立するばかりで、動くものの気配はなかった。耳が痛いほどの沈黙に支配されている。
皆学校にいるのだろう。寒さをおそれぬこどもたちを除けば、こんな季節に外を出歩くのは郵便配達夫くらいだ。
それでも近頃は冬眠なんて流行らない。この村で冬眠しているのは僕の家、つまり、ママと僕のふたりだけになった。ママはママの偉大なるパパ(つまりは僕の祖父)の教えを今でも頑なに守っている。
扉の軋む音でママを起こさないよう、慎重に家へ入る。もっとも、ママが冬眠中に覚醒したことはない。兄も僕の知る限り一度眠れば春まで決して起きなかった。真冬に浅い夢からたびたび覚めてしまうのは僕だけだ。
パパは、というと、生まれたときから冬眠なんてしたことがないという。都会のひとはみんなそうなのだ。彼は春から秋を僕らと一緒に過ごし、冬になるとこの地を出ていく。「あのパパとママが何とかうまくやっていけるのは、冬眠期間があるからなのさ」とは兄の言葉だ。家を留守にする間、研究者のパパはあちこちの土地を巡ってフィールドワークに没頭しているらしい。
いつも僕と同じベッドで冬眠していた兄は、今年は父についていった。
部屋に戻り、勉強机の椅子を引く。兄からの手紙はどれも青地に一本のラインが入った封筒に入っていた。消印の古い順に並べていく。
はじめの一通は年が明けて少し経ってからのものだった。中には封筒と同じ柄の便箋が一枚だけ入っていた。
『白翠へ
列車と船を乗り継いで、ようやくノア島についたところだ。まるで楽園かと思うような気候におどろいたよ。これだけあたたかければ、確かに冬眠なんて不要だろう。底まで透きとおるブルーの海が美しいよ。お前がひとりでもよく眠れるよう祈っている。 群青』
「今回は群青を連れてシスニア諸島に行ってくるよ」昨年、パパが寝耳に水の宣告をしたのは、降誕祭のディナーの最中だった。困惑した僕は家族を見渡したが、冗談だと思ったのは僕だけで、皆の間ではとうに合意がなされていたのだった。兄は何を云うでもなく、静かにチキンをナイフで切り裂いていた。
冬眠に入るのは降誕祭の翌日と決まっていた。次の朝、トランクを手に旅立つ父と兄を見送って、僕は生まれて初めてひとりで冬眠に入った。
冷え切ったシーツにくるまったときのひどい気分を思い出し、僕はため息をつく。今以上に最悪な冬眠が、果たして今後あり得るだろうか。
次の手紙は饒舌だった。
『白翠へ
僕らの村もずいぶん田舎だが、ノア島はさらに上を行っている。島にはスーパーマーケットが一軒、酒屋が二軒、あとは観光客向けの食堂があるばかりだ。まともなノートとペンが欲しいと思ったら、フェリーに乗って隣の島まで出向かなきゃならない。テレビジョンに入る電波はふたつだけ。ひとつはあたりの島々のニュースを一週間分、平日の昼間に延々再放送しているようなローカル局だ。ニュースの意味を知っているのか疑うね。
といっても、ここでの暮らしはは割と気に入っている。フェリーは窓を覆う勢いで上がるしぶきを眺めていれば退屈しないし、白砂の敷かれた島の道はどこまででも歩いていきたくなる。それから、散歩をしていると必ず僕の前を横切る黒猫がいるんだ。決して仲良くなったわけじゃあない。大体いつも二ブロック先を横切るもんで、互いに挨拶なんかしない。でも実のところ、白い道と黒猫のコントラストに毎度惚れ惚れしている。
二百人強しか住人の居ないこの島に、観光客は毎日何百人とやってくる。美しい海とあたたかな気候がこの島の最大の観光資源だ。飛行場はないから、やっぱり隣の島からフェリーに乗ってくる。そこらのハイビスカスを毟り髪に挿してははしゃぐ彼らを乗せた最終のフェリーが夕方島を出発すると、ようやく波の音が聞こえるくらいの静けさが戻るのさ。
起伏のない島だから、夜には視界いっぱいの星空を見られる。いつか隣町まで見に行ったプラネタリウムのようだ。今の季節には南十字星が見られるらしい。見つけたら報告する。 群青』
雪を踏みしめる音に、僕は立ち上がって窓の外を窺った。郵便配達夫が隣家のポストに郵便物を入れるところだった。のたのたと足を引きずりながら僕の家を通り過ぎて行く。庭のモミに彼の姿が隠れたところで、僕は机に戻った。
兄が生まれたときに植えられたというモミの木に、僕と兄は毎年降誕際の飾りつけをした。はしごを使っててっぺんに星を乗せるのは兄の特権だったが、兄と僕の身長差がわずか二センチとなった去年、その大役は僕へと受け継がれた。
「白翠!」するどい兄の声が上がったときには手遅れだった。僕はバランスを崩し、はしごの上から地面に投げ出された。
幸いだったのは、地面に二十センチ近く雪が積もっていたことと、僕の上へ倒れこんできたはしごを兄が受け止めてくれたことだ。
「怪我は」
大事はないと判断した兄が安堵のため息をついたが、落下のショックと首筋で溶ける雪の冷たさに凍りつき、僕は仰向けに倒れたまま、しばらく黙って兄を見上げていた。
青と茶色の混じった鉱石のような兄の瞳が、ふと、不可思議な感情に彩られる。彼はつぶやく。「そうしていると、まるで彫刻のようだ」
こんな風に時折、形容しがたい複雑な表情で兄は僕を見つめてくる。しゃがみこんだ兄が僕の頬の雪を払い、輪郭をなぞるようにして、首筋へ指を滑らせていく。
「お前が作り物だったなら、ずっと手元に置いておけただろうに」雪よりも冷たい指先が僕の呼吸を止めてから遠くでママの悲鳴が聞こえるまで、どれくらいの時間があっただろうか。
『白翠へ
ようやく南十字座を見つけた。北斗七星の柄杓の持ち手とおとめ座のスピカをつなぐ曲線を頭に思い浮かべてくれ。この曲線のさらに先にあるからす座、その台形の底辺の両端から下へ線を伸ばすと、ケンタウルス座のガンマ星とデルタ星がある。これらを通り過ぎ地平線付近に光る十字にたどり着いたら、それが南十字だ。
僕はずいぶん遠いところへ来てしまった。お前がまだ雪の下で眠っている間、僕は長袖のシャツ一枚で夜中に終着駅の星を見ている。でもそれで良いのかもしれない。
また書く。 群青』
『白翠へ
こちらの桜はすっかり散り、復活祭もまだだというのにまるで真夏のようだ。日陰にいてもあたまがぼんやりして、このままからだが腐って崩れ落ちてしまうんじゃないかと思うよ。それも悪くない、と思うほど思考が鈍化している。
そんな具合だから、最近はすっかり昼夜逆転の生活だ。昼間の喧騒や熱気がすっかり消え去ってから起き出し、遅い日の出を待たずにベッドへ戻る。星が白砂を照らし出す道を散歩するときだけは、頭も幾分かクリアだ。
例の黒猫はもうずいぶん見ていない。昼間に歩いていたころにはあまり気に留めなかったが、散歩中に通り過ぎる家のほとんどは空き家なんだ。夜、明かりの消えた家々は高く積み上げられた石垣の奥に沈んでいる。
この島の石垣は珊瑚の死骸でできているそうだ。そんなところを毎夜あてもなく歩く僕は、もしかしたら、死んだことに気づかず墓地をさまよう幽霊なのかもしれない。
パパの書斎で、死後の世界は海底、あるいは沖にあるという伝承を読んだ。この島こそが沖にある死後の楽園なのか? それとも、銀の月明かりが指し示す海底への道をたどった先に、あの世があるのだろうか。僕はそれを確かめたい気がしている。 群青』
最後の手紙はひとつ前の手紙から数日後に投函されていた。二枚の便箋は水でも吸ったのか、ごわごわと波打っている。
『島に厄介な伝染病が蔓延している。島への出入りが禁止になったので、当分そちらに戻れそうにない。手紙もこれ以降は送れないだろうが、心配は無用。』
一行だけの手紙。二枚目には何も書かれていなかった。
引き出しから、昔兄が誕生日にくれたライターを探す。真鍮のケースに僕の生まれた日付が刻まれたものだ。着火したそれを白紙の便箋に近づける。
やがて五つの文字が浮かび上がった。僕はその文字をゆっくりと目で追った。もういちど読んだ。もういちど、もういちど。繰り返し文字を追った。
それは、僕の首を絞める兄に、声の出ない喉で絞り出した言葉への返事だった。
ママたちは知らない。兄の混沌としたまなざしを向けられるたび、僕の魂が生きている歓びに震えていたことを。ママたちは知らない。雪に閉ざされた世界で兄の手をもって永遠となること、それは兄の望みなんかじゃなく、僕自身の望みであったこと。ママたちは知らない。途切れる意識の中兄へ手を伸ばしたのは、彼の魂をも雪の中深く深く埋めてしまいたかったからだということを。
ママたちは、知らない!
「兄さん、兄さん……」
僕はうめいた。彼はもう戻らないのだと直感していた。暖房のない部屋は皮膚を裂くように冷たくて、喉と頬は焼けるように熱かった。握りしめた便箋がいくつもの水滴を吸い込んでいく。
手紙を抱えたまま、僕はベッドにもぐりこんだ。窓の外で溶けだした雪が屋根から一斉に落ちていく音がしていた。もうすぐやってくる春を呪いながら、僕は固く目を瞑る。
もういい、もういいよ。
君がいないのならば、もう。
何もかも、全部。
サークル情報
サークル名:七つ森舎
執筆者名:津森七
URL(Twitter):@tumori_nana
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