隠れ姫の恐怖症
「お誕生日プレゼントです」
そう言って渡されたものを受け取って、少女――メディアは困惑を隠しきれなかった。
プレゼントらしく丁寧な包装も施されず、しかも蓋を開けて中身を見せた状態で渡された文箱。そこに、水色の同じ紙で統一された封筒と便箋が入っていた。封筒に印字された丸形の紋は、メディアの属する領主家の紋を少し改変した、メディア個人を表すものだ。
「おめでとうございます」
と、なんの悪びれもない輝く笑顔で、目の前の男――シュルスが言った。
海辺の都市出身のこの男は、この館ではどこか異質だ。太陽のような明るい性格とどこか都会的な雰囲気が、この雪深い山岳の辺境領にあまりにもそぐわない。メディアは彼のことが苦手だった。
メディアはシュルスの笑顔から逃れるように顔を伏せて、文箱に目を落とした。
メディアの父であり、このアンティカの領主であるエーテスト、領主夫人である母も自分用に誂えたレターセットを持っている。しかしそれは、公務で必要になるからだ。ならば、メディアには必要がないのではないか。
「メディア様も十五歳になられました。エーテスト様もイーダ様も、メディア様には領主家の娘としてあるべき振る舞いを求めておいでです」
「嘘よ……」
反論するメディアの声が震えた。
「大体、こんなものを貰ったって、わたしには手紙を送る相手などいないわ」
「いずれは必要になるものです」
シュルスが即座に切り返した。
メディアだってわからないわけではない。領主家の一人娘として、いつかは父母のように公の場に立たなければいけないし、領内外の社交界にも出ていかなければいけない。それが年頃の娘というのならなおさら、貴族社会のなかで優位な婚姻をするためにも、社交界に顔が利くことが不可欠だ。
しかしメディアは、十五の歳になって一度も社交界に足を踏み入れたことがなかった。両親に誘われ、メディア宛てに見も知らぬ誰かから宴の誘いが来ても、すべて「行かない」と突っぱねて断り続けてきた。
そうして、いつしか彼女についたあだ名は『アンティカの隠れ姫』。
「メディア様が人をお嫌いなのは、エーテスト様やイーダ様も、館の者すべて存じております。それに、エーテスト様からも、メディア様のご意思をあくまで優先するようにと言いつかっておりますから、我々もメディア様に無理強いをしようというのではありません」
立て板に水の如く述べるシュルスに、これが無理強いでなくてなんだというのだと、メディアは声に出さずに憤慨した。
シュルスを初め、館の者は皆、メディアを不甲斐ない娘だと思っている。
現領主エーテストは剛毅な人物で、先代から領主の座を継ぐや、一年の半分を雪に閉ざされるこの山嶺の地に産業を興し、他領との交易によっていままでにない利益をこの地に齎すようになった。そんな領主の娘なのだからと、領民たちも領外の有力者たちも、当初はメディアに注目していたのだ。
だが、メディアはそんな父親の性格や才覚をほんの少しも受け継がなかったようだった。多忙なエーテストを支え、館の内側をてきぱきと取り仕切る母親にさえ似ていないと思う。
まるで、冬の雪に覆い尽くされる山嶺の土地のように、明るい場所を嫌い隠れてばかりいる。それがメディアだった。
普通の少女ならば、社交界に憧れもするのだろうか。きっと、煌びやかなドレスを身に纏い、化粧をして髪を飾り、美しい花になることを誰もが望むものなのだろう。けれど、メディアはそんな自分を想像しても鬱屈してくるだけだ。
地味な黒髪に可憐さも派手さもない顔立ち、どんなドレスを着ても、一流の化粧を施しても、こんな自分が花になれる余地があるものか。
なにより、他者に気を遣った会話は苦手だ。一挙手一投足、言葉遣いの端々に至るまで環視され、それが次の瞬間には噂になっているような世界など、考えるだにおぞましくて身震いがする。
それよりも、メディアの好きなものだけを集めた自室で、誰の目も気にせずに、お気に入りの揺り椅子に座って読みたい本に没頭している時間のほうが遙かに幸せだ。
好きでもない他人に会うよりも、複雑な人間関係に絡められるよりも、一人で隠れ過ごすことのなにが劣るというのだろうか。
「お手紙を書いてみてはいかがでしょうか?」
怒りを端に自分の思考に没頭していたメディアは、シュルスのその一言で現実に引き戻された。
「……さっきも言ったでしょう? 手紙を書く相手などいないわ」
「いるではありませんか」
シュルスがひときわ楽しそうに、声を高くして言った。メディアが不機嫌の底にいるのに、この男はどこまでも楽天的だ。
「どこに?」
メディアは一度その顔を睨み付けてやろうと、顔を上げた。かんに障るほどの笑顔がそこにある。
「よく招待状をお受け取りではありませんか。その断りの手紙をご自分で書かれれば良いのです。ご自分のお好きなことでも少し書き添えて。実際にたくさんの方にお会いするのがお嫌だったら、文通をなされば良い」
「わたしに恥をかけというの?」
社交場に行くのが怖いから、どうぞ文通のお友達になってください、と、そう書けというのだろうか。そんなの、笑いぐさなって終わるだけに決まっている。そんな意気地のない娘と友達になろうという者などいるはずがない。
「招待状だって、好き好んでわたしに送っているわけではないでしょう。ただ、誘うべきだと思うから送っているだけ。それを、招待を受けずに文通を? ……そんなことできないわ」
シュルスは初めて、笑顔のなかに困惑のような色を滲ませた。
「好き好まれていないことのなにがいけないのですか? 会ったこともない相手に無条件に好意を持てるはずがないではありませんか。だったら、せめて文面ででも、ご自分の素直な気持ちを相手にお伝えすれば良いのです。それを笑う者も確かにいるかもしれませんが、メディア様のことを理解してくれるお方も、必ずや現れましょう」
「無責任なことを言わないで!」
気が付けばメディアの口からは金切り声のような甲高い音が吐き出されていた。そして、受け取った文箱を、シュルスの胸元めがけてぐっと前に突き出す。
「あなたが持っていて。わたしは絶対に使わない」
いまやはっきりと困惑を示したシュルスの顔が見える。彼が反射的に手を伸ばして文箱を受け取ると、だめ押しとばかりに文箱を押しつけて、メディアはすかさず踵を返して駆け出した。
廊下へ出ると、空気はひんやりと冷たい。それなのに、顔は火照って熱いほどだった。恥ずかしさで胸が一杯になる。押し寄せる不安から逃げるように、メディアは廊下を走った。
また、逃げてしまった。
自己嫌悪が澱のように心に積もっていく。
メディアだって、領主家の娘としてどうにか「隠れ姫」の名を返上し、公の場に出て父や母の手助けをしたいと思っている。それが領主家に生まれた者の義務だから。
けれど、部屋に籠もり、本の世界に没頭するのを好む者が、一体どうすれば他の貴族の子弟たちと同じように振る舞い、友好関係を築いていけるだろうか。なんの特技も取り柄も持ち合わせない相手を、まして顔も知らないで、誰が友人に選ぶだろうか。
シュルスには申し訳ないことをしたと思う。メディアのためを思って背中を押そうとしてくれていたのに、どうしても冷静に受け止めきれずに苛立ちをぶつけてしまう。館の者が相手でさえ人を選ぶメディアが、どうしてか彼にだけは感情を露わにして当たってしまうのが常だった。だからメディアは、シュルスのことが苦手なのだ。
父も、メディアが心を許していると思うから、レターセットを渡す役目をシュルスに担わせたに違いない。彼はこのことを、父になんと報告するだろうか。
廊下ですれ違う者たちの顔を見ないよう、かけられた声も一切無視して、メディアは廊下を駆け続けた。
そして、西の離れへ続く渡り廊下へ辿り着く。この先にあるのはメディアの部屋だけで、所定の時間以外には使用人たちも近付かない。
メディアはゆっくりと足を止め、肩で息をする。吸い込む空気は冷たくて、熱した体を心地よく冷やしてくれる。誰の声もしない、静謐な空気が慕わしかった。
それではいけないと後ろめたく思いつつも、メディアはやはり静寂を愛してしまう。
「はぁ」
メディアは息を思いっきり吸い込み、そして溜め息をついた。
「わたしは一体、どうすれば良いの……?」
父や母はメディアがずっとこのままでも、変化を無理に強いたりすることはないだろう。娘への期待はあっても、好きなことに打ち込むのは良いことだと、いつもメディアを肯定してくれる。けれど、先ほどシュルスが言っていた。
『エーテスト様もイーダ様も、メディア様には領主家の娘としてあるべき振る舞いを求めておいでです』
それが耳に残って離れない。義務を果たせない娘にはなんの価値もないと、そう突き付けられたようで、胸が痛かった。
果たすべき義務はいつも目の前にある。けれど、それに向き合おうとするたびに、メディアの心は悲鳴を上げたし、体は拒否して逃げ出した。一体いつになれば、この暗闇のような日々が終わるのか、あるいは、終わる日など永遠に来ないのか、わかるものなら誰か教えてほしかった。
それは、メディアの十五歳の誕生日のこと。
三年後、自らを取り巻いて起こる運命の波乱など、露ほどにも想像し得ない頃の出来事だった。
サークル情報
サークル名:さらてり
執筆者名:とや
URL(Twitter):@toya_solitary
一言アピール
アンソロ参加作「隠れ姫の恐怖症」の三年後から始まる長編小説『蜘蛛の糸(仮題)』をテキレボEX2にて発行予定です。他にも、各種ハイファンタジー作品取り揃えております。