出せなかった手紙
――天ヶ瀬結様――
荷物の整理をしていると、ファイルの間から一通の封筒がひらりと足元に落ちた。そこに書かれている宛名を見て、オレはそれが結局出せずじまいになってしまった手紙だと気が付く。
懐かしい名前に、オレの心の中に高校生時代の苦々しくも甘酸っぱい気恥ずかしい記憶が蘇ってくる。
もう存在しない天ヶ瀬結という少女は、思い返せばオレの青春の中心だった。
推理小説が好きで、知り合ってからずっとそればかりで、謎や事件に出くわせば二人でどちらが先に真相を看破できるかと競った思い出は、鼻腔の奥をツンと刺すような郷愁をもたらし、オレの手は自然と手紙の封を開けていた。高校生時代のオレ――乃木口正の汚い手書きの文字が便箋に並んでいる。視線を走らせ、内容を読み進めていくと、前半は他愛もない思い出話が綴られている。
放課後の教室で、はじめて会話をした日のこと――。
園芸部で起きた、花壇の花が荒らされていた事件と、その前年起きた服毒事件のこと――。(※1)
同級生の女子を襲おうとしていたストーカーとオレの机の中に入れられていた暗号を巡る事件のこと――。(※2)
夏休みに同人作家たちの集いに二人で参加させてもらい、そこで遭遇した殺人事件のこと――。(※2)
オレが喧嘩別れした文芸部で起きた、部費の盗難事件のこと――。(※3)
新聞部の展示用写真が怪しげな格好をした人間に盗まれ、全校生徒の中から犯人を導き出した文化祭前日の事件のこと――。(※3)
文化祭の二日間の間で起きた、映像研の上映会で起きた事件と演劇部の上演中に起きた殺人事件のこと――。(※3)
文学フリマで隣接した野々村和馬からもらった同人誌と現実の殺人事件がリンクした、数奇な事件のこと――。(※4)
クリスマス・イブ前日に喫茶店で起きた、忘れ去られた推理小説化の稀覯本を巡る事件のこと――。(※5)
クリスマス当日、生徒会長である網辺愛梨の家で催されたクリスマスパーティー中に起こった、参加者の荷物の盗難と生徒会メンバーが負傷した事件のこと――。(※5)
年末に起きた、結の友人である藤花亜彩に殺人事件の容疑がかけられた事件のこと――。(※5)
同人誌即売会で起きた、販売数と売上金が合わない『百円玉二枚の謎』のこと――。(※6)
バレンタインデーのチョコを誰に配るのかを巡る、思い出すだけでも恥ずかしい推理劇のこと――。(※6)
結の兄――解と取り組むことになった過疎化した村で起きた、死体のない殺人と暗闇で起きた見えない殺人という奇妙な事件のこと――。(※6)
過去の自分が書いた文章を読んでいると、様々な事件に立ち会った記憶が鮮やかに蘇ってくる。その都度、オレと結は事件の解明を巡り推理を戦わした。しかし、何度も何度も推理合戦をしたというのに、結局オレは一度も勝てずに、彼女の活躍を傍で見つめ続けた。それはさながら、ワトスンがホームズの活躍を描いていたかのように。
憧れと羨望。
いつの間にかオレの心の内には反するようで同居する、たった一言で言い表せる気持ちを抱くようになっていた。でも、それを表わすのに、オレは長い長い言葉を要した。手紙では後半、その気持ちを素直に綴っているが、この一言が書けるようになるまでどれだけの時間が必要だったことか。関わった事件のひとつひとつをあらためて思い出し、苦笑が浮かんでくる。
でも、オレはあの時彼女にその思いを告げることはできず、別れを迎えてしまった。後悔だけが残り、推理小説を書くという思いも、薄れてどこかに消えてしまった。
そもそも、結とはじめて言葉を交わしたのは、オレが放課後の教室で小説の原稿を書いている時だった。それ以来、彼女はオレの書く推理小説の最初の読者だった。だから、彼女が面白いと思うものを、彼女が唸るような作品を、彼女が解き明かせない謎を作るのが、自然オレの目標になっていた。
でも、その目標が不意になくなり、何を書けばいいのか分からなくなった。だから、筆を置いてしまった。まったくもって情けない話だ。
古い手紙を読みながら、己の女々しさに不甲斐なさや憤り、それでいて愛おしさなどの複雑な思いが胸の内に浮かんでくる。それらひとつひとつをしっかりと受け止めることができる自分に、「ああ、齢をとったんだな」と妙な感慨も浮かんできたりもする。
久しぶりに筆でも取ろうか。
便箋に書き並べられた若い熱量に当てられて、オレは次第にそんなことを考えはじめていた。ちょうど整理していた荷物の中から未使用の四百字詰めの原稿用紙も見つかった。まず、肩慣らしに何か短いものを書いてみようか知らん。
題材は――
そうだ、この手紙のことを書くとしよう。
オレは荷物の片付けもそっちのけで机に座ると、使い慣れた〇.三ミリのボールペンを手に持ち、原稿用紙に文字を書きはじめる。
出だしは、――天ヶ瀬結様――。
※
「ねえ、」肩を揺すり、誰かが声をかけてくる。「ねえ、起きて、」
ぼやけた視界を持ち上げて声をかけてきた人間へと視線を向けると、徐々に明瞭になってくる視界の中で女性の姿が浮かび上がってくる。
「天ヶ瀬、」
思わずその名前が口を衝いて出そうになるが、寸でのところで言葉を飲み込む。彼女は天ヶ瀬ではない。
「どうしたの?」首を傾げ、不思議そうに妻はオレの顔を覗き込む。
「いや、何でもないよ。」
ゆるゆると首を振り、執筆をしながら寝落ちをしてしまった現実を確認する。
「大丈夫?」大きな瞳を心配そうに向けてくれる妻に、オレはぎこちなく微笑みながら手許の原稿用紙を隠す。何らやましいことはないのに、何だか見せることに憚ってしまう。
と、その拍子に手紙が机の上からひらりと零れ落ちた。
「何これ?」
床に落ちた数枚の便箋を拾い、彼女の視線は文面へと注がれる。オレの静止の声が発せられる前に、彼女は冒頭に記された天ヶ瀬結という名前を目にしてしまう。
「何これ?」
同じ言葉なのに、異なるニュアンスの言葉が同じ口から洩れる。
「いや、それは高校の頃に書いたもので、」オレは慌てて今書いたものではないことを弁明する。もしも今、天ヶ瀬結宛ての手紙を書いていたとしたら、怒られるでは済まないだろう。
「ふうん、」
瞳を細めながら続く文面を読み進め、オレの言葉に嘘がないことを確認すると、彼女は視線をオレの手許へと移した。
「それで、隠しているそっちは何?」
「いや、これは、」
どうすれば隠しおおせるだろうかと考えるが、知略で妻に勝てるとは思えない。
そもそも、別に見られても不都合な点はない。妙な勘繰りをされるよりも、ここは素直に見せた方が得策かもしれない。
「久しぶりに原稿を書いていたんだ。」数枚の原稿様子を差し出す。「よかったら、感想を聞かせてよ。」
「へえ、」
彼女は感嘆の声を上げると、受け取った原稿へと視線を落とす。
目の前で書いたばかりの原稿を読まれるのは、いくつになっても気恥ずかしい。無意識のうちに逸らしてしまいたくなる視線を彼女の顔に意識的に向け、その表情を観察する。濃紺色の瞳に、小さな唇。それらが柔らかく緩んでいく。
よしっ。その表所から手応えを感じ、オレは拳を握り締める。
「まったく、」原稿を読み上げた妻は、まるで幼稚園の問題児を見るような眼差しでオレのことを見詰める。「何で、いつもこんな紛らわしい表現ばっかりするんですかね、乃木口くんは。」
昔を懐かしむように彼女は懐かしい呼び名で、オレのことを呼ぶ。
オレもつられて、彼女のことを古い名前で呼ぶのだった――
END
〈注〉
(※1)黄色の研究
(※2)天ヶ瀬結の回想
(※3)天ヶ瀬結の事件簿
(※4)四つの筆名
(※5)天ヶ瀬結最後の挨拶
(※6)天ヶ瀬結の復活
サークル情報
サークル名:妄人社
執筆者名:乃木口正
URL(Twitter):@moujinnsya1
一言アピール
天ヶ瀬結シリーズの最終話(本編はまだまだ続きます)。
シリーズ既読の方はもちろん、未読の方も楽しめたなら幸い。
注釈で、どの事件がどの作品に収められているかも書いているので、
気になるものがあったら是非、ポチって下さい。