タトラの山の義賊と牛飼い

 ブナの木々の梢が風に揺れ、鴉が空高く舞い上がった。
 針葉樹に覆われたタトラの山深く。切り立った岩場の上、肩を覆う短いマントをはためかせながら、ユライ・ヤーノシークは立っている。歳は二十歳を過ぎたばかり。少年の面影を残す美しい若者である。鍔広の黒いフェルトの帽子の下で、幾筋かの三つ編みに編まれた暗褐色の髪がなびく。
 その大きな灰褐色の瞳で、ユライは眼下の谷間をじっと見つめていた。
 地味だが作りの良い馬車が一台、二騎の騎馬の護衛と共に、道をひた走ってくる。
 ユライはゆっくりと指を口にくわえた。指笛が渓谷に高く響き渡る。

 あらかじめ仕掛けられていたブナの木がどうと倒れ、馬車の行く手の道を塞いだ。盗賊たちは、歌うように甲高い雄叫びを上げて、それぞれ身を潜めていた場所から飛び出してくる。銃を撃たせる間もあらばこそ、護衛らを馬から引きずり落とし、御者を羽交い締めにして手綱を奪い取り、馬車の扉に手をかける。
 胸元の大きく開いたドレスをまとい、髪を高く結い上げた貴婦人は、すっかり恐慌状態に陥って、ただ悲鳴を上げ続ける以外に何もできないでいる。力尽くで馬車から下ろそうと手を伸ばす荒くれたちを制し、ユライ・ヤーノシークが進み出る。彼が腰を屈め、丁重に手を取って口づけすると、その美貌に思わず目を奪われたと見え、貴婦人は急に静かになった。
「奥様、ご無礼の段はご容赦を。身の安全は私が保証いたします。我々はただ、金目のものを少しばかりいただきたいだけなのです」
 彼はぼうっとなっている貴婦人をそっと支えて馬車から降り立たせると、両耳から耳飾りを優しい手つきで外してやり、次に首に手を回して首飾りを外し、ついには指から指輪を抜き取ってもう一度口づけした。
 そうこうするうちにも盗賊たちは、供の男たちから着物を引っぺがし、馬車から積み荷を引き下ろしている。貴婦人ははっとして叫び声を上げた。
「お願い、その箱だけは返してちょうだい! 大事なものなの!」
 今にも持ち去られようとしていた、見事な象眼細工が施された小箱を、貴婦人は指し示す。婦人用の手袋をしまうためによく使われるものだ。
 ユライが歩み寄ると、小箱を手にしていた盗賊は無言でそれを差し出した。ユライは受け取った小箱の蓋を開けて中をあらため、すぐにパタンと小気味良い音を響かせて閉めた。
「よろしい、お返ししましょう。さ、もとの場所に返してやってくれ」
 盗賊はひとつ頷いて、言われた通りにした。
 何もかも奪い尽くされて哀れな有り様となった馬車の座席に、ユライは貴婦人を抱き上げて座らせると、帽子を取って深々とお辞儀をした。
「それでは奥様、この先の道中、どうぞつつがなく」
 貴婦人は途方に暮れた顔をしながらも、そうするよりほかにどうしようもないといった風情で、美しい盗賊の頭目に手を振った。着物を剥ぎ取られた御者は大きなくしゃみをひとつして、鼻を啜りながら、盗賊たちのお情けで残された二頭の馬に鞭を振るう。馬を奪われた護衛たちが、馬車の後ろに必死でしがみついていた。みるみるうちに、その姿は道の彼方に小さくなっていった
「見てください、お頭。奴らこんなに持ってやがった」
「こっちの綺麗な飾りも、村の娘っこたちが喜ぶでしょう」
 戦利品を運びながら手下たちが言う。ユライ・ヤーノシークは微笑して頷き、マントの下の隠しに手をやった。
「言われた通り『箱だけは』お返しした。中身を返すなんて、一言も言っていないよ」
 例の手袋用の小箱。蓋を開いたその時に、ユライは中身を密かにかすめ取っていた。それは、ハプスブルク家の双頭の鷲の印章で封蝋が施された、一通の手紙であった。

 山間の貧しい村では、子どもたちが曼荼羅華まんだらげのトゲのある実を投げつけ合って遊んでいた。遠くから次第に近付いてくる馬蹄の響き、それに入り混じる男たちの陽気な歌声を耳にすると、彼らは遊びを止め、ぱっと顔を輝かせた。
「ユライだ!」
「ユライ・ヤーノシークが来たよ!」
 子どもたちは勇者たちの到来をいち早く人々に告げようと、手にした枯れ枝を振り回しながら村中を走り抜ける。
 編み物をしていた者、羊の具合を見ていた者、それぞれの仕事に勤しんでいた村人たちは、何もかも放り出して大喜びで飛び出し、盗賊たちのもとへと駆けつけた。
「さあ、みんな受け取れ!」
 盗賊たちは、盗品の金貨や宝石、上等の布や装身具を馬から下ろしては、欲しがる者たちに惜しみなく手渡していく。
 ユライ・ヤーノシーク率いる盗賊団は人を殺さない。金持ちからしか盗まない。そして奪った金品を貧しい者に分け与える。彼らは誇り高き義賊なのだった。
「ユライ! ユライ!」
 人々の歓呼に片手を軽く上げて応じつつ、ユライ・ヤーノシークは一人、馬を駆る。彼が向かったのは、村はずれの小屋だった。
 小屋の前では頭巾を被った若い人妻が椅子に腰掛け、前掛けに覆われた両脚の間に桶を挟み、バターの元になるクリームを木の棒で掻き回していた。ユライは馬から降りると、帽子を取って彼女に挨拶した。
「お久しぶりね、ユライ。あの人なら家にいるわよ」
 ユライは頷いて、小屋へと足を踏み入れる。人参色の髪をした背の高い男が、赤ん坊を両腕に抱いてあやしている。赤ん坊は父親の赤毛の三つ編みを引っ張って、きゃっきゃっと笑い声を立てていた。
「トマーシュ、息災か!」
「ユライ。その名前はもう呼ばないでくれって、いつも言ってるだろ」
 ユライが頭目になる前に盗賊団を率いていたトマーシュ・ウホルチーク。今では戸籍を偽造してマルチンという偽名を名乗っている。彼は好きな娘ができた途端、盗賊業からきれいさっぱり足を洗い、この村で牛や羊を飼いながら、妻子と共に至極平凡な暮らしをしていた。

 ユライ・ヤーノシークとこのトマーシュ・ウホルチークはいささか奇妙な出会い方をして以来、浅からぬ付き合いがある。
 当時、まだ十代だったユライは、山奥の村で暮らしていたところをハプスブルクの帝国の軍に徴兵され、城の牢獄の番兵を命じられた。折しもその牢に、盗賊団の頭目であるトマーシュ・ウホルチークが捕らえられていたのである。他の番兵の目を盗んで時々杯を酌み交わすうちに、二人はすっかり互いに惚れ込んでしまった。ユライはトマーシュに手を貸して牢から脱獄させ、自分も軍から脱走して、彼の盗賊団に身を寄せたというわけだった。
 それからというもの、ユライはこの道の大先輩であるトマーシュのことを誰よりも頼りにしてきた。頭目の地位をユライに押しつけてトマーシュが堅気に戻った後も、何か自分一人で決心がつかないことに出くわした時、ユライは決まってトマーシュのところに助言を求めに来るのだった。
 そこで今回も、ユライは例の貴婦人から拝借した帝国の印章入りの手紙を手に、この朋友のもとを訪れたのである。
「ふうん、これがそのご大層な手紙か」
 トマーシュは折り畳まれた手紙を逆さまにしたり裏返したりしてしばらく眺めてから、ユライに放ってよこした。この男は文字が読めない。一方、ユライのほうは軍にいる時に教わったので、一通りの読み書きができる。
 トマーシュは、妻がバターをこしらえる時にできた新鮮なバターミルクを錫のジョッキに一杯注いでユライに勧める。ユライは片手でそれを受け取り、もう一方の手で手紙を広げた。そこには次のような文句が躍っていた。

 ――慈悲深き我らが皇帝陛下に神の恩寵あれかし。烏滸おこがましくもハンガリー君主を僭称せんしょうする叛徒はんとラーコーツィ・フェレンツはかねてポーランド領内ダンツィヒ市に亡命中のところ、既に密かにこれを発ち、七月二十日頃には国境を越えジリナ市にいたる見込み。……

 トマーシュは顎を撫でながら感慨深げに天上を仰いだ。
「英雄ラーコーツィ公が、我らがもとにご帰還あそばされるか」
 ラーコーツィ・フェレンツ。この地に暮らす者たち――かのハプスブルク家を憎む者たちにとって、その名は永遠に忘れられぬ希望である。
 かつて誇り高き独立国家であったハンガリー王国。その王家は約二百年前の戦いでオスマン帝国によって滅ぼされた。広大な王国は、ハプスブルク帝国とオスマン帝国によって二分されてしまった。その後、度重なる戦争の果てに、旧ハンガリー王国のほぼ全域がハプスブルクに帰することになったものの、皇帝はハンガリーの自治を認めず、自らの支配の下に置き続けた。そして、帝国から送り込まれた貴族たちは、私欲に駆られ、この地で横暴をほしいままにしていた。
 ハンガリー最大の貴族であるラーコーツィ・フェレンツはこれに甘んじることをよしとしなかった。彼は土着の貴族たちから成る議会の圧倒的支持を得てハンガリー君主を名乗り、皇帝に対して反旗を翻した。国中の老若男女がこれに同調した。かの忌まわしき強欲な帝国の貴族どもさえ去れば、公明正大なラーコーツィ公が豊かな世をこの地にもたらしてくれる。そう信じて、まだ少年だったユライも、トマーシュも、かつてこの戦いに加わり、帝国軍を相手に戦ったのである。
 結局のところ、蜂起は皇帝によってあえなく鎮圧されてしまった。英雄ラーコーツィ・フェレンツはポーランドに亡命し、今なお再起の機会をうかがい続けている。
 そのラーコーツィ公の帰還の時期を皇帝に密告する手紙。ユライ・ヤーノシークの盗賊団が馬車を襲ったかの貴婦人は、この手紙を『大事なもの』だと言っていたが、ハプスブルク家が放った密偵にしては彼女はいささか脇が甘すぎた。大方、使者として、何の手紙かも知らずに運んでいたのだろう。
 ユライはバターミルクを一息に飲み干すと、口の周りについた白い髭を拳で拭った。
「トマーシュ、こいつはきっと神の啓示だ。俺は正直なところ、この暮らしにもうずっと嫌気がさしてた。金持ちどもから必死で奪い、貧しい連中にせっせと配ったところで、どれだけの人間を救える? ……もっと、でかいことをやらなきゃならない」
 帝国の密偵の手紙を奪って貴重な情報を得ることができた以上、見過ごすわけにはいかない。誰よりも先にラーコーツィ・フェレンツ公の御許に馳せ参じ、帝国の圧政から故郷を開放するための戦いを、共に戦わなければならない。それこそが自分の使命ではないだろうか、というのがユライ・ヤーノシークの言い分である。
「おいおい、盗賊風情が大それた夢を見るもんじゃないぜ」
 トマーシュは肩をすくめ、大仰な溜息をついた。
「ま、どうせ、止めても無駄なんだろ。お前さんが俺の所に来る時はいつも、何でもかんでも自分ですっかり決めちまって、ただ背中を押して欲しいだけなんだ」
 ばれたか、というふうに、ユライ・ヤーノシークは白い歯を見せて笑った。彼に憧れる娘たちがこの笑顔を目にしたら、思わず悲鳴を上げて、その場に倒れたことだろう。

 数日の間、ユライ・ヤーノシークは渓谷を行く馬車や金持ちの邸宅の武器庫を襲い、武器や弾薬、馬をかき集めることに精を出した。ラーコーツィ公への手土産を用意するためである。
 そして、七月二十日頃にはジリナ市に到達するという公に合流すべく、全ての部下たちを引き連れて出立した。
 糸杉の森に囲まれた山間の細い道。盗賊たちは縦一列に並んで馬を駆った。
 太陽はごつごつした岩肌に覆われた西の山の稜線に引っかかり、今しも沈みゆこうとしていた。銅色あかがねいろに染まる空、遙か前方を野生の雁の群れが整然と列をなして飛んでいく。馬に鞭を入れつつ、ユライは何気なくそれを眺めた。
 と、一糸乱れず飛んでいたはずの鳥の列が、不意に乱れた。
「止まれ!」
 いななく馬を制しながら、ユライは部下たちに命を降す。雁の群れが列を乱したのは、その下に何かがいるからだ。――例えば、森の茂みに身を隠す憲兵たち!
 ユライは咄嗟に銃を構え、前方の背の高いシダの茂みに向かって撃った。響き渡る銃声。同時に向こうからも弾が飛んできた。それはユライのすぐ後ろにいた部下の腕に当たり、彼は思わず悲鳴を上げた。
 怯えた鳥たちが一斉に飛び立ち、逃げ去っていく。数十発の銃弾が撃ち交わされるその間に、憲兵たちは馬と共に茂みから姿を現し、盗賊たちを捕らえるべく前後左右から飛びかかってくる。
 黙ってやられている盗賊たちではない。馬上で取っ組み合い、相手を殴りつけ、ナイフをひらめかせて応戦するも、数の上では圧倒的に彼らが不利だった。
 ユライは唇を噛む。恐らくは、全て仕組まれていたのだろう。あの馬車はユライ・ヤーノシーク一味に襲われるべくして襲われ、手紙もまた、彼の手に落ちるべくして落ちたのだ。思い返せば、かの貴婦人は殊更に、ユライの注意を手紙の入った小箱に引き付けるような真似をしていたではないか。
 当局は盗賊たちを一向に捕まえられないことに業を煮やし、タトラの山奥からジリナ市に向かう彼らが必ずやこの道を通ると踏んで、あらかじめ待ち伏せていたというわけだった。しかも、ラーコーツィ・フェレンツ公の動きに呼応してということになれば、それは立派な反逆罪。罪の重さは単なる物盗りの比ではない。
 ユライが己の不甲斐なさに押しつぶされかけていたその隙に、気付けば銃剣を構えた憲兵が眼前に迫っていた。ここまでか、と覚悟を決めたその時。彼方から懐かしい音色が響いた。バグパイプの音である。
 ユライは我に返り、憲兵の顎に強烈な拳をお見舞いすると、仲間たちを振り返って叫んだ。
「みんな、頑張れ! 応援が来てくれた!」
 糸杉の森の向こうの暗がりに、無数の松明が輝いている。一体どれだけの数だか、数えてみる気にもならない。盗賊たちは勢いを得て雄叫びを上げ、猛然と反撃を開始した。バグパイプの陽気な音色は、辺りに響き渡り続けていた。
 憲兵たちはさすがに多勢に無勢と見たらしい。馬首をめぐらせ、一斉にその場から撤退して行った。
 ユライ・ヤーノシークは感極まった様子で、糸杉の木陰に立つ赤毛の男の名を呼んだ。
「トマーシュ! トマーシュ・ウホルチーク! やっぱりあんたは最高の親玉だ」
「人聞きが悪いねえ。俺は盗賊じゃなくて、ただの善良な牛飼いだって」
 バグパイプを小脇に抱えて姿を現したトマーシュは、軽く肩をすくめた。彼がバグパイプの名手であることは、盗賊団では知らない者はいない。
 あの松明の群はどうしたのか、と尋ねるユライに、トマーシュは親指で背後を示してみせた。彼が日頃世話している牛たちが、角に松明をくくりつけられたまま、モォーと鳴いた。
「トマーシュ、あの手紙が罠だって、あんたにはわかってたのか?」
「まさか。だったら、お前さんにその場で言うに決まってるだろ。ただ、あの後、少しばかり気になったんでね。こいつにお伺いを立ててみたのさ」
 トマーシュは、トランプの束を右手から左手にばらばらと落としてみせながら言った。
「クラブの六の逆位置。身の丈に合わないことをして派手に失敗する暗示。そしてハートのジャックの正位置。すなわち、友の助けによって難を逃れる」
 だから来たのさ、とトマーシュはにっと笑ってみせる。
「身の丈に合わないこと……か」
 ユライは肩を落とし、深く溜息をついた。トマーシュは手を伸ばし、ユライの背中を叩いた。
「金持ちどもから必死で奪い、貧しい連中にせっせと配る。……俺は、悪くないと思うがね。手の届く限りの人間を、助けて回るっていうのもさ」
「そうかもな」
 ユライは苦く笑って天を振り仰いだ。日はすっかり沈み切り、濃紺に染まった空を雁の群れが悠然と横切っていった。

サークル情報

サークル名:銅のケトル社
執筆者名:並木 陽
URL(Twitter):@namicky24

一言アピール
中世グルジアを舞台にした『斜陽の国のルスダン』など西洋史に取材した物語を書いています。歴史上に実在した義賊についての本を読んでいた時にこのユライ・ヤーノシークと朋友トマーシュ・ウホルチークのことを知り、彼らの関係性に大変ときめきました。書いてみてかなり気に入ったのでこの二人の話はまた書きたいです。

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