星はすでに落ちている

 ゴッホの「星月夜」だな――。
 青と黄色の幻想的なポストカード。
 郵便受けから出した手をくるっと返し、差出人の名前を見て、渡辺カナコは吐きそうになった。
 
 照本 リュウジ
 
 通信欄の書き出しは「暑中お見舞い申し上げます」で始まっていたようだったが、それ以上読めば目が潰れる、とばかりにカナコは目をそらした。ぶら下げていたホカ弁のビニール袋につっこんで、アパートの階段を駆け上がる。一階の市川さん家からは揚げ物の匂いがして、二階の新井田さん家からはカレーの匂いがする。夕食どきの、団らんの気配をくぐりぬけて到達した三階のドアの鍵を開け、カナコはまた勢いよく閉めた。
 おかえり、と呼ぶ者のない一人暮らし。
 けれど、それも今日限り。
 電気をつけて照らされたカナコの部屋は、段ボール箱がいくつか積み上がっているほかはガランとしている。古いテレビと洗濯機は処分済みで、冷蔵庫には水のペットボトルが二、三本のみ。明日の引っ越し準備は万端だった。あとで軽くシャワーをしたのち、脱いだ服や洗面用具をまとめて旅行カバンに放り込めば完璧。あとは朝を待つだけでいい。
 両親の待つ実家へと、帰る朝を。
 ホカ弁の容器を袋から救出し、急いで段ボール箱に身を寄せると、適当に流したスマホの動画にカナコは集中した。
 ポストカードは見なかった。
 ビニール袋に入れたまま、流し台に放置するので精一杯だった。
 ――気持ち悪い。
 三年も前に別れた元カレからの連絡など、ろくなものではないはずだ。ましてや、あのリュウジだ。プライドの高さと、人としてのだらしなさが融合した、ザ・クズ男・オブ・ザ・ヒモ男。妙なウンチクで偉そうにあれこれ批判するくせに、自らは一歩も動かない四十男。「会社の奴らは僕を見る目がない」と言って仕事を辞め、「いまに僕の作った映画で世界のドギモを抜いてやる」と豪語しながら、カナコのアパートで日がな一日テレビを見ていた、メタボ野郎。カナコのクレジットカードを無断で使いこみ、バレてもなお堂々と開き直っていた、あの男。
「僕を非難するなんて、君は彼女…いや人間失格だな」
「僕がいなければ何もできないくせに」
「所詮、君のような地味で平凡な女には、僕を理解できないんだろうね」
「いま謝れば、特別に許してあげるよ?」
 カナコは口に詰めこんだ唐揚げをわっし、わっし、と噛み砕き、ペットボトルのお茶で胃の腑へ流した。
 玄関へ向かうむき出しのフローリングに、ただ一か所、短い傷がついている。
 カードの使い込みを追及した末に愛というバケの皮が剥がれたあの時、リュウジを追い出すためにカナコは手当たり次第に部屋の物を投げつけた。ティッシュボックス、リモコン、雑誌、ハンガー、座椅子、花瓶。そして包丁を……叫びながら振り上げて。
「地味で、平凡で、悪かったわね!」
 刺してやればよかった。
 カナコは傷を見てぼんやり思う。
 包丁の切っ先は、リュウジの足の指の間に突き立った。奇声をあげて泡をふき、裸足で逃げるリュウジ。ドブネズミ色の、毛玉だらけのトレーナーを捕まえて、床から引き抜いた包丁を一直線に腹へと埋め込む。二度、三度と繰り返しては脂肪の壁を崩し、四度、五度で卑猥な水を全部抜いて、六度、七度、思い知らせてやる、八度、九度、私だってさあ、十度、二十度、三十度……これぐらい、できるんだよ!
 刺してやれば。
 そうすれば、何か変わることができたのだろうか、とカナコは自問する。幾度となく、ふと襲われる夢想だ。平凡で、特別なものが何もない自分が、リュウジをめちゃくちゃにすることで変わることがもしかしたらできたのではないか?町に出てパッとしない事務員をほそぼそと勤めながらダメ男にひっかかり、結局、体調を崩した実家の両親を支えるために田舎へ戻るという、華のない人生を回避することができたのではないだろうか?
 ――それはない。
 犯罪者になってどうする。
 そういうことじゃないってのは分かってる。
 けど。
 ピコン、とスマホが鳴った。
 元同僚のミカからのメールである。あいかわらずの、絵文字を多用した文面は彼女の性格そのままに、まるで万国旗がハトとともに宙を舞い、ファンファーレが鳴り響かんばかりのにぎやかさだ。

〈カナっち、元気元気元気~? 今日も今日とてアホ部長は、ウチらに仕事を押しつけザムライに候! 加齢臭は労災認定レベルMAX! アタシもカナっちについていきたいYO(涙)。嗚呼、我望む逃避行to桃源郷。向こうの良さげなキャンプ場インフォ、ヨロっす! 退職祝いのガストーチ、使ってみてねん。ぜひ秘境の地に文明を起こしてくれ! そしてカナコリアン帝国を築くのじゃああああ!! 健闘を祈る!〉

 カナコは苦笑した。たしかに、実家はド田舎だけど。
 たき火をしている猫のイラストがメッセージの後に続いて送信されている。アウトドアにハマっているというミカらしい。ありがとう……と返信をのろのろと入力している途中で、カナコはふと思いついた。
 ミカからもらった、ガストーチ。
 カナコは旅行カバンに入れておいたそれを取り出し、説明書を読んでカチカチと火をつけてみた。使い捨てライターを装着して火を灯すキャンプ用品だ。たしかに、使い捨てライターをそのまま手にして使うよりも扱いやすい。
 ピンクの迷彩柄で彩られたホルダーを握り、カナコは立ち上がって、流し台に向かった。
 リュウジからのポストカード。
 それは、さっぱりと片付いたキッチンで悪臭を放つ、違和感の塊。
 ――美術になど少しの興味も示さなかった男が、ゴッホ?
 ――「僕は世間に迎合しない」とか言っていた人間が暑中見舞い?
 別れた後でまともになった、という可能性はあるのだろう。「すまなかった」「定職についた」「ヨリを戻したい」もしくは「良い女性と結婚し、落ち着いて暮らしている」といった文面が続いているのかもしれない。しかしいくら数年の時が経ったとはいえ、包丁を突きつけられて袂を分かった人間に、暑中見舞いを送る神経がそもそもどうかしている、とカナコは思う。どんな文面であるとしても、答えはひとつしかない。
 ――やっぱり、おまえは。
 死ね。
 カナコはポストカードを左手でつまみ、ぶら下がった角にガストーチで火をつけた。炎はじわじわとカードへ移ったかと思うと、生き物のように動いて広がった。みるみると月を喰い、星を喰い、青い夜を喰う。黒い残骸がシンクに落ちていく。間もなく、カナコはつまんでいたポストカードの角を離した。そこをすぐさま炎がのみこむ。そのままシンクに落ちた炎は燃えカスの上でしばらくトロトロと寝そべったのちに、すうっと消えていった。赤い残火がわずかに明滅して、そのあとで完全に消えた。
 消えた。
 カナコはティッシュで燃えカスを拾い、わずかに残っていた町指定のゴミ袋に入れて外に出た。アパートの階段を降りてすぐ脇にある、ゴミステーションのケージの前に立つ。本来なら明朝に出すルールで、そのルールを破ったことのないカナコであったが、リュウジの死骸と一晩過ごす気は全くなかったし、二階の新井田さんがいつも前日の夕方にゴミを出していることを知っていた。予想通りの先客の隣に、丸めたティッシュ一つを入れた袋を立てかけて、ケージを閉めたカナコは再度階段を上がった。
 ドアの前を通り過ぎるたびに、かちゃかちゃ、と茶碗の鳴る音やナイター中継の声がかすかに聞こえる。退去の挨拶は済ませているから、もう顔を合わせることもないだろう。挨拶の時にクッキーを渡した市川さんには、無理せず子育てを頑張ってほしいし、煎餅を渡した新井田さんには、いつまでも元気にウォーキングを続けてほしい。大した交流があったわけじゃない。トラブルもない。特別な何かが起きたなんてこともない。
 地味で平凡だったけど。
 ――なにより、じゃないか。
 カナコは部屋に戻ると、ミカへの返信の続きを入力した。

〈ありがとう。私、渡辺カナコは、平穏なる悠久の桃源郷・カナコリアン帝国を建国せんことを賢者ミカに誓います。ミカより賜りしガストーチで灯した聖火は、きっと帝国の版図をあまねく照らし、どんな困難にも決して消えることはないでしょう。賢者降臨の際はいつでもお迎えに上がります。建国前でも大歓迎。帝都建設予定・渡辺家敷地内にてテント設営可能なり。自家製野菜と肉完備。クマ除けの鈴あれば尚良し。連絡待つ。〉

 すっかり冷めた唐揚げの残りを平らげて、カナコはフローリングに大の字になった。
 目を閉じれば、燃えていったゴッホにも負けない、実家の夜空がある。
 小さい頃、流れ星に願ったのは何だったろうか。
 ピコン、とまたスマホが鳴った。ミカである。

〈最の高なり~!!カナコリアン帝国バンザイ!カナっち大帝、バンバンザイ!〉

 ああ、世界征服、だったっけ。

サークル情報

サークル名:草幻社
執筆者名:梓野みかん
URL等:無し

一言アピール
〈稲取-03〉草幻社の梓野みかんです。せっかくの残機なので、二本目の参加です。元々「星」をテーマにして書いたもので、手紙味は低いのですが、ポストカードも出てくるし…と思い、えいやッと投稿しました。お読みいただき、ありがとうございました(^^)/。

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