手紙
紗に届いた竹の書簡筒には墨で蛙が描かれていた。一筆でさらさらと描きつけたのであろうごく簡単な手跡であるが、簡略化された線には無駄がない。相変わらず諸芸達者な方だと燕児は感心し、差し出された筒竹から薄紙を引き抜いて紗に渡した。
紗はたたまれた薄紙を開かない。いつものことではある。
「重畳至極」
中身も見ずに細くつぶやいて、薄紙を隣の秀にそのまま押しつけた。
受け取った秀はニタリと笑う。その笑顔を見るたびに蛇に似ていると燕児は思う。秀は見てくれは大変に美しい男子であるが、人性から離れている部分が強い。秀に限らず白い髪の男たちは揃ってどこか危うくて、人面皮の下から別の獣の息づかいが聞こえる気がしてたまらなかった。
秀が上機嫌に
「確かに受領したとお伝えせよ」
そう使者に声をかけ、もうよいというように手をさっと払った。
使者が去った途端、秀は大きなため息をついて「主上」とやわらかな声を出した。
「そろそろ北塞の御方にもお里へ戻るようお勧めになったらいかがです? もう十分な時間を与えたし、こんな状態で長く据え置かれるのはあの方もお辛いのでは」
「范儀士」
つい燕児は口を挟んだ。范は秀の本姓である。
「主上がお決めになることにあなたが口を挟むのではありません。わきまえておいでなさい」
秀は一瞬むッと唇を突き出し、面白くなさそうに沈黙した。
女王の愛人の下層の位である儀士は後宮の官吏という扱いで、階級とすれば後宮の長である燕児の部下である。階級といっても今女王の元にいるのは全員儀士か賓士だ。もちろん愛人であれば閨で女王に讒言を吹き込むこともできはするが、紗は鉄女王の二つ名の通り、表情にも声にも感情が出ない。女王の愛情一つを頼みにする後宮の男たちからすれば手応えとつかみ所のない主のはずで、彼女の機嫌を推し量るのはひどく難しいのだろう。
紗はいくぶんほっとしたらしい。燕児の知る紗とは大変な面倒くさがりである。愛人をたしなめる役を燕児が引き受けたので安堵したようで、ゆったりとうなずいた。相変わらず眉一つ動かさないが、長くそばにいる燕児にはわかる。秀にはわからない。わからないから不満という顔をしても、あからさまに燕児に楯突いたりはしない。枕頭に侍る際にひとしきり紗に何かを言うかもしれないが、面倒のつけを払うのだからそれくらい我慢したらいい。
……あたしもだいぶんお偉くなったものだ、と燕児は苦笑になりかけてぎゅっと口を結んだ。ふてくされた女王の愛人を見てにやにや笑うとは褒められた趣味とはいえなかった。
「いつものようにお戻しいたしましょう、主上」
とりあえず秀の不服など無視して燕児は話を進めた。紗がまた鷹揚にうなずく。手紙の返事は燕児が書くことになっている。返事といっても先の書簡を見るわけではないが不都合が起きたことはなかった。あちらも手紙は侍従が書いて寄越しているし、こちらだって燕児が書く。天気の話と飼っている猫の話で埋めているのは誰に見られても一向にかまわないからだし、あちらの手紙だってどうせ犬の話ばかりだ。
とどのつまり、内容など何でもよいのであった。しかし形式としての書簡のやりとりはせねばならない。紗が女王であるからではなく離縁していない正式な夫婦である証左としての書交換であるからで、秀がいらだつのも分からなくはない。別居してから八年になる夫婦だ、そろそろ、とは秀でなくても言いたくなるかもしれなかった。
正配である武公は北の塞に閉じこもったままだ。紗が即位してからこうして月のやりとりはあるが王都へ出てくる気配はない。
己を恥じているのだ、と皆は言っていたし燕児も同感だった。目麗しく才気迸る者も多い、白い髪の男たちの中にあれば武公はどうにか褒めようとすれば平凡というのが精一杯で、実際は少し反応が鈍い、おっとりといえばおっとりの感気の鈍い男である。それだけでも気後れするだろうに、春王女の死は父親である彼の責が大きい。何の申し開きも言い訳もせずに北塞へ引きこもってしまったから実際の言葉を聞く機会が結局なかったが、噂では娘である王女よりも飼っていた犬を優先したということらしい。
紗が何も言わぬのはいつものことであるが、叱責なら叱責、容赦なら容赦と一言いってやれば終わる話でもある。が、女王はそれもしない。寄ってくる種馬をどういう基準か知らぬが選別し、適当にあしらい、飽きたなら一顧だにせず捨てている。唯一捨てていないのが今も籍だけ残る正配公子だ。
もっとも、秀は自分が正配となりたいはずだった。彼は白い髪の男たちの中でも出自がよく、紗から見ても従弟にあたる。身分に申し分なく主上の寵愛も既に四年となった彼が欲するのも無理はない。彼は燕児が大嫌いだろうが、燕児の機嫌を損ねてもつまらぬことは知っていて細々とした品や金は折に触れては寄越してくる。
部屋に下がって書簡をしたためていると秀からの使いが絹の色糸を届けにきたのも「自分のことを手紙に書いてくれ」という意味だろう。燕児は苦笑して色糸を小間使いへ下げ渡し、手紙には何も書かない。武公が読むものではないのである。
ただし、燕児はこの秀の明け透けさが嫌ではなかった。鼻につくところも多い男だが、今のところ紗に気に入られようとして内政の勉強もしているようだ。何もせず引き籠もったきりの夫よりは紗の役に立つ。
今日も猫の話を書き終えて封をすると、紗からの使いが筏葛の枝を持ってきた。花はすべてまだ蕾だが、半月もすれば濃紅色の見事な花が開くだろう。
手紙にはいつも紗からの花枝が添えられる。今は開かない花を贈るのはいつものことだ。
何かの意味が──二人にしか通じない、何かがあるのだろう。手紙は常に月の初めに届き、数日であちらへ戻る。春王女の命日は月の十日であることと何かの関連があるかもしれないが、それは燕児がずけずけと聞いてよい領域ではなかった。紗はつねにわかりにくいが、わかりにくいなりにまっすぐでもある。
不意に燕児は自分が微笑んでいるのに気づいた。
サークル情報
サークル名:ショボ~ン書房
執筆者名:石井鶫子
URL(Twitter):@syobonnovels_cm
一言アピール
新刊「宮女燕姫の生涯」の後半部から引っ張って参りました。紗と燕児の物語、なんちゃって東洋歴史風ファンタジーです。どうぞよろしくお願いいたします。