存在しない手紙
アドレスや何かしらのメッセージアプリのIDを聞き出そうとしたところで教えて貰えるはずが無い。
阿久津玄はこの秋から通い始めた学習塾の座席からパーテンション越しに見える講師の男、米城隼也を見た。
今日も綺麗な身なりをしている。なのに漂うものが他の講師や似た立場の教師とも違った。およそ人の前に立ち教鞭を振るう人物とは程遠い雰囲気だ。塾のサイトプロフィールによれば、三十代前半らしかった。自分なりにその年代の男と比べても異質な憂いがあるーー老けていると訳ではないが、その背景にはなにかとんでもない悪事か不正が隠されているようにさえ感じる。ミステリアスといえばそうだし、いやらしいとも思える。
そんな妄想を掻き立てる程度には夢中なのだった。
夢中のうっとりした感覚を誤魔化すように軽薄な思いつきをシャープペンシルで書こうと机の肌に突き立てた。その机の白さは講師の男の首筋と似ていると思った。
「先生は、えろいと思う」
そのイタズラ書きのメッセージを米城本人含め、誰かに見られる可能性への覚悟が持てず、玄はすぐにペンケースで隠した。文字にすると自分の中で意図しない重みを感じるのだった。
その重みに慣れていない。文章でなんか無理だ。
これは率直すぎる。考えなおすにも訂正にも時間がかかる。口調と態度で意味の強弱を付け加えればどう転がって行こうと状況をコントロール出来る自信があるが、手紙のようなことに関してはさっぱり自信が持てない。
何かもっと、余裕が欲しい。そうだ、余裕だ。
■
色恋に飢えていたわけじゃない。清廉潔白な交際をしている相手がいるじゃないかーー
細谷涼介。ここ最近になって涼介と下の名前で呼ぶようにした。
隣のクラスの涼介は少しなよなよした雰囲気を持っていて、いかにも弱そうな風貌だった。そこを玄のカンに触る女のグループに執拗にダサいいじりかたを度々されているのを見かけていて、救出したのが縁だった。
正直な所この格好つけた立ち回りも下心からくるものだ。案の定直ぐに涼介は落ちたが関係は実際には進められなかった。思い通り過ぎて退屈になってしまった。かと言って真面目で純情な可愛らしさには、庇護欲が満たされた。
玄の気持ちと感情は、庇護欲がある一方で反するように嗜虐心もありどっちも満たされたいのだった。
それを裏表というならそうだろう。裏を楽しむ浮気相手が常に欲しいと感じている。そんな男は世の中にどれだけいるだろう。よしとされないが多くいる。女だってそうかもしれない。興味はないが。
そこまで考え、玄は無意識に力が入っていた肩を上下し息をついた。目を閉じて首も回してみた。冷静になって、米城のことは考えても無駄だなと思い直して、まずは目の前の用意されたテキストに取り掛かる。
授業が終わった。次々と生徒たちが流れるように教室から出ていく中、玄は立ち止まり彼をみた。一瞬目が合う。落ち着きは冴えていた。軽く挨拶でもしてやろうという気になる。
「さようなら、先生」
玄は言った。
「さようなら、気をつけて」
そう言って無表情に伏せられた視線の先を無意識に追っていた。その視線を感じたのか米城は顔をあげた。
「何か質問でも?」
「いや。ない、です」
柄にもなくぎこちない態度になってしまったことを悔いながら廊下に向かおうとした時だ。
「本当に?」
「……はい」
意外な深追い。学校の教師とは違い態度への干渉はほとんどない立場のはずだ。じっと瞳の奥まで探るように見つめ返していると、再び「さようなら」と向こうが軽い愛想笑いで発した。
子供扱いされているなと感じたが、今それをどうこうできるわけもない。単なる生徒だ。ただ、あの机のいたずら書きは消さないで出てきた。本人が気づくかどうかはわからないが、授業の度に書いたらどうなるのだろう?
誰かしらに指摘されるまでやってみるのもいいかもしれない。何事もなく時が進めばそれはそれでいい。その頃、次の気になる誰かを見つけているかもしれないのだから。
外に出ると真っ暗な空に白い息が浮かんだ。
■
「涼介、今日は浮かない顔してんな」
冷たい廊下の窓に寄りかかると、玄は少し冷やかすように言う。本当はいつもと変わりがなかった。話題が浮かばないのに気遣ってるように印象つけられるかなと思う。
「え? そんなことないよ。そっちこそさ、自分のクラスの人とかと仲良くしててもいいんだよ。俺のほうはもう落ち着いたんだし。もう遅いかもしれないけど」
もう遅いとはこの男同士の交際を全く隠さずむしろ大っぴらにしているところにあるのだろう。
涼介を守るためにと一緒にいる時間を取り、休み時間には廊下で一緒に過ごすことにしている。手をつないだり見つめ合ったりすることで、周囲にはある意味の牽制になった。理解しにくい状況にはあまり人は干渉して来ない。干渉してくる同年代の、特に同性には興味ありすぎだろうと言い放つと口籠る。こんな風に年齢にそぐわない厚かましさが玄の強みであり、同級生には一目置かれることになった。
「まあそれは気にすんなよ。元々、俺も別に仲間と群れてわめくのは苦手だから」
「逆だと思ってた。てっきり仲間、仲間って感じでさ」
「そんな子供っぽく見えてたのか。ちょっとショックだな」
「子供みたいものでしょ、高校生だよ」
「そうだけどな」
玄が社会常識のずれた大人に遊びを教えてもらったのは中一の頃だ。元来ませた子供だった玄は、これを秘密の遊びとしてすんなり理解し楽しんだ。それ以来、意識して親をはじめとする周囲に対して年相応を演じてきた感覚がある。涼介が見ていたのは演じている阿久津玄なのだ。
「でも涼介……俺がただお前と一緒にいたいだけ」
そう言って手を握る。涼介の薄い手は少し汗ばんでいた。慌てたように涼介が目を伏せて言った。
「手、ベタベタしててごめんね。なんかまだ、緊張しちゃうんだ。そう言われたりするの嬉しすぎて、なんか、ね」
可愛い。きっと一線を越えたら緊張なんてしなくなるんだろうなと玄は思った。一緒にいたいのは演技とも嘘とも違う。ますます熱くなった手のひらの温度をもっと味わいたくなった。
ほんのりとしたあどけない関係の経験もいい。
だから遊び相手は擦れた大人がよい。
■
机に書き込んだものは消されていた。学校の机のいたずら書きはずっとそのままで何年も経つことが殆どなのにここでは事情が違う。よく注意深く周囲の机や椅子を見てみれはどれも清潔で、管理されているという印象だ。
誰かが見て消したのは間違いは無いが、問題は誰かの部分だった。でもたかが机のいたずら書きだ。これでことが動く期待も薄い。だからめげずにもう一度、軽い気持ちで書き込む。
「先生で遊びたい」
誰に当てているかは明らかにはしない。
この塾で女の講師は二人ほどいて色気の有無についてなんか誰も噂としても聞いたこともない。けれど通常であればそういう風に第三者には取るに違いない。だから米城に妙な反応があればすぐに気付ける自信が玄にはある。
玄は米城隼也をできるだけ観察し続けようと心に誓い、消されても書くということを続けた。
この行為の間、玄は浮気な気持ちの罪滅ぼしに、細谷涼介に手紙を書いた。もちろん普段毎日のように登下校、休み時間などに顔を合わせる。口頭で甘くささやくぐらいすぐにやれる。そのほうが楽なのだがあえて書いた。
涼介はまだ自分に対して、交際に対して緊張があると言っていたから、その緊張をまずは解く目的だ。説得のようにはならないようにした。大袈裟にもならないように、下校途中の路上で渡した。ノートの切れ端に書いた文章は短い。
「照れくさいから書いたんだ」
そう玄が言うと、涼介は顔をあからめるばかりで一旦黙り込んだ。様子を見ていると、瞳を潤ませて玄を見つめた。
「こんなの、俺…溶けちゃうよ」
「それは、いいね」
もちろん本音だ。玄も高揚して表情も緩む。そっと涼介の頭を撫で、気分良く帰路についた。
その夜、いつものように塾へ行き教室に入室する。満遍なくさらりと全体を見回し書き込んだ机の状態を確認する。やはり消えているようだ。ガラスの向こうの廊下にテキスト類を持った米城が歩いて来た。その時点でからあの目は玄を捉えているようだった。じっと見返しながらゆっくり着席する。
米城は真っ直ぐに目を逸らさずに玄の元にやってきた。目の前に来て一度息を止め、意を決するように言った。
「……壁にも注意書きを貼ってあるけど、机を匿名掲示板のように使わないでください」
米城の決めつけた視線は独特な色に揺れていた。そこへ玄は白状するように自分の仕業だと認めるようにうなずいた。
「そうですか」
玄は見逃さなかった。息を詰めた米城がごくっと喉仏を動かした。その時、玄は思いついた。
机への書き込みはこのまま使うのはどうだ。週に数回会うことが決まっているのだから、連絡先の交換など要らない。
時間と場所ぐらいの必要程度の連絡に留めていれば向こうも乗ってくるのではないか。こっちもおかしな口説き文句を手紙にするとかメッセージなんか考えたくはない。
絶対バレない。
相手は大人だ。ボロを出さないことに躍起になるに決まっている。
俺はガキ。くそガキだ。
そうさ。
連絡先の交換なんて願い下げだ。手段は決まった。あとは、決め手になる口説き文句が必要になる。
玄はその日から一週間かけて、質問があると言って残った。そしてその時間帯の周囲の雰囲気を見定める。
その日は来た。至近距離で目が合う、玄は外さない。米城は恐れたように目を伏せる。それが何度も続いた。何度目かの頃、玄は言葉を発した。
はじめに机に書いていたあの言葉をーー耳元でささやいた。
終
サークル情報
サークル名:猫チョコデスティーノ
執筆者名:キリシマアキラ
URL(Twitter):@chocochococoaot
一言アピール
創作BL、ちょっと色んな意味のヒヤッとしたりする感じのものを書いています。今回投稿したものは数年前に書いていたまあまあの長さの「未明に鳴く鳥」の番外編です。