おかしな誓い
地球は青かったと言ったひとがいたけれどその申告は一度きりであって、いまもこの星が青く光っているのかは定かではない。ただ、地上からしてみると夜はいつの時代も錆を含んだ藍色をして、暗くて、足元を照らすものがないと恐ろしくて歩けなくなることに変わりはなかった。夜目のきく動物になれたらよかったのかもしれない。怖いものやわからないことは少ないに越したことはないのだから。
でも、わたしたちはあの夏の、あの短い夜に手持ち花火に火をつけて、強い光を放つ火花の逆光におたがいの姿を認めたのだった。
箪笥や机や鏡台や、さまざまの抽斗をひとつ開けては中身を取り出して段ボールに詰めたり、あるいはごみ箱に放ったりしていく。ここからいつでも発てるように定期的に掃除をして、すこしずつ物を捨てて身軽になっていたつもりだったけれど、いざその日がくると子どものころに買ったラメ入りのペンだとかもう充電器のない古い携帯電話だとか、取ってはおいたもののほんとうに必要なのかわからないものがたくさん出てくる。思い出と呼べば美しくなるけれど、存在を認知していながらずっと置き去りにしてきたものなんてもうほとんどごみなのではないかという気がした。
桜色のフレームの、もう度が合わなくなってしまった最初の眼鏡。捨てる。
いつだかのお祭りの日にラムネの瓶から取り出してもらったビー玉。捨てる。
観光地で買ったもみじの葉を摸した使いづらい消しゴム。捨てる。
一年がはじまるごとに溜まってゆく年賀状の束。捨てる。
と、一度おもってから手をとめる。いつもここで迷う。ほんとうに捨てていいのだろうか、という自問さえも人でなしで汚らわしいのではないかとひやりとしてしまうのだった。そうしてひとの住所と名前が書かれているのだから処分にはひと手間加えなければならないと、面倒くさがっている体を装って今まで捨てないでいた。
一葉一葉、表と裏を確かめていく。自分の名前宛てにはじめて届いた手紙は幼稚園の先生からの年賀状で、逆三角形の顔に大きな耳を生やしたねずみのキャラクターが柔らかい線と水彩の色で手描きされている。小学生になると当時のともだちから送られてきた字もイラストも滅茶苦茶な年賀状が一気に増えて、だんだんパソコンで作成されたものに切り替わり、ものによってはともだちとその家族の写真がプリントされていて、それが中学、高校と続き、大学生になるとメッセージアプリやSNSで新年の挨拶を済ませることを覚えて、途端に減っていく。
捨てるにしても個人情報の部分を切り刻むなり塗りつぶすなりしなければならない、とやはりいつもの言い訳を使ってごみ箱ではなくその辺の床に置いた。これで抽斗の中身をすべてあらためられただろうか。抽斗を引き抜いてみる。どこから入りこんだのかわからない細かい埃が隅に溜まっているだけでなにもない。元に戻そうと抽斗があった空間に目をやると奥に紙がへばりついているのを見つけて、手に持っていた抽斗を下ろして腕をつっこんで紙を取りだす。いつしか抽斗からこぼれてしまった紙はすこし皺になっているものの端を揃えてきちんと四つ折りにされていて、ひらいてみると写実的で色とりどりの蝶のイラストがあしらわれた便箋で、その中央に小さくて丸っこい字が並んでいる。
〈私、前ちゃんと門野みたいに中辻くんと幸せになるね! 陽菜子〉
今の今まで失くしたとも捨てたとも考えないくらいに忘れていたけれど、憶えている、とおもった。あのときは大学二年生で、十九歳で、大学の講義室で授業がはじまるのを待っていたときにくれたのだ。綺麗な便箋を買ったからまえちゃんにもあげよう、と言って。ほんとうはお手本みたいに正しくて、お手本よりも伸びやかで美しい字を書くくせに、わざわざ正確ではないけれど可愛くみえる字で、彼女は元彼と別れた一週間後につきあいはじめた新しい彼氏との幸福を宣言してきた。わたしはそのひとがどうも苦手で、それだのに常にふたりでいるものだから彼女に寄りつかなくなって、だんだんと疎遠になってしまった。その後そのひとともすぐに別れて、また新しいひとと、さらに新しいひととつきあったところまでは知っているけれど、大学を卒業してからのことはちっともわからない。ちなみにわたしも門野とは別れているから彼女がおもっていた幸せは共倒れに終わったらしい。
十九歳なんて将来とか永劫とか、今日よりうんと向こうにある莫大なものを誓うには若すぎたとおもう。けれど、馬鹿な女だなんて言ってやらない。人生の途上でただ通りすぎるだけでなんの関係ももたないひとなんていくらでもいて、そのなかでたった一瞬でもあるひとを大切にしようとおもえたのなら、もうそれで充分じゃないか。
あの夏、期末試験の打ち上げをしようといって、学部のともだちとファミリーレストランに行った。終電の時間が近づいていると気がついて慌てて店を出たけれど間に合わなかった。そこでバイトがあるから打ち上げには行けないと断っていたバイト帰りの彼女とばったり会って、じゃあ花火がしたいと脈絡のないことを言いだして、でもわざわざ河川敷までいっしょに歩いていってほんとうに花火をした。奇天烈、と最初の花火をつけたときはおもっていた。花火はばちばちといくらでも燃えて、火花を散らして、娯楽でありながらすこしだけわるいことをしている気分に浸った。
線香花火にぶらさがる小さな火の玉を見つめて、さっきさあ、と彼女は言った。
――バイト先の先輩に振られたんだよね。
――それは……ご愁傷様です。
――ご愁傷様ですじゃないよ、死ぬより失恋のほうがぜったい痛いもん。
――じゃあ、出産おめでとう?
――え。ちょ、なんでそうなるの?
――出産ってダンプカーで何回も轢かれるみたいな痛みらしいから。
――あはは、じゃあそっちのほうが近いかも。
彼女の線香花火の光がなにも傷つけることなく足もとに落ちて、残骸を放りこむと新たな一本に火をつけてまた静かに熱く燃えているのを眺めはじめた。そのとき、ふと睫毛が長くて綺麗にカールがかかっていることに気がついて、この睫毛の良さがわからない人間がいるのかと不思議なきもちになったのをおもいだす。
――徳永さん、出産おめでとう。元気な恋ですよ。
――ありがとう。出産ってことは産休取らないとだね。
――育休もね。いい子に育ててくださいましね、奥さん。
――前川さん、なんか面白がってない?
――うん。けっこう面白がってる。
――ひっど! いや、別にいいんだけどさあ。
時は確実に流れている。
ごみ箱を探っててきとうに取ったペンはラメ入りの藍色だった。ペン先が太くて、小さな文字の上に滑らせるとあっという間に塗りつぶされていく。
〈私、■■■■■■■■■■■■■■■■幸せになるね! 陽菜子〉
夜をうつした海のような暗くて深い青は、渇いてしまうと内包していた細かいラメの銀色が敷き詰められたようになってうるさく光った。ペンはふたたび捨てて、勝手な修正によっておかしな誓いをたてた便箋は既に段ボールに入れていたクリアファイルに差しこんでおく。
抽斗を入れなおしたところでスマートフォンが鳴り、明日は家具を見にいこうと優真からお誘いのメッセージが届いた。いいよ、とすぐに返信する。足先が冷えていることに気がついて電気ストーブのスイッチを入れる。か、か、と軋む音をたてながら、ストーブは熱くて強い暖色の温度を灯していく。
サークル情報
サークル名:NUT’s編集部
執筆者名:夏迫杏
URL(Twitter):@nuts_novels
一言アピール
NUT’s編集部です。小説アンソロジー誌『NUT’s』をはじめ、文芸誌、個人誌を販売します。ふだんは関西で活動しているので、ほかの地域にお住まいのかたにも作品が届いたら嬉しいなあとおもっています。なにとぞよろしくお願いいたします。