猫の王

 猫の往来ばかりしかない、その狭い空間を、ぼくは王国と呼んでいた。
 握りつぶされた発泡酒の空き缶が転がり、食い散らかされたキャット・フードとその袋もしたいままに放置されて、雨が降ると猫の尿と下水のにおいがする、雨が降らないだけのその王国では、猫に餌をやるのに皿を使わない。袋を剃刀で十字に裂いてひろげておくと、猫たちはめいめい頭を突っこんでそれを食べ、尽きると男に向かってニャアと鳴いた。
 猫は何匹もいた。一匹、二匹の数ではない、十を超える四足が餌を食い、午睡に丸くなっているのだ。
 王国には郵便すら、ほとんどとどかない。月末にまとめてとどく光熱費と水道代の請求書だけが、外とのつながり。――外の人間たちは、王国の住人をほとんど存在しないものとして扱っている。存在を把握しているのは、請求書類の送り主くらいで、それだって紙の上でのことだ。
 王国をゆききするのは、猫たちと、男だけ。
 男は、世の中から抹消されていた。
 王国にははじめ、男がひとりと猫が一匹いたという。猫はいまも殖えつづけているが、人間はひとりから殖えなかったらしい。――いや、時折は増えた。
 けれどすぐ、人間はひとりになるのだという。王国にはたまに、人間があらわれ、居着くことなく去ってゆく。王国は人間には棲みづらく、人間がやってきては去るというくりかえしを、男はみおくりつづけた。
 そんなはなしを、ぼくは猫から聞いた。
 その雄猫は左目が盲いていたが(仔猫の時分に罹った感染病が原因らしい)、王国のあらゆることを知っていた。男が寡黙な分、雄猫はよくしゃべった。去ってゆく人間を男が引きとめたことがない、というのも猫が教えてくれたのだ。
 またくる、と言いのこす人間もいたが、おなじ人間が二度あらわれることはないのだと、猫。
 きみもそうだろうと、わずかな冷笑すらむけられた。

 ぼくは、王国にはいりこんだ何番目かの人間だった。

 その雄猫が答えられなかったのは、これまで何人の人間の出入りがあったのか、ということくらいで。それを知っているのは、ばばだけだ、と言った。
 ばばというのは雉虎模様の老猫で、かの女は男よりもしゃべらない。緑の大きな目を見ひらいて、いつもどこかを睨んでいる。かの女はぼくとおない年なのだそうだ。男と最初に王国にいた猫、ばばはだから、ばばなのだ。

 ばばのはなしをくわしくしておこう。かの女は男ともっとも長い時間をすごしている存在で、他の猫たちもかの女には一目置いている節がある。焦げ茶の毛で鼻の周りだけが白い。下顎には牙がなく、加齢ゆえではなくそれは生まれつきなのだそうだ。これは男から聞いたはなし。男はかの女が生まれたときから二十年以上の時間をともに分かちあっていることになる。
 ばばはふとった猫だ。王国の猫たちのうちで、ばばはママの次に太っているだろう。焦げ茶のからだをいつも横たえているが、巨大なとろけたチョコレートアイスのようで、一日のほとんどをそのチョコレートアイスの擬態ですごしている。
 だからぼくは、すぐにかの女の存在をわすれてしまう。ぼくがかの女をかの女としておもいだすのは決まって男に抱かれているときで、そんなときかの女は焦点を一点にしぼってぼくだけを見ている。
 ぼくはかの女の視線がおそろしかった。猫が空間のある一点を見つめているとき、それは霊的ななにかをとらえているのだという迷信がぼくの恐怖を増大させた。
 肉体という可視の覆いによって隠された内側を透視されているような気になるのだ。かの女はぼくのうちの空虚な亡霊を、注視している。
 ぼくは、かの女とはなしをしたことがない。かの女からはなしかけてくるこ とは一切なかったし、こちらからはなしかけるつもりは一切なかった。――ヴェルサイユ宮殿の掟じゃないけれど、この古老に、つい一週間前にまよいこんだ人間がはなしかけることなど言語道断なのだ。
 そして、かの女たちにとってぼくは王国に足を踏み入れてその平穏を乱すだけみだしてたち去る、ぶしつけなこれまでの人間たちと、なんら変わりはなかったのだ。

 猫のはなしばかりではなく、王国に属さない王国の住人のはなしもしよう。
 ガラスに四方を区切られ、猫たちの爪から守られてゆらゆらとまどろむ朱い魚たち。王国にあって、唯一王国のことわりから逃れうる存在。かれらは王国の傍観者であった。
 かれらは縁日の夕過ぎ、男が持ってきたという。ビニルの巾着に五つばかり泳いでいるのを、猫たちのとどかぬよう梁につるし、どこかでひろってきた埃まみれの水槽を丹念に拭いて砂利を敷き、浄水器を取りつけた。魚がその中を泳ぎだすさまを、片目の雄猫は少しだけ熱っぽく、ぼくに語って聞かせた。猫たちは、生簀の中に生餌がはなされたのだと思ったとか。――猫たちは、水槽に見入っているときがある。猫らなりに、前脚のとどかぬ生餌をいかにして腹におさめるかを思案していたのだろう。魚が白い腹を水面に浮かべると、男はそれをつまみあげて近くにいる猫に与える。猫はそれを待っている。
 四本の足を揃えて眼を凝らす猫に食われて、瞼のない目で王国を傍観しつづけるしかない魚たちは、ようやく、王国の一部となる。

 かさねていうが、それが王国。ひとりの男と、かぞえきれない猫が、金魚に傍観されて朝をむかえ、夜をおくる。
そこでぼくと男は缶詰に直接手を入れて食事をし、子猫がじゃれるように抱きあい、倦んだら眠った。
 ぼくは、死んだ金魚を食わないだけのけもので、あった。

 ふたたび、猫のはなしをしよう。王国の猫の正確な数はわからないが、つねに顔を見るのは金色の毛の隻眼とばばをあわせた六匹で、あとは思い出したときにふらりと餌だけを食べにくるものや、散歩の途中に立ち寄るもの、雌猫を求めて旅をしているものが、時折あらわれる。
 かれらはたいてい居ついている猫のすきを見て餌をむさぼり、雌猫を犯し、見つかると追い立てられて時には制裁を加えられることもあった。猫の正確な数がわからない、というよりは、何匹が王国に属する猫であるかがわからないと言ったほうが、語弊はすくないかな。
 男は、王国の猫であろうと外の猫であろうと、猫に対しては平等だった。猫は、猫である、というだけで王国に存在することを許されていた。
そして、ぼくは人間である、というだけで、いずれ王国から去っていくものと見なされている。

 ぼくにはなしかける猫は、隻眼の黄色い猫――マサムネだけだった。
 ほかの猫たちもそうだけれど、かれは当初、ぼくを避けていた。ぼくを、というより、かれの場合は人間を避けていた。かれは男に対しても一定以上の距離を保ってちかよらない。ほかの猫たちのように餌をねだるなんてなかったし、さわらせるなんてもってのほか、という態度だ。視界が半分欠けているから、その分警戒心がつよいんだよと男は気にする風もなかったが、その隻眼の猫が本を読むぼくの膝にすりよってきたのは、ぼくがいくらか王国の悪臭になれたころだったろうか。
 本を閉じることもページを繰ることもできず、毛のみじかい雄猫の胴体をもてあましていると、
「マサムネという名を知っている?」
 と、雄猫は金色の左目だけでぼくを見上げ、問いかけた。
「知ってる。独眼竜のことでしょう」
 だからあなたはマサムネなのかとぼくが問いかえすと、雄猫は不服だったらしく、ニャアとひくく鳴いた。
「ぼくはニンゲン族の歴史のはなしなどしていない。ぼくがいうマサムネとは、猫族の偉大な王の名だ」
「猫にも王がいるのか」
 的外れな返答に、猫はぐうと喉を鳴らすと、人間にすら王がいる、猫族にもいて当然だろう、と言った。
「いわゆるfelis silvestris catusとニンゲンたちが呼ぶところの我々猫族の王の名だ。いまの猫族とニンゲン族の和平を築いた猫さ。かれは片目がなく、金色の瞳と毛をもっていた。だからぼくはマサムネと呼ばれている。君のいうところの独眼竜はぼくたちの王の名にあやかったにすぎない。ニンゲン族にはなんとかいうことわざがあるだろう。“名は毛をあらわす”」
 雄猫があまりにまじめくさっているので、ぼくは思わずふきだしてしまった。さかしらげな口をきいたところで、かれはやはり猫だ。
「“名は体をあらわす”だろ」
 からだとおなじくらいあるのではというながい尻尾でぱたりと床をたたいて、雄猫は、そうそれだとあっさりあやまりを認めた。
 ぼくはやわらかそうに見えるかれの背を撫でた。逃げられるかと思っていたのだが、ゴロゴロいいながら、ぼくの太腿に前足をのせた。予想していたよりも毛足がみじかくかたい毛で、背骨の感触がなまなましい。

 雄猫をなでていると、男が奥から顔を出し、ぼくを呼んだ。伸び放題で櫛をとおさないの髪はからまって、みなちがう方をむいていた。
 マサムネがちらと男を見る。男はまだ寝ぼけている眼で、ぼくにひっついている雄猫を一瞥すると、「なんだ、おまえ、こいつには懐くのか」 と、めずらしいきのこをつみとるみたいに手を伸ばした。
 雄猫がひょいと水槽の上に跳んで逃げると、男はつまらなさそうに顔をしかめ、こんどはぼくをその腕に抱きこんだ。
 節くれだった分厚い手をこばまず、簡単につかまるぼくを、男は王国の、もっとものろまで、からだの大きないきものだとかんがえている。
 ニンゲンはこわいいきものだから、逃げなきゃいけないんだよ。
 男はからかうようにぼくの耳元で、そう、笑った。
「人間はすぐに仔猫をさらってゆくからね」
 仔猫が生まれるたび、行方の知れなくなるものが何匹かいるらしい。スコティッシュ・フォールドの血の混じったママの仔は、とくに。
 それをおぎなうように、かの女はいつも、仔猫を生み、それを抱えているのだ。
「マサムネは俺にもさわられたがらない」
 いまは水槽の上に陣取る雄猫は、彫像のように動かない。
「猫族の王の伝説をはなししてくれた」
 あまり器用でない手つきでぼくのブラウスのボタンをはずしてゆく太い指を、押しのける。
「猫には猫の神話があるらしい」
 金魚たちがまどろむ水槽の上で、黄色い猫は、金色の瞳を見ひらいて、人間を見ている。
 ぼくは雄猫によく見えるように、男の後頭部に腕を絡めてかたい長髪を梳いた。絡まって指の関節にひっかかるのを強引にとおす。猫の撫で心地とはちがう、指にまとわりつく男の髪が、ぼくは好きだった。からだにまわされた腕に力がこもる。抱きすくめられて、ぼくはぼんやりと天井の梁の線を目でなぞった。
 男に、猫の神話についてたずねてみたかった。だが、かれはそんなことに興味はないはずだと気づいて、――知っていたとしても、きっといまは話してはくれないだろう――やめにした。彼はきっとそこまで猫たちに興味を持っていない。
 ぼくたちは、完全に外とへだたった王国で、律儀に衣服を身につけて人間の生活をまねている。滑稽でいとおしく、猫たちが決していとなむことのできない人間の毎日を演じる。
 肩から背中への線をなぞるように、荒れた手のひらがぼくから人間を剥いでゆく。その手がわずかな痛みをともなってぼくの背をすべるとき、ぼくはいつも悲しい。
 隻眼の雄猫は、こんもりと丸くなって、まだ、ぼくたちを見つめている。
 見ひらいた瞳。王国にむけられて、それはひとつの惑星のように、まるい。


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執筆者名:孤伏澤つたゐ

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