奥州平泉猫騒動

「わー! こらっ、ちょっと、待ちなさいよ!」
 毛越館けごしのたち中に響き渡る那津なつの声に、基衡は筆を止めた。
 基衡はゆっくりと立ち上がると伸びをし、広大な池をたたえる庭を眺めた。庭に咲く梅の花々と、ウグイスの可愛らしい鳴き声が、待ちわびた北の春を告げる。
 ここは、陸奥国平泉。東北を治める大豪族・藤原清衡の本拠地である。基衡は、清衡の次男で十七歳の青年だ。平泉・毛越の地に館を建て、正室の那津と暮らしていた。
 昨年の春に祝言を挙げたばかりの、基衡より二歳年上の妻・那津は、北の方となってからも少女の如くのびのびと過ごしている。
(那津は、生まれも育ちも筑紫の島だからな。北対で、じっとしていられないのだろう)
 基衡はクスクスと笑い、声の響く稽古場に向かった。
 那津は、陸奥の大戦で源氏に敗れ筑紫大島に流された、安倍宗任の末娘である。父母を亡くした那津は、十三歳の秋、従兄の藤原清衡に呼ばれてこの平泉にやってきたのだ。幼少の頃より、父・宗任からあらゆる武術を学んだ那津は、この平泉でも指折りの弓の使い手だ。
(また季春と、矢馳せ馬対決でもしているのかな。それとも剣術の試合か)
 季春すえはるとは、基衡の乳兄弟で、藤原家筆頭家臣・信夫佐藤氏の嫡男である。二十歳の季春は、平泉一の武者と讃えられていた。その季春を、那津は矢馳せ馬で負かしたことがあるのだ。剣術でも互角の戦いを見せる。
 これは楽しみだと、基衡は笑みを浮かべながら稽古場へ向かった。
 しかし稽古場では、小袖袴姿の那津が地面を這いずり回っていた。季春は床下を覗き込み、何か呼びかけている。
「何をしているんだ、お前ら」
「あっ、若! そっちに行ったから捕まえて!」
「へっ?」
 那津の声に、基衡はキョトンとした。
「若、仔猫がそこに! あっ!」
 季春の大声に驚いたのか、タカタカと白い仔猫が走り出した。基衡は思わず駆け寄り、両手を伸ばして仔猫を抱き上げた。
「なんだお前、ずぶ濡れじゃないか」
 仔猫は基衡の腕に顔を擦りつけ、プルンと震えた。袖が濡れるのも構わず、基衡はそっと仔猫の毛を拭った。
「季春、乾いた布をくれ」
「あっ。は、はい、若!」
 季春から麻布を受け取り、基衡は丁寧に濡れた毛を拭き上げた。仔猫はうっとりとした表情で、基衡に抱かれている。
 麻布で拭くうちに、猫の毛は空気を含みふんわりとなる。ふわふわの白い毛並みが、基衡には心地良かった。
「どうしたんだ、この仔猫は」
「那津様が、遠乗り中に拾ってこられたんですよ」
 季春はぎろりと那津を睨んだ。那津は季春にとって、敬愛する主君の妻、そしてこの毛越館の北の方である。しかし一方では、幼馴染であり親友であった。季春は実の兄のように那津の世話を焼いていた。
 那津は肩をすくめた。
「だってこの寒い中、河原で泥だらけになって鳴いていたのよ。可哀想だったのよ。だから拾ってきて洗ったの」
「ふぅん。でも那津、猫は水に濡れるのを嫌がるんだぞ」
「そうなの?」
「だから、洗うときは丁寧にしてやらなきゃだめだ」
「へぇ、知らなかった。ごめんね、手荒くしちゃった」
 那津の言葉に、仔猫はニャーと鳴いた。猫って人間の言葉が分かるのかしらと、那津は目を丸くした。
 基衡は仔猫をじっと見つめた。仔猫は茶色の瞳をうるうるとさせ、基衡を見上げている。
「ね、若。この猫、飼っていいでしょ?」
「那津様!」
 那津の願いに、季春は眉をつり上げた。
「なんで季春が怒ってるのよ。飼っちゃだめなの?」
「あのですね、俺は猫を拾ってきたことを怒っているんじゃないんですよ。この毛越館の北の方とあろう女性が、供を付けずに遠乗りなど……」
「えー、たまには良いって、季春は言ったじゃないの」
「たまにはどころか、あなた、毎日毎日お一人で遊びに行ってるでしょうが! 探し回る俺の身にもなって下さいよ! あなた様にもしものことがあったら、俺は若や御館みたちに首をいくら差し出しても足りないんですよ!」
 季春の怒鳴り声が響き、仔猫がミャーと心細げに鳴き声をあげた。基衡は微笑み、仔猫に頬ずりした。
「よしよし、もう大丈夫だぞ。俺が飼ってやるから」
「えっ、若。拾ってきたのは、私だよ?」
 那津がプゥと頬を膨らませた。
「確かに那津が拾ってきたけど、那津は猫を飼ったことがないだろ」
「まあ……。島で暮らしていたときは、猫は湊にたくさんいたけど、飼ったことはないわね」
「猫を飼うには、知識が必要だ。飼い主に知識がないと、猫は安心して暮らせない。それに、俺が飼うってことは、那津もこの子の面倒を見たり抱っこ出来るってことだろ」
「それもそうか」
 那津はにっこりと猫に笑いかけ、ちょんと毛を触った。
「知ってるか、那津。猫は、経典をネズミから守ってくれる、貴重な存在なんだぞ」
「あら。若ったら、物知りなのね」
「……と父上が言っていた」
「なーんだ、御館の受け売りか」
 仔猫は基衡の膝の上で、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
「そうか、そうか。腹が減ったか」
 基衡は仔猫に微笑むと、くりやに向かった。那津と季春も、基衡の後を追う。
 厨の侍女から粥を分けてもらい、仔猫に近づける。仔猫はしばらく椀の周りを回り鼻をひくつかせ、粥を舌先で掬った。しばらくすると、椀をカタカタ鳴らしながら、仔猫は粥を啜った。ちゅくちゅくと粥を啜る仔猫の様子を見て、三人はホッと胸を撫で下ろした。
「可愛いわね」
 那津がうっとりと仔猫を見つめた。
「ねえ、若。この子の名前、なんて付けようか」
「那津が決めろよ。那津が拾ってきたんだ」
「えっ、いいの?」
 那津の顔がパッと明るくなり、基衡は嬉しくなった。基衡は那津の笑顔が、子どもの頃から大好きなのだ。
「雌猫だから、女の子らしい名前にしてくれよ。太郎とかじゃだめだぞ」
「わかってるわよ。うーんとね……、じゃあ、小夜さよがいい」
「小夜?」
「私の故郷の大島にはね、夢の小夜島という、それは綺麗な小島が沖に浮かんでいるのよ。潮が引くと、小夜島に渡ることが出来るの。緑の松と赤い鳥居が映えて、とても美しい眺めなのよ」
「そうか……」
 夢見るように故郷の大島を語る那津に、基衡は目を細めた。
 故郷を離れ、はるか北の平泉に一人でやってきた那津。初めて見たときは愛らしい姿にときめき、次に見たときは凛々しく弓を引く姿に惚れ惚れとしたものだった。
 いつか那津を、彼女の故郷に連れて行きたい。平泉からは、博多への商船が出る。俺は船に乗り、那津の故郷を二人で訪れたい。いや、季春も一緒に、仲良く三人で。
 いずれ偉大な父・清衡の跡を継ぐ自分には許されないことだと基衡には分かっていたが、それでも願わずにはいられなかった。
 仔猫は粥を平らげると伸びをし、基衡の膝に乗り、丸くなった。
「小夜、小夜や」
 基衡は仔猫の名を呼び、毛を撫でた。小夜は腹が満たされたのか、ニャーとか細く鳴き、背中を丸めて目を閉じた。


Webanthcircle
時代少年(Twitter)委託-39(Webカタログ
執筆者名:ひなたまり

一言アピール
 日本史・奥州藤原氏メインで活動しています。Text-Revolutions3では、奥州藤原氏第二代当主・藤原基衡の妻となる宗任女の生涯を描いた長編小説「わだつみの姫」を頒布します。今回寄稿させていただいた「奥州平泉猫騒動」に登場する基衡・那津・季春がメインのストーリーとなっています。

Webanthimp

奥州平泉猫騒動” に対して2件のコメントがあります。

  1. ちゃせん より:

    こんにちは、はじめまして。ちゃせんと申します。
    Twitter経由で作品を知り、読ませていただきました。
    まず那津さんがかわいい! そしてそんな那津さんを思いやる基衡さまの優しさに心打たれました。
    歴史上の重大な事件や歴史のうねりに飲み込まれゆくような話ももちろん好きなのですが、こんな「ふとした日にあったかもしれない」日常の瞬間というのはとても尊く魅力的だと思います。
    飛行機も車ももちろんない時代、遠く筑紫から嫁いできた那津さんが故郷を思う気持ち、そんな彼女を思う基衡さまに、少し切なくも温かい気持ちになります。
    あと、個人的には季春のキャラクターがとても魅力的です。「貴族の子弟の乳兄弟」ポジションのキャラクターが好きといいうのもあって……
    個人的な話になってしまいますが福岡の出なもので、那津さんの語る話に少しだけ親近感を覚えます。
    長編の方もぜひ読ませていただきたいと思いましたので、長文乱文で恐縮ですが感想をお書きした次第です。

  2. ひなたまり より:

    ちゃせん様
    はじめまして、ひなたまりと申します。
    このたびは拙作をお読みくださり、その上感想まで下さり、本当にありがとうございます。とってもとっても嬉しいです!
    那津という名前は私の創作で、この方の本名は伝わっていません。前九年合戦で敗れた安倍宗任の娘で、藤原基衡の妻であり、平泉にある観自在王院を建立した女性ということしかわからないのです。しかし、逸話では賢くたくましい女性です。基衡に側室が見当たらないあたり、この女性を心底愛していたのかなあと思います。
    季春に興味を持っていただき、ありがとうございます。彼も数奇な運命をたどる人ですので、ぜひテキレボに委託させていただきます本編のほうもお読みいただけましたら嬉しいです!
    ちゃせん様は福岡のご出身なのですね。私は福岡住まいで、安倍宗任が流されたと伝わる筑前大島のちょっと近くに住んでいます。宗任の娘・那津がこの大島から平泉に渡ったのかなあと想像し、長編小説を書き、今回のアンソロに掌編を寄稿させていただきました。
    ちゃせん様の感想を読ませていただき、本当に嬉しく涙が出る思いです。ありがとうございました!

ひなたまり へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

前の記事

猫の王

次の記事

溝になく花