冷たい雨が生温い

 棘つきの荊鞭が空気を掻き切り、背中に鋭い爪を立てては切り裂いていく。鞭の尖った爪に一切の慈悲や容赦もなく、何の罪さえない咎人の背を穿ち、はしりつづけた。湿った地下牢獄に、鞭が肉を切り裂く乾いた音が響いては果てている。
 ギュスターヴの逞しい背中は鞭に掻かれて出血していた。背に垂れていたくすんだ金の長髪には、血がしみこんでいたり鞭に切られて何本も冷たい床に散っている。大きな口の端からはしどけなくよだれを流しながら、ギュスターヴは朧な金の目で、鞭を繰る者を見上げた。
 もう、痛みなど感じなかった。痛いのも苦しいのも最初の十分ほどで、ある領域に達してしまうと痛みは全て快楽と化してしまうのである。痛みが連れて来る快感に頭の芯が溶けてしまいそうだ。
「どうしたの、ギュスターヴ?」
 ギュスターヴの視線に気づいた貴公子が、麻薬のように甘やかな声を降らせた。悶え苦しみ、そして快楽に喘ぐギュスターヴを見ては、整った口元に歪な笑みを刻んでいた貴公子は、一度、鞭を繰る手を止める。
あるじ、もっと、鞭を……」
 主人が下ろした左手が持っている鞭の先端から、床に血がぽたぽたと滴っている。咲いて漂う血の香りに酔い痴れたように、美しい主人はその美貌を綻ばせていた。
 ギュスターヴはかすれた声で、主人に懇願した。
 主人は息も絶えそうなギュスターヴの哀願を聞いて、満足そうに口元を裂いた。血を吸いすぎてすっかり革が柔らかくなってしまった、血が絞れそうな荊鞭を捨てて、牢の壁にかかっていた新しい荊鞭を手にとる。強度を確かめるように一度だけ床を打ってから、主人は再び残酷な鞭打ち刑に戻った。
 ギュスターヴは再び、酷い責め苦と快楽に喘いだ。主人は苦痛と愉悦との間で板ばさみになっているギュスターヴを眺めて嗤っている。ギュスターヴは今にも焼き切れてしまいそうな思考のなかで、自分と主人に自嘲をこぼしていた。この関係性が、更に頭を痺れさせるのだ。
 自分は主人の奴隷で、愛玩動物なのである。主人の思い一つで、可愛がられてなぶられる。
 鞭の爪に背を掻かれながら、ギュスターヴは床に這いつくばったままで、だらしなく開かれた口から唾液を垂れ流していた。主人は頭と心がおかしいし、自分は狂っている。
 思って、ギュスターヴは主人の靴先にはねた自分の血を、長い舌を伸ばして舐めとったのであった。

 ギュスターヴは雨の街を傘を差して歩いていた。主人に言われたものを買いに百貨店に行った帰りであった。街の中心から近道をつかって、主人の居城へと引き返していく。ギュスターヴの他に、その細道を通行する者はいない。
 雨の音を聞きながら、ゆっくりと歩く。気温や気圧のせいであろうか、主人に鞭打たれた背中の傷が、手当てをしてあったもののしくしくと痛んだ。罰を受けているときはいいが、傷から熱が引いてしまうと、快楽の海は蒸発して痛みだけが生々しく残るのである。
 ギュスターヴは眉のない強面を痛みに歪めて、足早になる。履き古した軍靴の先端が酷い雨に濡れて湿ってきていた。水溜りを踏んだわけでもないのに、つま先が気持ち悪い。
 四辻を曲がったときであった、ギュスターヴがそれに出会ったのは。ギュスターヴはうっかり蹴飛ばしそうになった箱に気付いて、ふと足を止めた。
 箱の中でうずくまって雨に当たっていたのは一匹の子猫であった。黒猫である。やわらかい毛をしっとりと濡らして、寒さのせいか小刻みに震えていた。
 ギュスターヴは立ち止まったまま動けなくなってしまった。子猫と目が合い、箱の前でかがみこんで思わず目を細める。沈黙が雨の音を、より大きく感じさせた。
 子猫の瞳は綺麗な金色をしていた。ひとを疑うことを知らなそうな透明度であった。生まれたときから誰かに飼われていたのかもしれない。
 子猫はもう衰弱していた。よりによってこんな雨の日に捨てられてしまったのであろうか。子猫の濡れた小さい身体を、無骨な手でそっと触る。ひとの温もりに飢えていたのか、子猫は嬉しそうにギュスターヴの手のひらの温度を感じている。 ぎこちなく笑って子猫の頭を撫でてやる。
 猫なんて拾ったところで主人に笑われるのは目に見えている。 ギュスターヴはそっと目を伏せ、子猫に触れるのをやめた。伸ばしていた手を引いてしまう。そして主人は何か飼うことを許してはくれないであろう。従者である自分が、愛玩動物なのであるから……
 ギュスターヴは自分の差していた傘を、子猫が雨に当たらないように置いてやった。主人が買ってくれた傘であったが、驚くほど躊躇いはなかった。
 子猫に傘をあげてしまうと、ギュスターヴは雨の止まない曇り空を仰いだ。浅黒い肌に、冷たい雨が注ぐ。
 唇を噛みこんで、身を翻した。ギュスターヴは買ったものの紙袋を庇うと、城まで走って帰った。今にも雨に掻き消されそうな弱々しい子猫の鳴き声が、ギュスターヴの背中に追いすがった。

「どうしたの、ギュスターヴ……濡れねずみじゃないか」
 城に着く頃にはギュスターヴはすっかり雨に降られてしまっていた。顔や身体に貼りつく髪と服が体温を奪ってしまって、唇がかすかに紫色に変色している。
 ギュスターヴを迎えた主人は美貌に呆れたような表情を浮かべていた。ギュスターヴは俯きがちになったままで、買ってくるように言われていたものが入った紙袋を主人に渡した。紙袋の中身は、無事であった。主人は紙袋を執務卓の上に置いた。
「傘持っていかなかったの?」
「……失くしてしまって」
「僕が買ってあげたやつ、失くしたの?」
 主人は小さく溜め息をついたが、ギュスターヴに何かあったことは敏く察しているようであった。
 ただ主人はギュスターヴがたかだか一匹の子猫のためだけに傘を置いてきたとは思っていない。深く追及はせず、小さく、そして優しく微笑む。
「シャワーを浴びて早く着替えておいで、コーヒーでも淹れておくからさ」
「あの……主」
「まあいいさ」
 喉元で絡まった言葉を飲み込んで、ギュスターヴは主人に一礼した。傘をなくしたことを謝ろうと思ったが、上手く話せない。
「……失礼致します……」
 ギュスターヴは主人の執務室を出て、後ろ手に扉を閉めた。
 ――ギュスターヴは廊下を下がって自室へ戻ると、シャワーを浴びた。冷え切って寒気がしつつあった身体が徐々に温まっていくのに反して、背中の傷に湯水がとてもしみて、顔をしかめる。指先の血の巡りがよくなっていくのを感じながら、ギュスターヴは柄にもなく悲しい顔をしていた。
 戯れの優しさに喜ぶ子猫の姿に、主人がつかい分ける飴と鞭の『飴』を思った。主人の気まぐれに翻弄される自分と、降って沸いたような哀れみに擦り寄ってきた子猫……
 子猫はもう弱っていた。傘を置いてきたのは自分の、期待をこめた気まぐれであるが、そんなことをしたところであの子猫が助かるわけではない。運よく誰かに拾われでもしない限り、あの猫に未来はない。
 あの子猫にはもう、牙がないのだ。一度、人間に愛玩されてしまったから。牙を抜かれてしまったから、もう一人では生きていけない。野良ならば、ひとの温度に擦り寄ってしまってはいけないのである。だがあの子猫はギュスターヴの温もりに、ひとの温もりに飢えて近寄ってきてしまった。
 ギュスターヴは首にそっと触れた。ギュスターヴの首には、二つの首輪が巻かれていた。一つはルビーが散りばめられた高価なもので、もう一つは丈夫な革の首輪である。ルビーの首輪は主人の奴隷になった時に、主人から愛玩動物の印としてもらったものだ。革の首輪は、主人がギュスターヴを鞭打つ前に牢につなぐときにつかわれている。ルビーはいつでも美しいのに、革の首輪は傷だらけだ。
 自分でも驚くくらいにあの子猫には客観的で冷静で、且つまともであるのに、主人が関わると正常な思考がなくなってしまうことに、ギュスターヴは変なおかしみを覚えた。自分は主人を愛し敬っているから、当然のことなのであろうか。目玉をくりぬかれて耳をつぶされたようである。
 それでもギュスターヴは主人の笑顔が好きであった。何気なく微笑みかけてくるときや、鞭打ちをしながらの哄笑でも、どちらでも構わない。主人の笑顔は美しいのである。
 シャワーが傷にしみて痛む。傷を忘れないようにナイフで何度もなぞったように痛む。傷からはもう血は出ていないのに、思考の奥で血がしぶく。細胞の一つ、血の一滴、ひとひらの思いという極小の単位から、ギュスターヴの身体と思考には服従が刻まれていた。主人の魔性という鋭い爪が、尖った牙が、研がれた剣が、ギュスターヴを傷つけるたびに、傷口から服従を強いる毒を注いで侵していく。毒を孕んだ傷は、傷をつけるたびに深さと痛みを増している。
 まだ自分は、堕ちることができる。主人のためならばいくらでもおかしくなれる、かの美貌のためならば何だって出来る。
 主人に望むことなど、ない。言うならば、これからも自分に魔性の猛毒を刻み続けてほしいくらいである。ギュスターヴはそれだけで、幸せであったのだ。


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執筆者名:緑川かえで

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