黒猫奇譚

 生まれたのはどこだったか。定かではない。今は日本と呼ばれる、この国の中であることだけは確かである。
 世の中はいつになっても物騒だが、その時代その時代で物騒のベクトルは変化を見せている。私がこうして”ベクトル”などという横文字を使うようになったのもまた、大きな物騒があったからに他ならない。とはいえ、そこに触れることはしない。
 紆余曲折。
 私に言えるのは、物騒を引き起こし世の中を動かし掻き乱している、人間、という種族がいかに愚かで惨めで愛おしいかについてである。
 生まれた場所は分からないが、生まれた時分なら多少覚えている。あれはまだ、幕府という政権が成立していなかった頃。平氏と源氏などという二つの勢力がお互いに縄張り争いを繰り広げていた頃だったと記憶している。
 まあ、割とすぐに源氏が勝利を収め、幕府というものを設立し、それを鎌倉に置いたのだが。
 それはあくまで今だから言えること。あの当時、そんな人間たちの政なんてひとつも知らなかった。その日生きるための事ばかりを考えていた。
 初めて会った人間は、まあ厳密に言えば山へと分け入ってきた山賊のような輩だが、本当の意味での初めては、源義経だった。
 現代の人間は背が高い者が多いが、あの頃は皆背が低い。食物の事情もあるだろうが。そんな源義経も決してガタイの良い男ではなかった。小柄で色白で、一見して”武士”であるだなんて思いもしないだろう。
 今思えば、あの時出会った義経は敗走中だったのだろう。義経の痩せ細った骨だけの手が己に触れたのを覚えている。この時初めて、人間が自分たちより体温の低い生き物であることを知った。
 その後暫くは何かと関わることなく、自分だけで生きていたが、何時からか安定した世の中になったのを覚えている。それが所謂江戸幕府が制定された後であったのを、後で知った。ご覧の通り、やたら長生きをしてしまっている私だが、源義経との出会いの次に思い出深い出会いが存在する。
 時代はその江戸時代。その終わり、幕末と言われる時である。
 私は賑やかな江戸の町を一人優雅に歩いていた。忙しない時分だったから、私を気にするものなどほとんどいない。
 そんな昼下がり、急に影が差したかと思えば一人の男が私を見つめていた。
「黒猫……」
 やけに痩せ細った男だった。腰に大小、有り体に云えば刀を二振りぶら下げている姿であるところを見ると武士なのだろう。しかし、私の知る武士というのはもっと鍛え上げられた体をしているはずであった。こんなもやしのような男のことを指す言葉ではなかったはずだ。
 もはや死人のような目をした男はゆっくりと屈むと、私へと手を伸ばした。
 私に触れた手が、義経を思い出させた。
「噂になってる迷信を思い出すなんて、私も落ちぶれたものだ……」
 目の前の男が何を言っているのか、ひとつ、思い当たる節があった。
 此の頃、日本では労咳と呼ばれる病が流行っていた。如何やら肺の病らしく、治療法はないらしい。つまるところ、死病。そしてその労咳には何が原因か”黒猫”が効くらしい。
 元々恋煩いに効くだの言われていた黒猫。そして労咳は婚姻していない者が罹る等という話があり、そこから黒猫で労咳も治るという迷信へと変わっていったらしい。
 いやはや、人間とは愚かである。
 きっとこの男も労咳なのだろう。これほどまでに痩せ細り、生きる正気を失っている人間など、病を患っている他考えにくい。何より私を見て、迷信と口に出しているのだからまず間違いないだろう。
「君、もし暇なら、私のところに来ない?」
 この人間は、今、私に話しかけているのだろうか。私だからこうして人間の言葉を理解できているものの、そこらへんの生まれたての奴に声をかけたとしたら逃げられるのがオチである。目の前の人間は、そんなに馬鹿には見えなかったが、もしかすると、思った以上に馬鹿なのかもしれない。
 私も暇ではないというと嘘になる。どうせこの男もそう長くない命なのだろう。屈んでいる男の手は私のすぐ目の前にあった。そっと擦り寄ってやれば、男は力なさげに微笑んだ。
 とはいえ、割と巨体に分類される私を持ち上げる程の力は残っていないらしい。私は大人しく男の脇を共に歩いた。
「君、私の言葉でもわかるの?」
「……みゃぉ」
「本当に、猫?」
「なー」
 返事のように鳴き声で返してやれば、本当に人間に語るようにして男は喋りだした。
「私はこの先にある植木屋さんにお世話になっている身でね……今日は久しぶりに調子が良くて外に出てみたんだ」
 ゆったりとした足取りは、私の歩速と同じだった。時折、こほっと云う咳が私へと降り注ぐ。
「調子がいいときは引きこもらず外に出ろ、なんて云うけど、身元がバレると厄介だから外に出るなとも云われる。面倒臭いよね」
 顔色は真っ青なのに、その顔に浮かぶ笑みは色鮮やかな何かの花を想わせた。
「調子が良くて、天気も良かったからこうして外を歩いてみたけれど……矢張り、偶にはいいものかもしれない。君に出会えたし」
「……なー」
 この先というから、どれ程かと思えば、私の足でも直ぐに着いた。立派な家屋だが、それを隠すようにして植木が生い茂っている。植木屋と名乗るだけあり、その植木ひとつひとつは何れも丁寧に手入れされていた。
 男は玄関からではなく、庭の方へとまわり、家屋へと入っていった。
 庭を望める部屋がどうやら男の部屋のようで、其処には布団が一組。見るに、常に置かれている、万年床となっているようであった。
「話し相手がいないわけではないけれど、今まで騒がしいところにいたせいで、此処にいるのが凄く虚しく感じてしまって。君がいてくれたら、それもまた、少しだけマシになる気がするんです」
 本当によく喋る男だと思った。私相手によくもまあ。
 もしかすると、この男は、明確な返答を出さない話し相手が欲しかったのかもしれないと、思った。
「皆、私を置いていったんですよ。非道い話ですよね」
「違う……違う」
「私が、皆についていけなくなってしまったんだ」
「腰のものも、もう重い。腰にぶら下げられても、もう、それを握り、抜くことすらできない……」
「置いていかれるのも、当然……」
 ぽたり、ぽたりと男の口から言葉が落ちては畳へと染み入った。重たい言葉は質量を持って、濡れて、染み込む。
「なー」
 私は内心で足を洗わずに家屋に入ることを謝りながら、男へと近づいた。私より少し低い体温に、頬を摺り寄せてみた。
「慰めているつもり……?」
 そうではない。だが、そうかもしれない。
 彼の紡ぐ言葉が重く、自分の体に纏わり付くのが嫌だったから。この男から滲む重苦しいものを軽くしてやりたいと思ったから。長く生きているせいか、そういうものに敏感になってしまったから。
 そう、慰めているわけではない。
「よく見ると、随分と目つきの悪い猫だね」
 失礼な奴だ、そう思って、床についている手に少しばかし爪を立ててみた。痛い痛いと云いつつ、男は笑っていた。
「目つきが悪くて短気で喧嘩っ早いあたり、すごく、似ている気がする」
 何かを思い出すかのように柔和な笑みを浮かべた男は、少し疲れたから眠るねと一言残し、万年床へと身を沈めた。
  *
 この男と行動を共にして十日ほど経った。出会ったのは夏の初め。もう夏も深まり、蝉が煩く鳴いていた。
 まだ十日だというのに、男の容体は見るからに悪化していた。起こせない体で、男は、文を待っていた。
「あぁ……先生からの文は、きておりませんか?」
 世話をしている人に会うたびに、こんな言葉を口に出す。私はあったことのない彼の云う、先生の事を考えた。
 きっとこの乱れた世の中、何処かで死んでしまったのかもしれない。そう思った。
 しかしこの男が生きる糧がその男なのだとしたら、その知らせは、ここに届くことはないのだろう。この男に関わる人間の心情を考えれば、すぐにわかった。
「ねえ、君」
「みゃぁ」
「私が、凄腕の剣士だったといったら、信じる?」
 今のこの男の状態を見て、そんなこと信じられるはずがなかった。
「君は、私のこんな状態しか知らないだろうから……見て欲しかったなぁ……敵を斬る、私の姿を」
 覇気はない。それでも確かに、この男が身に纏っているのは殺気であった。
 枕元に置かれている一振りの刀に、男は手を伸ばした。一度掴み損ねて、床へと落ちる。それを掴み直して、乱暴に鞘から刀身を抜いて見せた。
「今、ここで君を斬って見せたら、証明になるかな……?」
 切っ先は、私に向いていた。刀に宿る殺気を感じるが、私は逃げなかった。
 この男に、最早、私を斬る力は残っていない。
 刀は静かに、掌からこぼれ落ちた。
「斬れない……もう、斬れない」
 カラカラの声が次第に湿り気を帯びていくのを感じた。私は一歩、前に踏み出た。
「……名を、聞かせてはくれないか」
「……えっ」
 男の瞳からは大粒の雫、口からは嗚咽が溢れていた。そんな顔が驚きで染まる。
「凄腕剣士の男の名を、私は知りたいのだが?」
 男自身、死期を悟っているのだろう。驚いた顔も直ぐに何時もと同じく花が咲いたような笑顔になった。
「じゃあ、新選組って知ってる?」
「あぁ」
「じゃあ、一番組組長って知ってる?」
「噂だけだが」
「私がその新選組一番組組長の沖田総司」
「……それはそれは、本当か」
「本当」
「……剣豪だった君と、出会った見たかったものだ」
 私はこうして彼と別れを告げた。
 これ以降、私は人と口を聞いていない。いや、口を聞くことが出来なくなっていた。あれから約150年経った今までだ。
 沖田にとっても摩訶不思議であっただろう私との会話は、私自身にとっても思い出深い摩訶不思議な奇譚へと昇華していた。


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執筆者名:右月泰

一言アピール
はじめまして、『創作サークル綾月』です!
2015年7月に設立いたしまして、現在12名のクリエイターが所属しています。
『創作サークル綾月』では文筆に限らず、さまざまな創作行為を通して表現活動をしていきたいと思います。
モットーは「一人ではできない。皆でならできるかもしれない」
どうぞよろしくお願いします。

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