猫邑ねこむら

 何ということもなく夜遅くに散歩していると、目の前を猫が通りかかった。家を出てすぐの細い坂道をするすると上がっていた。僕は思わず足を止めて猫を見た。少しふっくらとした薄茶色のきれいな毛並みの猫の姿は次第に遠くなって小さくなって、闇の中に紛れてしまった。
 僕は猫のあとを追いかけてみたくなった。慎重に踏み出した足音は意外にも響いたが、すぐに夜空に吸い込まれて消えてしまった。

 薄茶色の毛を持ったあの猫は暗がりの中でも見失うことはなかった。申し訳程度にじらついている外灯の光が反射している。時折素早い身のこなしで塀の上に飛び乗ったり、家先の柵の下をくぐったりして行方をくらましかけるが、すぐにまた、細い坂道に戻ってくる。僕の存在に気がついていないような猫のそんな動きが面白くて、夜中に外へ出ている高揚感も手伝って、僕は今にもスキップしたくなってきた。もちろん、そんなことをすれば猫は逃げてしまうだろうから我慢するけれど。
 家の前の細い道は、確か数ある寺社のうちのどこかに繋がっているのではなかったかと記憶している。海に面した大きくないこの街は、昔からの神社や寺が今も数多く残っているのだ。昼間にはそれらを巡る観光客が歩いているところもよく見かける。自分でこの道を辿ったことはないけれど、人伝に聞いた話ではそう時間もかからず行き当たるらしい。
 ……ところが、いつまで経ってもそれらしき建築物は見えてこない。暗い道を猫のペースに合わせて歩いているからという理由を差し引いても、住宅を見上げながら歩く時間が長すぎるように思う。しかもよく見ると、道を挟んで向かい合う住宅は先ほどからずっと同じ家が続いている。猫を見失わないように気をつけながらちらりと振り返ると、下っていく道はやはり同じ家に挟まれていた。十数メートル先の道は緩くカーブを描いており、先が見えなくなっている。この道にカーブなんてあっただろうかと思いながら顔を前に戻すと、ちょうど猫が家と家の隙間に曲がるところだった。初めて曲がったことに驚きつつ、取り残されないようにと慌てて駆けた。
 とても細い隙間だ。その先は薄ぼんやりと明るくなっていて、時折影がよぎって光をさえぎる。何者かがいることは間違いない。先ほどの猫だろうか。それとも、もっと別の何かだろうか。ここまで来たら、確かめずにはいられない。一分の恐怖よりも、九分の好奇心が勝った。隙間に体をねじ込んで、両手を突きながらゆっくりと進んでいく。木造の壁と服がこすれあってざりざりと音を立てる。もう少しで光の先に出られるところまで進み、狭い通路の終着に手をかけたとき、ある声が空気を打った。
「諸君、静かに。静かに、静粛にしてくれたまえ」
 影がよぎったのだから当然何者かの存在は予測されて然るべきであったが、僕はその声に驚いて伸ばした腕を引っ込めてしまった。ここから出ることも、また戻ることも叶わなくなってしまった気がして、ただ音を立てないように、僕の存在に気付かれないようにしなければならないと直感した。
 先ほどと同じであろう、威厳に満ち溢れた声が再び場を取り仕切る。
「……ありがとう諸君。ご協力に感謝します。それでは本日も、猫の集会を始めます」
 猫の集会だって、と思っているうちに光の先からでちでちと不器用な拍手が聞こえてきた。とても拍手には思えないけれど、その数たるや数十では足りないのではないか。声は続ける。
「ありがとう、どうもありがとう。さて、本日の議題は誰が提供してくれますか?」
「はい。私ども街猫からです」
「いいえ、私ども山猫からです」
「違います、私ども島猫からです」
「やれまあ、本日は議題がたくさんありますね。さあ、争わないで。順番に、まずは街猫さんから」
 言葉尻に鳴き声が混じるのかと思っていたら、意外にも猫たちははっきりと人の言葉を喋っていた。驚きながらもこれ幸いと耳を傾ける。
「最近は観光する人間どもが増え、私どもに食べ物をくれるものもいるのですが、それよりもごみを捨てるものが多く困っています」
「なるほど。人間どものふるまいにはいつも困りますね。みなさん、何かこの議題に関してよい考えはありませんか? 前脚をあげてください」
 光の先の集会場で、猫たちが何やらざわついている。先ほどの街猫が言っていた通り、道端にはよくごみが落ちているのを見かける。僕たちにとっては小さなごみでも、猫たちにとっては十分障害物となるのだろう。
「はい」
「山猫さん、どうぞ」
「よい考えではありませんが、私ども山猫も人間どものふるまいに困っております。私どもは好きなように山を歩いているだけなのに、人間どもは凶暴な鉄の塊で私どもを追い回すのです」
「あの車という、恐ろしいものですね。あれが走り回ると、臭いがひどくて困ります。さあ、これら人間のふるまいに関してよい考えはありますか? いかがですか?」
 また集会場がざわつく。最近は山のほうも開発が進んで道路が敷かれるようになった。人が住む限り車も通る。僕たちの暮らしが豊かになり、便利になるほど住みづらくなるものたちもいるのだ。
「はい」
「島猫さん、どうぞ」
「街猫さんと山猫さんと同じように、私ども島猫も人間どものふるまいに困っています。島では周りの海から獲れる魚を人間どもと分け合いながら暮らしてきました。しかし最近の人間どもは私どもと魚を分けるどころか、私どもから魚を奪おうとするのです」
「なるほど。最近の人間どもは我々の糧さえも奪おうとするのですね。誰か、人間のふるまいによい考えのあるものはいませんか。さあ、前脚をあげて」
 すると今度は水を打ったように静まり返った。議長と思しき猫が再度呼びかける。
「何か、よい考えは?」
 けれどやはり、集会場は静かなままだ。じっと息を潜めて様子をうかがう。
 人間たちは自分たちの暮らしをよくするために考え、暮らしている。その分自然を侵し、他の生き物たちに危害を加えている。当たり前のことなのに、猫たちの悲痛な叫びを聞いて僕は初めてそれに気が付いた。はじめは興味本位で猫を追いかけて聞き耳を立てていたけれど、いまや僕は複雑な気持ちでいっぱいだった。簡単に生き方を変えられるとは思えないし、困っているのが猫たちだけではないこともわかる。しかしそれでも僕は、彼らのために何かできることはないかと考えた。僕一人じゃなく、人間としてできることを。
「諸君、これは我々猫一同がこれから向き合っていかねばならない議題です。すぐによい考えを出すことは難しいでしょう。他に議題がなければ、本日の集会を終わります。何か議題はありますか?」
 議長の猫の言葉に、返すものはいない。その場にどれほどの猫がいるのかわからないけれど、最初のつたない拍手から想像するに相当数であることは確かだ。それが一様にしんと静まり返っているものだから、その光景を想像してみると恐ろしく不気味で、闇に光る猫の目が一心に僕を見ているような錯覚に寒気さえ覚えた。
そもそも猫たちに見られている、というのが思い込みではあるのだけれど、よく考えれば集会が終われば猫たちは解散する。すると僕がいるこの細い道を通る猫もいるはずだ。見つかってしまったらどうなるのか……想像さえできない。猫たちがお開きする前にここを離れようと、息を潜めたまま後ずさりをした。衣擦れの音が予想以上に大きな音で静寂を破る。思わず息を飲んで動きを止めると、光の先の沈黙がやけに恐ろしく思えた。
「……諸君」
 光の先に影がよぎる。あ、と思う暇もなく何かの目がキラリと光る。
「我々の集会が執り行われるここは、猫のみが集う場。よもや人間など――混じってはおりますまいな」
 二の腕から肘までびっしりと鳥肌が立ち、背中の毛が逆立ち、全身の毛穴という毛穴からしとどに冷や汗が流れ出すような感覚。
それは一言で言うならば、恐怖だった。
 獰猛に輝く黄金の瞳は明らかに僕を捉えていた。もはや猫たちの話し声は聞こえない。ただなあなあと喉の奥を鳴らしている声が聞こえるばかりだ。警戒も感じられない猫の鳴き声とはいえ、数が数だ。数十はありそうな猫の鳴き声が聞こえてきたら、普通の人間は怖気づく。
「な~お」
 未だ通路へ入ってこようとしないのをいいことに逃げ出そうと後ずさると、足元に異様な感触を覚え、そして同時に、媚びるような鳴き声を聞いた。見下ろすと、闇に塗りこめられた地面に座っている猫が僕の足に体をこすりつけながら僕を見上げて鳴いていた。少しふっくらとした薄茶色の身体に黄金の目が二つついている。
 息を吐いた瞬間、目眩に襲われた。
 ――意識が、遠のく。

 瞬きを繰り返す。頭がぼんやりとしていて、なぜ自分が夜中に家の外へ立っているのかわからず、きょとと辺りを見回した。そしてすぐに、猫を追いかけていたのだと思い出す。そうだ。何の気なしに夜の散歩へ出て、猫を見つけて追いかけていたのだ。けれど猫の姿はどこにも見当たらない。ぼうっとしている内に家と家の隙間にでも入り込んでしまったのだろう。いつの間にかすっかり体が冷えてしまっていた。家へ帰ろうと踵を返した時、猫の声が聞こえた気がして振り返る。数十匹の猫がなあなあと唱和しているように聞こえたけれど、やはり一匹の猫の姿も見えなかった。


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執筆者名:星谷菖蒲

一言アピール
はじめまして、『創作サークル綾月』です!
2015年7月に設立いたしまして、現在12名のクリエイターが所属しています。
『創作サークル綾月』では文筆に限らず、さまざまな創作行為を通して表現活動をしていきたいと思います。
モットーは「一人ではできない。皆でならできるかもしれない」
どうぞよろしくお願いします。

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