神様

 あなたは気づいていませんでしたが、あなたが生まれたとき、あなたにそっくりな子がそばにいたのです。小さいあなたはその子と一緒に遊んだり餌を取り合ったりしていたんですよ。でもその子はしばらくしたらいなくなってしまったの。でもあなたはまだとっても若かったので、そのことを気にも留めずに、日々を過ごしていましたね。
 あなたにはお世話になっている人間がいますよね。あなたの散歩道だった石畳の上に毎朝餌を置いてくれるあの人です。近頃街ではなかなか餌が手に入らない事情もありましたから、その人のくれる野菜の切れ端や細々としたお肉があなたの貴重な食料となっていました。あなたはその人を意識するようになり、その人が近づくと鳴き声をあげてじっと見つめるようになりました。初めは距離があったのに、次第に馴れて、終いにはその人の真隣にまで近づくようになりました。その人の腕が伸びてくるとまず飛び退っていましたが、何度も繰り返しているうちにすっかり怖がらなくなってしまいましたね。
 その人の手があなたのおでこを撫でたのは六月の明け方、雨が上がってひんやりとした朝でした。そのときの温かな感触をあなたはまだ覚えているでしょう。あなたたちの肉球とは違う、ごわごわとした皺だらけの手のひらの感触。ただ触られただけなのに、あなたの身体は痺れたように動かなくなりました。嗅ぎなれない匂いに耐えて、じっとその擦れ具合を心地よく感じていましたね。
 その人は神様にお祈りをする人でした。
 あなたにはぴんとこないでしょうが、人間の中には神様という存在を拠り所にして毎日を生きる人もいるのです。その人が暑い日も寒い日も変わらずに黒くて長い長衣を羽織っていたのは神様の前に敬虔な心を示すためだったのですよ。
 あなたはその人に気に入られました。やがてその人はあなたを手招きし、とことこ寄ってきたあなたを抱えてお庭の奥へ引き入れました。低く切り揃えられた草むらの先に半球形の白い建物があり、その頂上に十字架が立っていたのをあなたは立ち上がりそうなほど仰け反り目を輝かせて見上げていましたね。
 そこは教会という場所でした。場所を覚えたあなたは、餌を食べると毎日教会を目指して通いつめました。
 教会にはたくさんの人たちが集まりました。あなたの世話になっているあの人と同じような黒い羽織の人が毎日誰かしらやってきていました。時にはもっと風通しの良さそうな服装を纏った人がくるときもありました。
 あなたは人間を見るのが好きでした。言葉がわからないながらも、その人間たちが会いたがる何かが教会の中にあるということもあなたはどことなく感じていましたね。なぜならたとえどんなに沈んだ表情を浮かべていても教会から出てくる人たちの顔は明るく変わっていたのですから。あなたは何度も無理矢理扉の隙間に潜り込もうとしていました。それほど興味をそそられたということだったのでしょう。
 やがてあなたの努力が報われるときが来ました。引っ捕らえようとする人々の手を振り切って教会の奥まで入り込んで正面の壁を見上げたとき、あなたは愕然としてしまいました。人々が会いたがっていた何かは、なんとどうみても人間の銅像だったのです。もちろんあなたとは似ても似つきません。とてもがっかりしたあなたが固まっているうちにあの人があなたを捕まえて教会の外に放り出しました。扉が閉められてしまっても、あなたの脳裏には、いかんともしがたいもやもやした気持ちが蔓延り続けておりました。
 時が経ち、あなたは大きくなり、人間に頼らなくても自分で餌を捕まえることが出来るようになりました。自分から草むらや街角に飛び出して餌を捕まえその場でぐいぐい食べました。人間のもたらしてくれた餌は確かにおいしかったし手間も掛らなかったのですが、自分で狩りをする快感は一度覚えたら病みつきになるものでありました。
 あなたは餌を求めて新しい場所をさまよい歩くようになりました。発見するものごとは際限なく増えていきました。知らない景色、知らない物、知らない匂い、知らない餌、知らない街。刺激を受けたあなたは意気揚々と野良の道を歩んでいきました。
 その一方で、悲劇も目にしました。特に酷かったのは、初めて同胞の轢死体を見たときです。道の中央に横たわっているのを見たとき、あなたは目が釘付けになりました。その同胞はお腹のあたりに大きな傷跡があり、タイヤに踏まれたらしい顔は酷い有様になっていました。同胞はぴくりとも動きませんでした。あなたが明確に死を意識したのはこのときです。あなたはしばらくの間鳴き続け、倒れていた子が本当の意味で動かなくなると、逃げるようにその場を去りました。
 あなたは死が怖くなりました。わけのわからないほど唐突で、どんな抵抗をも許さないその概念を相手にたちまち萎縮してしまったのです。
 考え事のしすぎで、あなたは狩りが上手く出来なくなりました。鼠はおろか虫でさえも捕まえることが出来なくなり、しかたなく元いた住み処を訪ねました。しかしそこにはもう誰もいませんでした。一緒に暮らしていた老いた母もいませんでした。母がどこへ行ったのかまるでわかりませんでした。どこかで轢死体になったかと思うとこれまた却って恐ろしくなり、あなたは教会へ向かって逃げ込みました。
 あなたは教会の軒下に隠れました。あなたに目をかけてくれていた人があなたを見つけてチーズを何切れかくれました。あなたはその滑らかな口当たりに癒やされ、もうどこへもいかずに教会でずっと暮らしたいと思うようになりました。
 ところが、毎日チーズがもらえるわけではありませんでした。あの人も忙しいらしく、教会の中をばたばたと走り回っている日もありました。そのような日にはあなたの世話などしている暇はありません。それにもかかわらず、あなたは餌が出る見込みのないときも軒下でじっとしていました。餌を捕まえる気にも、人間に催促する気にもなりませんでした。あなたの心は未だ覚めやらぬ死の恐怖に囚われていました。どうせ死ぬのなら何をしても無駄な気がしていたのです。餌などとってもいずれ死ぬのだから意味がない。そんなことを考えると食欲が薄れていきました。水は雨からかろうじて流し込んでいたのですが、やがてそれすらも自分からは摂りたくなくなりました。
 丸まったあなたを冬の闇が包みました。視界が霞み、耳も遠くなり、自らの内に潜む温もりも次第に薄れていくように感じていました。
 そのとき、あなたの耳に、か細い鳴き声が届きました。
 あなたは身体を起こし、軒下から這いでて草むらへと足を進めました。ぼんやりした目を凝らし続けているうちに、敷地を囲む塀の上に黒い影を見つけました。さほど大きくはありません。あなたと同じくらいの大きさでした。座り込んだ格好もよく似ていました。もっとも鏡なんて見たことがなかったあなたにとっては似ているというのは二の次で、胸の奥から込み上げてくるじんわりとした感触の方が重要でした。あなたは知りませんでした。それは人間たちが懐かしさと名付けた感情です。過去から今このときまで自己が連綿と続いている証ともいうべき心の大きな作用だったのです。
 あなたは声の限りに鳴きました。鳴かずにはいられませんでした。弱り切った細い声が風に紛れて消えそうになって、慌ててよりいっそう喉に力を込めました。引き絞った苦しい声が夜闇の四方に散りました。
 黒い影は、いつの間にか消えていました。そのことに気づいても、あなたは一向に鳴き止みませんでした。
 あなたの頭の中には景色が浮かんでいました。どこかの穴蔵の中で自分よりも遙かに大きい腹に吸い付いている記憶。赤みがかった乳頭の柔らかさ。そしていつもあなたの横で同じようにそれに吸い付いていた誰か。遠い記憶が過去から呼び起こされたのです。あなたは自分に弟がいたことを思いだしました。そして同時に、彼がもう二度と自分のところに戻ってこないことを悟りました。
 声は震え、掠れ、やがて音とも呼べない代物となり、あなたの意識が遠のくとともに消えました。

 あなたは今、石塀の上で寝ています。
 両足の乗せきるのもやっとの幅に器用に丸くなり、か弱い冬の陽射しの下でまどろんでいます。
 あなたはもう食事を済ませていました。今日の餌は、草むらを駆け回っていたトカゲのしっぽ。動いている方は上手く捕まえられませんでした。それでも、食べる気になっただけでも大したものです。一休みしたら、また次の餌を捕まえに行くことでしょう。
 あなたは夢を見ています。あの日見た黒い影と良く似た姿を見ています。あなたは鳴いています。その声が寝言になって塀の上のあなたの口からぽろりと零れたりもしています。
 あなたはいろんなことを知りました。生まれてから数年。私から見たらとても短い。でもあなたは確かにもう生まれたてとは違います。今のあなたは悲しみを知っています。それを呼ぶ言葉が無くても知ることはしっかり出来ています。その気持ちを抱えたままどうぞ毎日を精一杯生きてください。
 私がここで語った言葉はきっとあなたには届いていないでしょう。でもそれでいいのです。言葉というのは人間たちだけに通ずる暗号のようなものなのです。心配しなくともあなたはこれからまだまだいろんな物事を理解することができるでしょう。
 いつか相見えたときのために私も日々精進するとします。あなたをがっかりさせたままではよろしくないなと思うから。


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執筆者名:雲鳴遊乃実

一言アピール
はじめまして、『創作サークル綾月』です!
2015年7月に設立いたしまして、現在12名のクリエイターが所属しています。
『創作サークル綾月』では文筆に限らず、さまざまな創作行為を通して表現活動をしていきたいと思います。
モットーは「一人ではできない。皆でならできるかもしれない」
どうぞよろしくお願いします。

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