日常回帰「猫の足音」

 まだ死神が通常業務をこなしていた頃の話だ。

 この時勢、煙草をむのもいろいろと制約があった。
 冥府の役人などは禁煙ファシストを自称し、死神の服に煙の臭いがついているだけで嫌味を言う。生憎、嫌味に傷つくような生物らしい心を持ち合わせてはいないのだが。
 とはいえ、他人に迷惑をかけてまで吸う事もない。死神の精神構造でも、それは理解していた。
 コンビニの外のゴミ箱に剥がしたフィルムを突っ込み、早速買ったばかりの煙草に火をつけた。ジッポを閉じる小気味のいい音が寒空に響く。
 増税は、死神の懐を確実に圧迫していた。
 少しでも楽しもうと、ゆっくりと味わう。甘い煙が張りぼての肺を満たし、吐き出すと静かに冬空へ昇って消えた。
 夕方現場の様子を見てきた限りでは終わるまで二週間ほど、といったところだろうか。しばらくはこちらに滞在する事になる。つまりは妨害なしに煙草を好きなだけ吸える。
 ぼんやりと紫煙をくゆらせていると、にゃあ、と足元から鳴き声が聞こえた。乳牛のような柄の猫がズボンに額を擦り付けていた。
 コンビニの窓を見る。貼り紙の迷い猫は三毛で、柄が違う。首輪もない所を見ると、野良なのだろう。
「……煙草吸ってんのになあ」
 もったいなく思いつつも煙草の火を消し、しゃがみ込んで猫の頭を撫でる。
 手袋越しではあったが、猫は気持ち良さそうに目を細めて鳴いた。
「? 違うぞ。ここに来て猫に会ったのはお前が初めてだ」
 猫は小首を傾げ、再度鳴く。
「そんな事言われても困るんだがな」
 その時、背後で自動ドアの開く音がした。
 空のゴミ袋を手に、店員が店の外へと出てくる。その胡乱げな視線はチラチラと死神に向いていた。
 聞かれたらしい。
 死神は立ち上がり、何もなかったようなフリをする事にした。しかし猫は足元でゴロゴロしている。
 羞恥心はなくとも、「やっちまった」と思う事はある。

 それからというもの、そのコンビニに寄ると必ず牛柄の猫が寄ってきた。
 灰皿の側に立つと、どこからともなく現れて足元に寝転がる。そうなると煙草は吸えない。諦めて、ついてくる猫を連れて灰皿から距離を取るしかない。
 一度、近隣住民と思しき初老の男に声を掛けられた。煙が流れてこないギリギリの距離に立つ死神の前で、男はうまそうに煙草を喫みながら言った。
「お兄さんすごいね。こぶちゃん、あんまり人になれないのに」
「こぶちゃん?」
「その牛っぽいブチの。この辺の猫の元締めだよ」
 へえ、と曖昧に相づちを打つ。人間以外の生き物の事ばも理解する死神の耳には、懐いているとは言えない鳴き声が聞こえていた。
 ――やっぱりあいつの臭いがする。やな臭いもする。あいつ知ってる? どこに行ったの?
 やな臭いとは煙草だろうか。それ以外は心当たりがない。
「……知らないんだけどなあ」
 そりゃ人徳で懐かれたんじゃないの、と男は笑った。
 しかし、と。
 男を見送り、死神はあごに手を当てた。煙草が吸えないと暇だ。
 心当たりがなかろうが、こうも寄ってこられるのは何かあると見ていい。
 死神自身は動物に嫌われもしないが、好かれもしない。生は死を喰らい、死もまた生を呑み込んでいく。それそのものである死神は、常に隣に寄り添い、日常に埋没する存在だ。そう言うと大層聞こえがいいが、冥府の役人には酸素やら体内常在菌やらと言われる。つまりはその程度の存在感なのである。
 ふと、コンビニの窓を見る。貼り紙の迷い猫はまだ見つかっていないらしい。その鮮やかな三毛の橙が脳裏を過ぎる。
「――あれ、もしかして」
 懐から携帯を出し、もたもたとメールを打つ。しばらくして着信音が鳴った。前口上を飛ばして目当ての情報に目を通す。
 それからしゃがみ込んで牛柄の肩を軽く叩き、貼り紙を指差す。牛柄は肯定の鳴き声を上げた。
 納得した。
 先ほど買った棒付き飴の包装を剥がして口にくわえる。今日の作業はこれからだ。そして、今日で終わりの目途がついている。
「お前も来るか?」
 声を掛けると、牛柄はにゃあ、と死神に返事をした。

 死神は死をもたらさない。
 それは時間の仕事であり、死神が関知する事ではない。
 生と死を眺め、時に滞りを解消し、途切れないよう繋いでいく。
 幾度も生物が発展し、滅び、自身の姿が大きく変化しても、その役割だけは変わらなかった。
 夕方の山道。並んで歩く猫に気を向けつつ、死神は舐め終わった飴の軸を噛んだ。煙草が喫めない口寂しさを誤魔化せるかと期待したが、もう少し刺激が欲しい。
 道の脇の藪に入ってしばらく歩くと、やや拓けた場所に出る。中心に掘り返したような跡があり、腐った落ち葉が辺りに散らばっていた。
 死神はこめかみを軽く叩き、眼球内のレンズを切り替えた。
 視界は僅かに明るくなり、腰ほどの高さまで黒い穢れが滞留している様がはっきりと見て取れた。靄というには密度が高く、糊のような粘つきがある。
 当初はここを埋め尽くすほどの規模だった。少しずつ削り、昨日ようやく中心が、鮮やかな橙色が垣間見えたのだ。
 知らなくても仕事はできるからと、死神に事の詳細は知らされない。だから先ほど冥府の役人に確認を取った。忙しい時にと文句は食らったが、牛柄が絡んでくる理由が分かって納得した。
 この下には猫の死体が埋まっているという。
 元々室内で飼われていた猫だったが、間違って家の外に出てしまい、帰れなくなっていたらしい。人からエサをもらいながら、なんとか生きていたそうだ。
 彼女は、人間によって死んだ。その人間は発覚を恐れて彼女をここに埋めた。
 死神はここで作業して臭いが移り、牛柄はそれを嗅ぎ取った、という事なのだろう。それがいやな臭い――死臭であっても敵視されなかったのは神徳じんとくとでもいうべきか。
 死神が義憤を感じる事はない。ただ、これをやった犯人はその日のうちに交通事故に巻き込まれて重体だそうだ。悪因悪果などと言うつもりはない。元々澱んでいたものが、彼女を軸に集まった。その方向が犯人に向いたというだけだ。
「……結果的には悪因悪果なのか。だが、まあ」
 まがりなりにも死の神としては、そんなものはないと思っている。
「いいって言うまでこっちに来るなよ」
 声をかけるまでもなく、牛柄は離れた場所で香箱座りをしていた。
 背広を脱ぎ、ワイシャツの袖をまくり上げる。肘まで巻いた包帯を乱雑に剥ぎ取ると、骨が見えるほどの傷が露わになった。手袋を外せば、爪が剥げ歪になった手のひらが現れる。すべてこの穢れに反発によって負ったものだ。普段なら表面がズルムケになる程度なのだが、結構手強い。
 手をゆっくりと握り締め、開く。切れたガワが動きに支障を出さない事を確かめ、穢れの中へためらいなく突っ込んだ。
 音を立ててガワが切り裂かれる。まくったワイシャツの袖ごとやられ、「げ」と思わず声が出た。ガワはともかく服は経費で落ちない。諦めて、更に奥へと突っ込む。ガワを削ぎ落とされほとんど骨ばかりになった手が、柔らかなものを掴んだ。
「よっ、と」
 ずるり、とそれを引き上げ、へばりついた穢れを払い落としてやる。三毛猫はまん丸の目でこちらを見ていた。透けた体はぶるぶると震えている。
 軸を失った穢れは途端に勢いを失い、みるみるうちに地面へ染み込んでいった。後は真上だけは踏まないよう、周辺をいくらか歩いて浄化すれば終わりだ。
「まあお前にも色々あるだろうが。もう痛い事はないんだ、大丈夫だよ」
 抱いて背中をぽんと叩いた後、死神は振り向き、三毛を下ろしてやった。
 うるさい冥府の官吏も、これくらいなら文句もないだろう。
「仲よかったんだろ」
 死神の言葉に呼応して、牛柄もにゃあと鳴いた。視線があらぬ方を向いている彼には見えていないだろう。だが、それでも。
 三毛猫はためらいながら、半透明な鼻先をそっと牛柄の猫と合わせた。

「それからどうなったんですかだね? そのウシ柄のネコは」
 クェリトベッタは尻尾をひらひらと振った。死神はむき出しになった顎の骨に手を当てる。
「さあな。俺もそれきりだったもんで。……まあ、とっくの昔に寿命を迎えただろうが」
 あの柔らかな毛並みを思い出す。もう何十年前になるだろうか。スマートフォンと呼ばれた通信端末が一般に浸透した頃の話だ。
「……あの時は、こんな事になるなんざ思ってなかったよ」
 死神は空の眼窩を空に向けた。
 突き抜けるような青と、目に痛いパーマネントイエローのマーブル。雲に混じってぽつぽつと浮かぶ影は、崩壊の折に浮かび上がった大地の欠片だ。聞いたところによれば、世界同士が衝突してこうなったらしい。
 最早嗜好も何もない。最後に通常業務を行ったのは、もう半年も前になる。
「……ううむむ、調整が終わったぞシニガミ。ワタシは元気ですだ」
 クェリトベッタは手足と尻尾の五本足で立ち上がり、シャカシャカと歩いてみせる。猫のぬいぐるみがブリッジで動き回っているのはシュールを通り越してオカルトだと死神は思う。
「じゃあ、行くか」
 身体を鳴らしながら、死神も腰を上げた。
 元に戻す事は不可能でも、最善を尽くすために。
 吸い殻をくわえ、骨ばかりの体で滅んだ世界を歩いていく。


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執筆者名:霧木明

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未設定、あるいは霧木明と申します。よろしくお願いいたします。

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