飴と海鳴り

 その夏、湯田郡司ゆだぐんじを悩ませていたのは海鳴りの音だった。どおお、どおおという遠雷のような唸りがまとわりついて離れない。身体を内側から揺さぶられ、骨ごと震わされている気がして、頭痛がひどい。はじめは何の音だかわからなかった。海のそばに住むのは初めてだった。
「ああ、海鳴りでしょ」
 フロント係の女はここに勤めて長いという。全身くまなく肉がついているが、振舞いはいつもせわしない。
「沖が荒れているときね、波が崩れたのが、雲に反射して聞こえてくるんだけど」
 曇りがちのこの町には、海鳴りはつきものだという。とはいえ四六時中響いているのは妙だ。
「そうですか」
 つまりおれだけに聞こえる音なのだろう。郡司は言葉を飲み込んだ。
 東京から逃げてきた罰だろうか。この町に着いた夜に埠頭で轟いていたそれが、耳奥に延々絡んでいる。嫌なら東京に帰れということか——、海鳴りは郡司の心臓を重くした。

 汐見荘には住み込みで働き始めたばかりだった。安いだけが取り柄の温泉旅館である。
「お湯の湯に田んぼの田か、ハハ、うちにぴったりだ」
 名前が気に入ったからと言って採用を決めた社長の口ぶりは、冗談か本気か掴みかねた。履歴書もなしに訪ねた自分も自分だが、今時こんなことがまかり通るとは。よほど人手が足りないのだろうと郡司は思った。
「きみの部屋、長いこと使ってなかったんだ。テレビ台は置いたままなんだけど、テレビ自体はなくてね。地デジ切り替えのときに捨てちゃったんだよ。もし退屈だったら、ラジカセかなんかやろうか」
 いいですラジオも音楽も聞かないんで、郡司は短く言って断った。

 蒸し暑い満月の晩だった。団体客の慌ただしさと海鳴りの憂鬱のため、もともと白い顔をいっそう青ざめさせた郡司が寮(という名のぼろいアパート)に帰ると、ドアの前に横たわるかたまりがあった。
 猫だった。
「……またお前か」
 猫はこのところ毎晩、そこにいた。いつもだらりと足を伸ばして眠っていて、近づいても目を覚まそうとしない。黒い猫で、足先が靴下を履いているように白い。尻尾が千切れたように幾分短い。首輪はない。野良猫か、迷い猫か。
「毎晩待ち伏せて、借金取りのつもりか」
 ひとりごちるものの、郡司に猫を追い払う潔癖はなかった。仕方なしに柔らかそうな身体をそっとまたいで部屋に入る。それが日課になっていた。
 しかしその晩、猫は郡司の部屋に侵入した。ドアを開けた拍子、細い身体をくねらせて、するりと入り込んだのだ。
「あ」
 音もなく猫は駆けた。カーテンの隙間から月明かりが差し込んでいた。ひょいと空っぽのテレビ台に飛び乗ってみせる。満月のスポットライトを浴びて、まるで舞台女優だ。首だけで振り返ったその目が、きらりと光った。そしてテレビ台の裏に潜ってしまった。
 金色の視線に射抜かれたためではない。しかし郡司は猫を部屋から追い出すのを早々にあきらめた。眠かったのだ。次の日、窓を細く開けて仕事に行った。
 けれども猫は出て行かなかったし、郡司も何となく気になって、食堂の残りの牛乳を与えてしまった。猫は満足そうに舐めた。なんだか猫を拾ってしまったみたいだ、とぼんやり思った。

 猫の身体からは潮の匂いがした。海辺の町をうろついていると染み付いてしまうのだろうか。思わず自分の身体を嗅いだがよくわからない。猫は尻尾をゆらりと立てて、にゃあと鳴いた。ふてぶてしく目を細めた。
 猫はひどく暴れ者だった。郡司のシャツを好んで噛みたがったし、我が物顔で布団を占領した。吸い殻のたまった灰皿をひっくり返し、遠慮なくあちこち爪を立てる。細い毛をばらまく。郡司は注意を促してみたが、猫が理解するはずもない。
 あるいは猫を追い出してしまえばよかったが、なぜかためらわれた。第一、窓から外に出しても猫はいつのまにか帰ってくる。郡司は嘆息した。ほかの従業員に見つかってしまえばいい、そう思った。見つかって咎められれば堂々と捨てられる。
 郡司は何かをキッパリと捨てる、排除するという潔癖を持ち合わせていなかった。他者を所有したためしがなかったためか。これまで郡司は、常に所有される側だった。

 東京では姉と暮らしていた。半分血の繋がった姉はピアノバーをやっていた。妙に羽振りが良く、郡司のことをとても気に入っていた。だから甘えた。従った。
 郡司の仕事はふたつだけ、店を開ける時間に姉を起こすこと、姉に泣きぼくろを描いてやることだった。姉は美しかったが、自分の左目尻には泣きぼくろがあるべきだと主張して、郡司に毎日描かせていた。
「……冬物、クリーニングに出すわ。あなたのコートも、いいわね?」
「うん」
 黒い絵筆のようなその化粧道具の名を、ついに郡司は覚えられなかった。姉の頬はいつも冷たくて、郡司が筆を触れるとき決して目を閉じない。ぽつん、と点を描くだけのそれを、なぜかいつも郡司にやらせた。
 春先、姉は妊娠した。父親のない子になると言っていたが、姉は平気な顔をしていた。
「来年には三人暮らしね」
 歌うように言った。郡司に父親役をさせるつもりなのだろう。それがわかって、ぞっとして、郡司は姉のいない隙に出て行った。発作的に飛び出した。いくつかの着替えだけカバンに詰めて。
 あの人は今ごろどうしているだろう。腹はだいぶ大きくなったろうか。郡司の子であるはずはなかったが、なぜか自分が子どもを捨てたような錯覚を覚えた。夜道に子どもがうずくまる光景が浮かんでは消えた。子どもの顔はなぜか自分の顔だった。逃げたのは自分なのに、見捨てられたような気がしていたからかもしれない。姉は自分を追わなかった。
 心臓が軋んで、うまく眠れなかった。さまざまな記憶や妄想がざわめく波のように寄せては返す。姉の声やピアノ、冷たい手指。長い髪が自分の肌を撫ぜる感触。それらはフトした拍子になまなましく蘇った。あの人は、東京でどうしているだろう?
 持ってきたコートは結局クリーニングに出さないまま夏が終わりかけていた。ポケットには、いつか店でもらった赤い飴玉が入ったままになっていた。くしゃくしゃの包みが乾いた音をたてた。

 郡司の煩悶をよそに猫の態度は悠々たるもので、すっかり居ついてしまっていた。日に焼けたカーテンが気に入りで、夕刻、風にたなびくそれにまとわりついては爪をひっかけて、飽きもせずじたばたやっていた。偏食がひどく、牛乳とアイスクリーム以外は食べたがらない。ほかのものにはぷいとそっぽを向く。あたかも年頃の娘のような仕草に郡司は手を焼いた。(しかしあとでわかったことだが、猫は雄だった)そして雨の日は物憂げな顔をしてじっと窓辺に座っていた。いつまでも雨垂れを眺めていた。
 そういう猫との何気ないやりとりは、少なからず郡司の心を温めた。
 夕立のあとで涼しくなった晩、昼間の汗が冷えたためか郡司はくしゃみをした。同時に猫もくしゃみした。その符合に郡司は思わず笑った。
 ──思うに、自分は猫を所有しているわけではないのだ。ただ、同居している。ただ、隣りにいる。
 猫が何を考えているのかわからないが、猫だってこちらのことはわかるまい。猫がにゃあと言えば、郡司もにゃあと答えた。それだけだった。それだけだったが、居心地は悪くない。抱き上げるとぐにゃりと重く、温かい。
 不思議と海鳴りは止んだ。猫の黒い背が、海の唸りを吸いとってしまったようだと郡司は思った。猫と並んで床に座りアイスクリームを掬っていると、自分がまっとうな生活を取り戻しつつあるような気がした。

 しかし夏の終わり、猫は死んだ。
 旅館の近くの浜辺で、学生客が散らかしたままにした花火の燃えかすを食べて死んでしまった。あんなに牛乳とアイスクリーム以外は嫌がったのに、どうして火薬なんか食べたのだろう?
夜明けの砂浜で死骸を見つけ、郡司はうなだれた。まだ温かな黒いかたまりを、郡司はそっと持ち帰った。生きているときより重たく感じた。冷たくなるまで抱えていた。冷たくなってもなお、潮の匂いが漂った。左目からひと筋だけ涙を流した。右目は泣かなかった。心臓が左にあるからなのだろうとぼんやり思った。

 唐突に、幼い頃に行った海を思い出した。海岸は広々として、波がうるさかった。風が強かった。熱い砂が足の指に絡んだ。姉が波を蹴って笑っていた。それは、郡司が姉と暮らし始めた夏だったかもしれない。新しい父親に連れられて、車で遠くの海へ来た。そうだ、そのとき初めて、姉はおれに赤い飴玉を寄越したのではなかったか。

 猫が死んだから、また海鳴りの幻聴がはじまるだろうか。郡司は考え、しかし首を振った。もう、東京は遠い。おれは遠くまで来たのだ。
「よお、おはよう」
 朝、露天風呂の清掃をしていると、社長がへらへら笑ってやってきた。
「どうだい、仕事は慣れたか」
「慣れませんね」
 短く言うと、社長は片眉を上げて苦笑した。郡司は細く息を吐いて続けた。
「……社長。やっぱりラジオ、いただいてもいいですか」
 水を抜いた露天風呂を、透明な朝の光が満たしていた。冷たい光だった。もう秋なのだと郡司は思った。そして、今度の休みにコートをクリーニングに出しに行こう、そう思った。寒くなる前に。赤い飴玉を捨てて。そしてラジオをもらって、あの台の上に置こう。
 社長がいかにもうれしそうに笑って出て行ったあとで、郡司はにゃあとつぶやいてみた。当然、誰の返事もない。しかし、小さく笑った。


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執筆者名:オカワダアキナ

一言アピール
小説やシナリオを書いています。私は嘘つきですが、文章の中では正直者です。というのはパラドクスですが、基本姿勢としてそうやっています。少し不思議なことが起きたり起きなかったり、半径の狭い話を書くことが多いですが、気持ちは広々としたいものです。ツイッターやイベントでお話できたらうれしいです。

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