Help me!

 よく晴れた初夏の昼下がり。司法精神医学研究センターの建物の前で、くしゃくしゃになった白衣を着た男が、ポケットに手を入れて空を見つめていた。新人刑事の羽鳥はとりは眉をひそめて、「まき先生?」と声をかけた。
 彼は鑑定医として名高い精神科医だ。現在は警察の捜査に協力している。羽鳥はそのための資料を届けるためにここに来た。彼はいつも研究室に閉じこもってタバコをふかしているのに珍しいこともあるものだ。散歩でもしているのだろうか。だが、槇は振り返ってこちらを向くと、険しい顔で言葉を濁した。
「ああ、羽鳥くんか。ちょっとね、気になることが………」
 鼻梁が高く彫りの深い顔立ちは美形と言っても良い。鋭く相手を見据える瞳がこちらを向いている。もしかして事件に関係したことかもしれない。無意識に銃のホルダーに手をやり、槇に背中を合わせるように近づく。足音を立てずに息を殺し気配を消す。槇が嫌そうに言った。
「君ね、戦場じゃないんだから兵士みたいな真似はよしてくれ」
「いえ、油断は禁物ですから。もしかして、不審人物を見かけたとか?」
 槇は肩をすくめると「不審と言えば不審だけどね」と言った。
「猫が助けを呼んでいる気がする」
 羽鳥は「猫?」とつぶやく。何かのコードネームだろうか。目を閉じて神経を集中し、耳をすます。すると「ミアー」という切羽詰まった鳴き声がした。力いっぱい絞り出した、助けを求める声だ。
「猫、ですね。これは猫の声です」
 素早く周りを見渡す。目隠しのように植えられている常緑樹。コンクリートの打ちっぱなしの研究センターの建物。その建物に這わされている雨どい。そこから伸びる排水溝。羽鳥は駆け出すと、溝の中に飛び込んだ。
 中を覗き込むと、溝蓋の下の暗がりは鼻をつくような獣の匂いがした。黒ずんだ毛のかたまりは母猫のようだ。喧嘩で怪我をしたのかパックリと肩のあたりに傷が開いており、血や膿がこびりついている。手を伸ばして触ると、とっくに息絶えているらしく、毛の生えた陶器の人形のように硬直している。そのそばには三つの小さな毛のかたまり。二つはもう硬くかたまって動かない。そして、残された一つの毛玉がこちらに向けて、「ミアー」と鳴いた。見開かれた目は闇の中でも光を失わず、こちらをしっかりと見ている。
「なんとかしてくれ」
 目の前の子猫にそう言われた気がした。この幼猫は世界の道理も知らないうちに兄弟や親を失った。弱々しく立つことすらままならない、無防備に散っていくような命。それでも生きることを一つも諦めていなかった。
「お前がなんとかしてくれ」
 そう呼びかけるようにミアーミアーと鳴く猫。掌にじっとりと汗が滲んできた。羽鳥のこの手は拳銃を握って標的を打ち抜くことができる。いや、この猫なら素手で握りつぶすだけで命を奪うことができるだろう。でも、殺す術に長けていても、救う術は知らない。硬直して小さな毛玉を睨んでいた。
「ほら、猫がいるだろ?」
 後ろから槇の声がした。羽鳥の後ろを走って追いかけてきたらしく息が切れている。どこか自慢げな声で言う。
「俺は耳はいいほうなんだよ。通りかかって猫の鳴き声がした気がしたんだが、間違いなかったようだな」
 そしてヒョイと羽鳥の代わりに排水溝を覗き込むと「お、生きてるのは一頭か」とつぶやく。彼は白衣を脱ぐとくしゃりと小さく畳む。そして、子猫を抱き上げて、その中へ置いた。陽光の下に引っ張り出された子猫は、くしゃくしゃの白衣の中でミアーと鳴いて震えていた。耳は半分へしゃげたように折れている。口のあたりは斑点があり、目やにがたまっていた。毛は絡まりあい薄汚れている。
 槇は羽鳥に向き直って真面目な顔で聞いた。
「羽鳥くん、君は猫を飼った経験は?」
「ありません。先生は?」
「ない。君がなんとかしてくれ」
 彼がぬっと猫を包んだ白衣を押し付けてくる。首を横に振って「困ります」と断った。
「弱ったな。俺は猫なんか飼う自信はない。小動物に興味はないんだ」
「なんで助けたんですか……」
「謎の鳴き声には興味がある。そして、謎が解けたら興味がなくなる」
 悪びれもなく答える槇を見て、ため息をついた。猫が好きなのかと思ったらそういうわけでもないらしい。
「そうだ、君の部署にいる藤波くんを呼ぼう。彼は君の面倒もよく見ているようだし、きっと猫のこともなんとかするだろう」
「この猫と私は同列ですか……」
 白衣に包まれた子猫の頼りなげな姿を見て「槇先生に助けてもらってよかったね」と胸の内でつぶやく。そして、携帯電話を取り出して先輩にコールした。

 五分後には藤波は研究センターの前に来た。要領をつかめずに首を傾げてやってきた先輩刑事に、槇がまた真面目な顔で聞く。
「君は猫を飼った経験は?」
「刑事に猫の面倒を見る時間があるわけないですよ。そういえば、昔、付き合っていた彼女が猫を飼ってたなあ」
 藤波は白衣にくるまれた子猫を覗き込んで「あ、かわいそうに」と眉をひそめた。
「捨て猫ですか?震えてる。怪我してないといいけど。早く動物病院に連れて行ったほうがいいですよ」
 その言葉を聞いて、羽鳥と槇は顔を見合わせた。なるほど、弱っている猫ならまず医者に診せたほうがいい。二人が思いもつかなかったことだ。
「よし、藤波くん、君が適任のようだ。この猫を託そう」
 グイッと猫を押し付けられて、藤波は目を白黒とさせた。
「先生が飼うんじゃないんですか?」
「俺と暮らしたらその猫は間違いなく受動喫煙で苦しむ。煙でむせて早死にするぞ」
「これを機に、タバコを減らされたらどうですか?」
 藤波は苦笑いしてはいるものの、白衣に包まれた猫を受け取った。明るい茶色の髪が陽の光に透けてキラキラと光る。弱った子猫に優しい視線を注いで「もう大丈夫だからね。病院に行こうな」と声をかけている。そして、顔を上げて困ったように言った。
「俺も家を空けることが多いですから、飼い主を探さないといけませんよ。羽鳥ちゃんは飼えないの?ペット可のマンションに住んでない?」
 顔が引きつるのがわかる。あんな風に助けを求めてすがりついてくる弱い生き物に、自分は手を伸ばして抱き上げてやることすらできなかった。あの無愛想な槇ですら白衣で包んでやったのに。藤波は「羽鳥ちゃん、そんな思い詰めた顔しないでよ。ちょっと聞いてみただけなんだからさ」とつぶやいた。そして諦めたように言う。
「わかりましたよ、俺がなんとかしますよ」
 猫はその言葉がわかったのか、少しホッとしたように見えた。藤波は白衣ごとゆすって「お前も変な人たちに拾われたねえ」と話しかけている。羽鳥はその光景を「自分には決してこんなことはできないのだろう」と強く思いながら見つめていた。
 一方、槇は猫に興味を失ったようで、ポケットを探っている。どうやらタバコを吸いたいようだが、部屋に忘れてきたらしい。羽鳥をチラリと見て言う。
「ところで今日はなぜ君はセンターに来たの?俺に用があったのかな?」
「はい、資料をお持ちして……」
 そう答えると「じゃあ研究室へ戻ろう」とさっさと歩き始めてしまった。藤波を振り返ると「いいよ、猫はなんとかするから行っておいで」と苦笑いして手を振っていた。

 研究室はいつも通りタバコの臭いが充満していた。確かにこの部屋での生活は猫の体によくないと思う。槇はすぐに紙巻を取り出すとライターで火をつけた。ピタリとした黒のTシャツはうっすらと胸板が透けている。そういえば、彼が白衣を脱いだ姿は初めて見た。痩せて見えていたが腕から背中へと無駄のない筋肉が付いている。書類ばかり読んでいるように見えるのに、意外と鍛え上げた体つきをしていた。
 彼の吐き出した紫煙がゆっくりと天井に向かっていく。その様子をボンヤリと眺めていた。
「羽鳥くんは猫が嫌いなの?」
 低い声で問われて「いえ」と視線を戻すと、精神科医の鋭い目がこちらを観察している。この人の見透かすような瞳が苦手だ。気を抜くとすぐに踏み込んでこようとする。
「嫌いなわけではないです。どう接すればいいのかわからないだけで」
 あの猫の「なんとかしてくれ」という悲痛な訴えが脳裏に浮かび上がる。目の上を押さえて「猫でも……飼ったほうがいいんでしょうね、私は」とぼそりと言った。
「ほら、母性本能という、女性が持つ世話を焼く能力が私は欠落しているんですよ。猫でも飼ってケア能力を伸ばす努力したほうがいいのかも」
「俺も欠落している」
「それは見ればわかります」
 即座にそう言うと槇は目を細めて「どういう意味だよ」と言うとクックと喉の奥で笑った。
「俺だって一応、医者なんだぞ。ケア能力を期待されてもいいと思うがな。ま、性別にしろ職業にしろ、要求される能力と、自分の特性が一致するとは限らないもんだ」
 白衣を脱いだ精神科医は、タバコの灰を落としながらそう言った。羽鳥はその指先を見つめて聞いた。
「でも、先生は猫の助けを呼ぶ声が聞こえたんですよね?私には聞こえなかった」
 かすかな声で子猫は叫んでいた。羽鳥の人並み外れた聴力でやっと居場所がわかるような小さな声。だけど、槇にはそれが聞こえていた。この人は「助けを呼ぶ声」を聴くための特別な耳を持っているのだろうか。かすれた声で問う。
「もし、私が助けを呼んだら……先生は来てくれますか?」
 そう質問した後に、自分が何を言ったのかを自覚して、頰のあたりが焼けるように熱くなった。「私のピンチには助けに来てね」と言わんばかりの台詞を口走ってしまった。なんでそんなことを口にしたのか。だが、低い声は穏やかに言った

「行くだろうな。君が助けを求めたら、後先のことなんて考えずに駆けつける」
 顔の熱は耳まで覆っていく。羽鳥は「これが顔が真っ赤になるということか」と考えていた。恋人同士の睦言のような言葉に気が遠くなりそうだった。
「ただし、助けた後には興味がなくなる。それは覚悟しておいてくれ」
 顔を上げると、槇の顔は少しも笑っていなかった。暗い孔のように光のない瞳がこちらを向いている。その目の中に


Webanthcircle
ヤミークラブ(Twitter)直参 B-29,30(Webカタログ
執筆者名:宇野寧湖

一言アピール
長編サイキックミステリー小説「零点振動」の番外編です。欠落を抱えた人間の「自分のみっともなさに向き合いながら生きている姿」が好きです。ほかに、「恋愛ファンタジー小説」の合同誌や「闇堕ち成人向け小説」も発行しています。

Webanthimp

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください