黒い猫

 都心では暖冬の為に終ぞ見ることのなかった雪だが、列車に一時間も揺られれば、一面銀世界に辿り着く。雪化粧を施された杉並木を三人の男女が歩いているのが見える。まっさらな新雪に三つの足跡が刻まれ、その行き先には山小屋風の建物が雪景色に溶け込むように建っている。
「あそこですか?」
 皮手袋をはめた手で建物を指差し、男は後ろの女二人に問う。
「はい。」肩ほどの長さの髪の女が頷く。
 短い階段を上り、玄関の扉に手を掛けると、何ら手応えなく扉は開く。ひんやりとした空気が建物内部を支配し、人の息遣いも温度も感じられない。男たちは小屋に上がり込み、リビング、ダイニングと覗くが人影はない。フローリングの短い廊下の奥にある扉を叩くが、やはり反応はない。
 しかし、ドアノブを握ると、今度はがっちりと硬い手応え。もう一度どんどんと叩くが、返事はない。男は木製の扉に耳を押し当て中の様子を探ると、猫と思しき鳴き声が聞こえた。
「猫がいます。」
「主人の猫だと思います。」ボブカットの女が答える。「いつも主人の傍にいるんです。」
「という事は、」男は鋭い目付きで扉を睨むと、勢い良く脚を振り上げ、扉を蹴り付ける。二度三度と蹴り、やがて扉は弾ける様な音とともに開いた。
 黒猫が一匹、確かに部屋の中心で蹲っている。そいつは目を見開き、突然駆け込んできた男女を見詰めていた。
「ああ、」女は短い悲鳴を漏らした。
 猫の隣には、飼い主である女の亭主が床に倒れていた。傍から見ても、生きている様には見えなかった。
     ※
 それは昨日の事だった。男が構える探偵事務所――菅野探偵事務所に二人の女がやって来た。二人は良く似ていて、血縁関係にあることは一目で分かった。
「依頼があります。」髪の短い女――姉の角江青かどえあおが言う。「主人を迎えに行くのに、協力して欲しいのです。」
 捜査依頼ではなく、迎えの同行だと言う。菅野は首を傾げながら、詳しく話を聞いた。
 青の夫は作家の沖柚人おきゆずとだと言う。彼は執筆の際、別荘に引きこもって作業を行うらしい。今回の締切りは数日前に過ぎているのに、帰ってくる様子がない。電話を掛けても連絡が付かないという。
「執筆が終わらず、締切りを延ばしてもらったのでは?」
「可能性はあります。でも、電話に出ない理由にはならないと思います。」
 確かに。菅野は納得しながらも首を傾げる。「つまり、ご主人が心配なので、迎えに行きたいという事ですよね?」
「はい。」
「何故、探偵事務所なんですか。警察や出版社の方でも良いと思いますよ。きっと力を貸してくれる。」
「それは、」女は俯き、言葉を濁らせる。
「公には出来ない秘密があるんです。」言葉を継いだのは、妹のあんだった。「実は、義兄は薬物を使用しているんです。」
 なるほど。菅野は頷いて見せた。つまり、彼女たちは帰ってこない沖柚人の身に何かトラブルが起きたと考えているが、薬物を使用している事は知られたくない。だから、探偵に協力を仰いだという話だ。
「貴方は非合法の仕事も請け負っていると聞いてます。内密にお願いします。」
 差し出された封筒には、生唾を飲むほどの額が納められていた。切り傷のある手で紙幣を数えながら、「お請けします。」と菅野は笑みを零して頷いた。

     ※

 そして、件の別荘に赴くと、沖柚人は屍へと変わり果てていた。
「どうして、」
 妻の青は倒れたまま動かない夫を見詰めながら呟く。顔色は蒼白で、血の気がない。
「薬物を過剰に摂取した所為で、心不全を起こしたのでしょう。」
 探偵は遺体の脇に屈み、散乱する小瓶や注射器を物色していた。
「事故死ということ?」姉の傍に寄り添う杏が、胡乱な眼差しを送る。
「ええ。」鋭い眼光を返しながら、菅野は嘯くように言う。「事件性はないと思います。違法薬物を使用していた以外は、」
 二人の眼差しは遺体の上で絡まり、無言の中にお互いへの問いが投げ掛けられていた。空気が、緊張感を孕みだす。
「あの、」その空気を破ったのは、震える声を絞り出した遺体の妻だった。「何で、部屋に鍵が掛かっていたのでしょうか?」
「どういうこと、姉さん?」
「だって、この別荘にはあの人しか居なかった筈なのに、わざわざ鍵をするなんて妙だと思って、」
「確かに、そうね、」
 言われて杏も部屋の違和感に気付いた。そもそも玄関は施錠していないのに、何故部屋の鍵は掛かっているのだろうか。本当にこの探偵を信じて良いのだろうか。疑念が彼女の頭の中でチラつく。
「誰か、もう一人人間が居たんですよ。」依頼者からの疑いなど何処吹く風と、菅野は黒猫を抱きかかえながら事も無げに答える。「誰も居なければ部屋に鍵を掛けない。ご尤も。他人が居たから、沖柚人は施錠した。」
「じゃあ、義兄は殺されたって言うの?」
「いいえ、殺人ならば部屋を密室にする必要はない。むしろ、自身の痕跡を消すべきだ。被害者以外、犯人がこの場に居たことを知らないのだから――痛っ、」
 抱えていた猫が爪を立て、菅野の手が赤く滲み、うっすらと血が浮き上がる。床に降りた黒猫はそのまま部屋の外へと駆けていった。
 菅野はやんちゃな猫が消えるのを見送ってから、続きを話す。
「鍵を掛けたのは、被害者自身。偶然居合わせた人間は、沖の死に気付き、疑われるのが怖くて慌てて逃げた。だから、玄関の鍵は開いていた。」
「でも、誰がここに居たって言うのですか?」
 妻は、夫の死を知りながら伝えなかった者への怒りを露に探偵に詰め寄る。
「普通、客人を一人待たせて部屋に引きこもる主人はいない。ただ、被害者は作家だった。作家が平然と待たせることが出来る相手がいる――」
 答えを求める様に、菅野は杏に視線を投げる。「編集者ね。」
「ご名答。」パチパチと探偵は手を叩く。「ちなみに、その不心得者の編集者が誰なのかも時間を掛ければ分かる。」
「どういうこと?」
 姉妹の声が重なる。
「原稿らしき物が見当たらない。わざわざ手渡しをするのだから、手書きかプリントアウトされた物が存在するはず。でも、それがないという事は、この場にいた編集者が持ち逃げしたんですよ。因みに、原稿がないことがこの場にいたのが編集者であった事を確かなものにしてます。そして職業柄、原稿を葬ることは出来ない。必ず、出版する筈だ。自分がネコババした事を示す証拠であるのに。」
 獲物を狙えハンターの様に、彼は嫌らしく笑う。
「提案ですが、その編集者にささやかな意趣返しをしませんか。」
「意趣返し?」
「はい。沖柚人の死を公にしないのです。死因もあまり世間に知られたくないものですし、彼の死を見捨てた人間が彼の遺作で利益を得るのを阻止するのです。」
 沖柚人の新刊ならば、常時でもある程度の部数は見込める。しかし、それが遺作と銘打たれれば、普段の数倍の売れ行きが見込めるはずだ。そして、それは編集者の利する所、大だ。
「そうね。」
 青の瞳に、静かに復讐の炎が燃えていた。探偵は小さく頷いた。
 
    ※

「これで良いですか?」
 沖柚人の密葬を終えた翌日、菅野は事務所の固いソファに座り、依頼人の杏と向き合っていた。
「ええ。」力強く頷き、彼女は三度目となる封筒を差し出す。「成功の追加報酬よ。」
「どうも、」
 傷が二つとなった手で札束を数えながら、彼女が一人で事務所を訪れた時の事を菅野は思い出す。
 杏は探偵事務所を訪れるなり、殺人を依頼してきた。「貴方が非合法な依頼も請けているのは知っています。」
「ならば、依頼料も知っているだろう。人の命は安くないよ?」
「ええ、」彼女は事も無げに帯付きの金を卓に積む。「これで、沖柚人を殺してくれる?」
 こうして、『沖柚人殺害』という依頼を菅野は請けた。そして、売人の振りをして彼の別荘で劇薬の含まれた薬物を渡し、その死を見届けた。その後は、茶番である。姉を連れてきた杏と協力し、角江青を丸め込んだ。
「でも、貴方の口上にはハラハラしたわ。だって、事故と言っておきながら、沖の事を被害者と呼び続けるのだもの。」
「こっちも焦っていたんだ。一回目に別荘に行った時、猫に手を引っ掻かれて、もう一回爪にオレの血を付着させなければならなかった。その所為だ。」
「そういう事にしておくわ。」
 小さく笑み、角江杏はソファから腰を上げる。長居する気はないらしい。
「今後、君は猫を被って生きていくのかい?」
 女の背中に探偵が問う。
「いいえ。本当の私として生きるの。あの泥棒猫が私から盗んだモノを取り戻して。」
 奪われた最愛の姉。そして、盗まれた作品。
「まさか、沖の作品が君の盗作だったとはね。だから、彼の死が公にされない事も望んだんだな。」
「作家『沖柚人』の死が知られていなければ、私が新作を書けば良い。コピーキャットではない、本物が。印税で姉を養うことも出来るしね。」
「お姉さんに化けの皮を剥がされない様に気を付ける事だね。」
「貴方も、」
 短い言葉を残し、彼女は出ていった。
 菅野は一人事務所に残り、次の依頼が来るのを静かに待った。探偵という猫を被り、扉がノックされるその瞬間を。


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妄人社(URL)直参 A-11(Webカタログ
執筆者名:乃木口正

一言アピール
ミステリをメインに活動中。長編からショートショートまで、硬軟取り揃えてますので、推理小説が苦手な方も是非ご一読を。
今回は前回のアンソロ寄稿『人差指』と併せて読んで頂けると、より楽しんで頂ける――ような気がします。
にやり、としていただければ幸いです。

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