その名はアリス!-末期大正怪奇夜想譚-

 時は大正十三年――
 真夜中過ぎの帝都。今は人通りも無い銀座の路地裏。其処に婦女子の荒い呼気の音。
 鞠子はもう半刻ほど、逃げ惑っている。元はと言えば、下宿先が同じの先輩が店の戸締りが問題無いか見て来て頂戴、等と押し付けてきたのが善く無かった。それは単なる厭がらせで、勤め先のカフェエで何かと重用される鞠子が気に喰わなくてのことだったが、波風を立てるのを厭うてつい承諾して仕舞ったのだ。
 だが今更になって、鞠子はそれを酷く後悔していた。カフェエの鍵が閉まっているのを確認した丁度その時、ボォン、ボォン、と柱時計の様な音が聞こえたので、マガレイトに結わえた儘の黒髪を揺らし辺りを見回し、ぎょっ、とした。
 夜の帳――漆黒の筈の天蓋に、毒々しい原色の数々が乱痴気騒ぎの様に発光している。それだけなら、昼間の勤めが眼に障ったのだと思い過ごすことも出来た。だが真の怪奇はその直後に訪れた。
「ぉ……ぉ……あぉ……ぉ……」
 空洞に轟く様な不気味な音を聞いて振り返れば、其処に居たるは異形の像。
 辛うじて人型かと思えたのは頭と思しき部位に三つの黒点が穿たれていたのと、手足の様な物が生えていたからで、その他は全く奇天烈な化物が、三歩と一寸の処に居た。化物は全身を強い臭気を発する汚泥が如き物質に包ませており、それが表面上絶えず蠢き、膨張と収縮を繰り返すという摩訶不思議な容貌をしていて、それが自らの方に手を伸ばしてくるのだから、鞠子は思わず後ずさりした。それが彼女の命を救った。腕から垂れた化物の汚泥は、一粒零れ落ちた後、着地した先の煉瓦を、じゅう、と溶かして仕舞ったのだ。
(兎も角、此処から離れなくっちゃあ……!)
 以来鞠子は無我夢中で、この化物から逃げ回っている。幸い化物の移動速度は左程速くは無い……どころか鈍間ですらあるのだが、下宿先へと向かう道を辿って発見したことに、この未曾有の怪物は一体のみならず、彼方此方に多数出現していた。御蔭で迂回に迂回を重ね、途方に暮れた鞠子である。
 路地裏を抜けると、銀座の目抜き通りに転び出た。昼間は無数のモガやモボのさざめき合うこの場も、今は不気味な静寂に支配されている。頭上には未だ気が違ったような色彩の夜空が広がって、鞠子の頭まで可笑しくなって来る様である。
そんな彼女の背に、
「ヤァ、御嬢さんの夜中歩きは感心し無いな」
 と声が掛かる。新手の化物か、と距離を取りながら振り返った。
 声の主は人間だった。陸軍式の制服を上下にカッチリ着込んで正帽を被り、黒の外套を颯爽と肩に掛け直立するその姿は、縦に長くすらりと均衡の取れた細身の体躯をより引き立たせ、華麗な空気を振りまいている。
 只、その顔には能面が付けられていて、如何な容貌か判別し様が無い。
(軍人さん……? 如何しよう、助けを求めて善いものかしらん……)
 只でさえ異常事態に惑っていた鞠子である、この奇人を俄かには信じられ無かった。だが奇人は構うことなく、この不気味な夜にも澄んで響く音で、気安く彼女に話し掛けてくる。
「今この場は《泥都》と化している。一人で出歩くのは危険極まりない、送って差し上げるから早くお帰りなさい」
「でい、と?」
 聞き覚えの無い言葉に、鞠子は首を傾げた。此処は帝都・東京。昨年この地一帯を襲った関東大震災の悲劇にも屈せず、見事再び花咲かせた栄光の都。そんな濁りを孕んだ音の単語など、無縁の様に思えるが――
 と、刹那集中を途切れさせた鞠子の右手を奇人は掴み、そのまま自身の方へと引き寄せた。小さく悲鳴を上げる鞠子に構わず、その胸の中に抱き入れる。鞠子は痴漢の類が正解だったか、と心中嘆きもしたが、
「止めないかね、物騒な」
 と、奇人は別の誰かにそう言った。
 掴まれた腕は直ぐ解かれ、自由になった鞠子が奇人の視線の先を追うと、其処に居たのは年端も行かぬ少年だ。秀麗な面差しとさらりとした黒髪、書生風の出で立ちの何れにも不審な点は見当たら無いが、只一つ、手にした注射器が不穏を醸し出している。
 少年は怜悧な黒い双眸で奇人を見る。
「だから貴方は甘いと申すのです。泥都を知った者が日常に戻り、無責任な噂を立てればそれだけ僕等の任務に支障を来たす。忘れて貰うのが最良です」
 奇人が溜め息混じりに返す。
「その忘却剤は副作用が酷いから、極力使用を控える様にと言われているだろう?」
「フン、たかが女給如き、如何なろうと僕等の使命には代えられますまい」
 事の成り行きに付いていけぬ鞠子であったが、此処でハッキリと侮辱を受けて、憤った。鞠子は自らの手で生計を立てる職業婦人としての己に矜持を抱いている。斯様な小童に軽んぜられる謂われは無い。
「一寸、舐めた口利いて呉れるじゃあ無いの!」
 鞠子は息巻き少年に掴みかかろうとした――がそれより先に、奇人が少年の前へと歩いて行って、
 パン!
 と、彼の頬を平手で叩いた。
 そして少年の手から即座に注射器を取り上げ、地面に落とすと軍靴で容易く踏み砕く。
「その考え方と言い草は善くないな、清瀬」奇人は呆れながら、しかし何処か愛おしそうに少年を嗜める。「狭い視野が君の可能性に際限を掛けている。もっと多様な事物を見聞きし、飲み込むことだ」
「ご冗談を。僕はうつくしいものをのみ、この眼に映していたいのです」
 清瀬、と呼ばれた少年は、奇人の背後に居る鞠子を睨みつけた。ム、とまた怒りを高ぶらせる鞠子であったが、然し良く見ると、清瀬の眼は彼女の更に向こうに焦点を定めていた。釣られて鞠子も振り返ると、上擦った悲鳴が喉から飛び出した。
 三人より少し離れた場所に、先程まで姿の無かったあの化物共が群れを成して、彼女らに向かって行軍している。
「やれやれ、束の間の休息も在ったものじゃあ無いね」
 そう言って貴人は両手を自らの後頭部に遣って、能面の結び目を解くと、外したそれを鞠子に預けた。
 晒された奇人の素顔に、鞠子は唖然とする。それはその佇まいに相応の麗しい顔立ちであったが、そんなことは問題じゃあ無い。衝撃の事実に慄いている鞠子に、奇人は長い睫に縁取られた目を壱つ瞑って見せた。
「これをちゃあんと持っておいでね。さすれば、何も怖くは無いのだから」
 奇人は鞠子と清瀬に背を向けると、迷い無き速度で化物共へと駆け出した。慌ててそれを止めようとした鞠子の裾を、清瀬が苛立たしげに引っ張り留める。
「これ以上煩わせるなら、容赦はしない」
「放しなさいよ!」鞠子も負けじと声を張り上げる。「危険だわ! あの人は――」
 鞠子は既に大分遠くなって仕舞った奇人の背を見る。
「あの人は――女じゃあ無いの!」
 そう、面の下の素顔を見て鞠子は即座に理解した。優美な造形のその顔は、男子のものでは有り得ない。
 彼の奇人は、女子――しかも西洋由来の緑眼を持っていた!
 女子にしては体躯が立派であるのは、異人の血故であろう――然し、婦女子が単身切り込み如何にか出来る事態では無い。
 だがその心配を清瀬は鼻で笑う。
「違う、只の女なんかじゃあ無い。あれは――」
 最後まで言うより先に、奇人と化物共が正面衝突を果たした。
 毒々しく蛍光す夜空の所為か、遠目からも明瞭に見える。化物共は三匹掛かりで覆い被さる様に貴人を襲う――鞠子は声ならぬ悲鳴を上げた。
 その視界に、白光の一閃が走る。
 え、と鞠子が声を漏らすと共に、三匹の化物は――爆散した。
 その中心に居る奇人には傷壱つ無く……その右手には何時の間にか、白銀の刀身を燦然と輝かす日本刀が握り締められている。
 奇人は猛烈な勢いで太刀を奮い始めた。鈍重な化物共に為す術は無く、斬り付けられた者から順に、汚泥に包まれたその身を弾ける様な白い光の粒に変えて消散していく。
 鞠子が何も言えずにいる間に、奇人は化物の群れを半分程にまで減らしていた。
 それは間違いなくあの刀に籠もった聖なる力の為せる業では有ろうが、しかし鞠子の目を奪ったのは奇人の剣捌きである。
(嗚呼――これじゃあまるで、ダンスホォルだわ!)
 自らの斬撃に因り起こる白々とした瞬きの中、闘う奇人はさながら舞踏をする様。
 奇天烈な夜を絢爛に踊るその姿に我を忘れ、鞠子はつい見惚てしまった。
 その様子に満足した清瀬が、言葉の続きを静かに紡ぐ。
「そう、あれは――この世で一等うつくしいもの」
 冷淡な言葉ばかりを聞いた鞠子は、慈愛の籠もったその少年の声色に、驚いた。その拍子に、渡された面を、取り落としてしまった。
「っ、馬鹿!」
 清瀬は血相を変え、面を拾おうとした。
然しそれより先に、
「ぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおお!」
 彼らの直ぐ左方から、巨大な怪物が突進を仕掛けてきた。
 鞠子は悲鳴を上げる前に、腰が砕けて尻餅を搗いて仕舞った。と言うのもその怪物は、あの汚泥の化物を弐十は取り込んだ様な親玉で、もはや人の形を成しては居らず、小高い山の様な姿態をしていたのだ。しかもその速度ときたら、あの化物の優に五倍。アっと言う間に彼我の差が詰まる。
 動けない鞠子の前に、清瀬が庇うように立つ。少年は袂から呪符を出し対抗せんとするも、なお怪物の方が早い。その体を大きく縦に伸ばし、二人を食らい尽くそうとして――

「鎮め給え、その御心を――もうこれ以上、哀しむこと無く」

 澄んだ憐憫の言の葉。
 それと共に化物の体に幾重もの白光の筋が入り……次の瞬間、破裂する様に弾けて消えた。
 その傍らには奇人が居て、神聖なる太刀を鞘に収めた。
「間一髪だね。怪我は無いかい、御嬢さん」
「え、ええ……!」
 奇人の差し出した手に縋りながら、鞠子は立ち上がる。すると、眼に眩しさを覚えて思わず目を閉じた。閉ざされた視界の向こう、奇人が優しくあやす様に言う。
「サァ、此度の泥都は晴れた――お帰りなさい、御嬢さん。貴女の住まうべき尋常の帝都に。今宵のことは凡て、そう、凡て忘れて仕舞いなさい――……」
 その言葉を聞いていると、意識までもが遠くなって行く。それがこの不気味な夜の、そして奇妙な二人との邂逅の終焉を告げていた。然し鞠子は抗って、途切れながらも声を出す。
「待って! せめて、御名前だけでも……!」

 困った様に、奇人の笑うのを感じた。

 ……
 ………
 真昼間、カフェエの喧騒の中、鞠子は忙しく立ち回っている。
 店を満たす客等にばれぬ様、そっと欠伸を噛み殺す。
(それにしても可笑しな夢を見たものだわ。夜の帝都に泥の化物、それを異人の女軍人さんがヤッツケル、なぁんて……)
 活動写真の見過ぎだと自分を嗜めながら、それでも、と鞠子は思う。
(あの御人の様に、格好良く生きたいものだわ。そうそう、名前まで出て来たんだった……えぇっと、確か……)

 時は大正十三年――
 人知れず、泥都なる異界と化した夜の東京を護る存在があった。
 その名はアリス! 
 九現坂有璃子特務大尉! 
 憂鬱な少年・清瀬を相棒に、今宵も彼女は泥都を駆ける!


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執筆者名:世津路 章

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その名はアリス!-末期大正怪奇夜想譚-” に対して2件のコメントがあります。

  1. 浮草堂美奈 より:

    大正バトルロマン!
    男装の麗人のビンタにときめきました!
    美しくも暗い夜!

    1. 世津路章 より:

      しまった遅れました……!
      ご感想ありがとうございました!
      おねえちゃんにビンタされたいよおおおおおおおお

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