塔と孤独たちの昼餐

 今はもう、その女性ひとの顏を思い出すことができない。黒くぽっかりとした丸で、ひとりでに頭部は塗り潰されてしまった。ただ、鏡をのぞくときに、自分の顏は彼女とそっくりだと言われていたことを思い、その硝子を叩き割りたくなることはある。
 あまく、やさしい、声だけが鮮明に、執拗に、頭蓋に響いていた。目蓋を上げるまえから、今日も憂鬱な雨が降っていることを知っていた。
 赤錆び色の病んだ雨とはちがう雨が、マリアの記憶の深く苦しい部分に根付いている。弱さを知るほど脈打って、彼を狂乱へと駆り立てる肉の記憶が。ホーンの猥雑なすがたのために掻き混ぜられ、もはや誰も正確には記憶していない死があった。ありふれていて、あっけなく消え去って、マリアとて常は忘れている。
 ただ時折、強烈な渇きを覚えるような明けがた、マリアという枯れかけの井戸の底で、それは叫びをあげるのだ。ひどく耳障りなはずなのに、声はいつでもあまく、やさしい。拒むことが出来ないほど、その声の誘惑は強かった。
「ずっと一緒にいようね。ずっとふたりで生きてゆこうね」
 かつてその女性のそばにあった自分は、きっと、強さに変わる可能性を秘めていた弱さで、笑ったはずだ。幼さとは、そういったものだった。

 青りんごが六つ、壜いっぱいの角砂糖、それから無色透明の蒸留酒。
 ばかばかしいほど重い荷物だった。どの建物も高い塀を立てるせいで迷路のような《螺旋地区》の路地を、ふたりは陰気に歩いていた。オルガは大きな黒い傘をさして、重たげなバスケットを提げている。マリアの歩幅が広いせいで、彼女は時折遅れるが、そのたびにちいさく走って追いついてくる。
「ねえマリア、濡れるよ」
 思い出したようにオルガが言う。マリアは傘を持たない。外套の頭巾を深くかぶって、俯いていた。濡れると言えばオルガのバスケットには、薄緑色の布に赤い染みが点々とついていた。重たい外套のせいで、肩がひどく凝る。雨のやまない日々がはじまってから、いやなことのひとつだった。
 やがて塔は突然そのすがたを表す。
 見えていても辿りつけず、見えていなくとも辿りつく。ホーンの不気味の塔は、その民を選ぶ。塔を忌むものと、そうでないもの。黒く聳える塔を見上げて、ふたりは一瞬だけ足を止め、それから内へと足をすすめた。
 暗い塔の内部は、ひどく湿った黴臭い空気が充満している。雨を遮ったにもかかわらず、とても冷たい。いまにも崩れ落ちそうにも見えるし、幾百年を耐える堅牢な塔にも見える。なにもかもが矛盾していて、不安を孕まない箇所がひとつもないこの塔を、マリアとオルガは愛していた。
 這うらせん階段を淡々と上りきり、何か呪いのようなざわめきを感じながら、終わりに辿りつく。鉄扉が取り付けられている。開ければそこは頂上だ。
 びょうと風が吹きつけ、赤錆びの雨が再びふたりを打った。
 黒い雲に覆われたホーンの狭い空が、ちいさなふたりを暗く嗤う。自然、肩を寄せていた。縁石も柵もない、吹きさらしの円だ。ちょっとした手違いで、真っ逆さまに墜ちることができる。
 マリアは手で石の上に溜まった水を払うと、分厚い外套を敷いた。そのうえに腰を下ろす。オルガは畳んだ傘の先を石と石の溝に刺して立て、しがみつくようにして立っていた。どこか呆けた顔に色はなく、赤い雨滴が白皙に散っている。半ば強引に彼女からバスケットを奪った。
「座りなよ、オルガ」
 緩慢にこちらを向いたオルガのくちびるは、迷ったように薄く開いている。白々と立ち尽くしていた。マリアの胸には重い水が溜まる。声が尖るのが自ずとわかった。
「座れ」
 そう、吐き捨てたとき、ひと際強い風が吹いた。
 折れそうに細いオルガの躰はふらりと傾き、マリアは咄嗟に手を掴み強く引いた。もう片手で腰を取り、己の躰に抱き寄せる。息を吐いて、耳もとに囁いた。
「苛つかせないで、オルガ。俺に従うんだ」
 胸に押し付けられた小さな頭は、ふるえていた。雨に湿った短い髪に指を通し、彼女の顔を上げさせる。玉虫色の眸があらわになる。
「うん、わかったよ。貴方に従う。貴方の望むままに」
 うっすらと微笑み従順に頷くオルガに、マリアは満足させられる。一方で、抑えのきかない手が、さらに強く彼女の髪を掴むのだ。痛みを与えるための力が、ふたりの関係の答を求めていた。
「貴方じゃない」
「ええ、マリア」
 そう今度は。オルガの眸は笑わない。穴のような双眸には、落ちくぼんだ目をした、蒼白のマリアが映っている。オルガ自身の感情というものが一切排除された眸に、みじめにも必死な顔をしたマリアが、縋るように映っている。
 ぱっと手を離した。身を離したかった。それをこらえて座り込む。するとオルガは、そのまま躰の向きを変えると、マリアの胸に背をもたれて、足のあいだにすっぽりとおさまった。
「マリアはなにを持ってきた? 僕はサンドイッチと、スープと、アップルパイ」
「つくったの」
「いいえ。僕はなにもつくることが出来ないから。買ったの」
「青りんご、角砂糖、あと、酒」
 オルガがバスケットから取り出した昼食を並べる。四角くて小さいサンドイッチが幾つも、スープの入った水筒、くしゃりと潰れたアップルパイ、それからマリアの青りんごが六つと角砂糖の壜、酒。雨が降っているというのにお構いなしだ。満足げな笑みでオルガが振り向き、「何を食べる?」と楽しそうに問う。
(楽しいものか)
 マリアはサンドイッチを取りかけてやめた。角砂糖を摘まんで口に放り込む。安い砂糖のざらざらとした食感が、溶けてしつこいあまさを残す。喉に灼けつく強い酒を流しこめば中和された。あまさは跡形もなく消える。オルガはサンドイッチを齧っていた。白いパンは雨の赤い滴で点々と汚れていた。彼女はマリアの手から酒の壜を奪うと口をつけた。色の薄いくちびるの端から透明な液が垂れ、オルガはパンでそれを拭った。スープは冷めきっており、浮かんだ野菜がしんとしていた。飲む気にはなれなかった。青りんごとアップルパイとを見比べて、マリアは結局青りんごを取った。しゃり、と歯を立てると、耳もとの音に驚いたのか、オルガの肩がぴくりと跳ねた。清涼な果実の香に、マリアは目を瞑る。オルガはアップルパイを食べていた。パイは湿気ているせいでさくさくという小気味良い音を立てない。そしてオルガは食に不器用でどこかぎこちない。内の煮りんごが零れ落ち、ぼとりと黒い石のうえへと落ちた。
 食器を持たないオルガとマリアは、行儀が悪く、そして黙りがちだった。交互に呑み交わしていた酒が空になるころには、オルガはぐったりとしてマリアの胸に躰ごと預けていた。食い散らかした、という表現が相応しい、適当な食物の残りを押しやる。オルガをぎゅっと抱くと、マリアも目を瞑った。
(俺たちは食事さえまともにできないんだ。俺とオルガは)
「ねえマリア、僕たち、ずっと一緒にいると思う?」
 オルガの口調は平淡だった。
 誰かにそう言えと命じられたような、感情のこもらない言葉だった。
 心臓が嫌な音を立てる、その変調はすべてオルガの耳に伝わっているのだろう。いま抱きしめているこの躰を、放り出してしまいたくなるのだ。オルガはいつだってそういう存在だった。離れがたい、けれど、棄ててしまいたい、思って叶うことはなく、ただ思考の表層を裏切り続ける肉体が、マリアの願いを示すようで腹立たしい。果たして自分の欲望の、どちらが正しくどちらが誤っているのか、マリアには知るすべがない――。
「うるさい」
「ねえ……でも……マリアは……」
「うるさい、黙ってよ」
「それでいいなら」
「オルガ、いい加減に、」
「貴方が言わせたんだ」
 風を厭うように、オルガが首をすくめた。華奢な首の乳色の肌が、マリアを呼んでいる気さえした。くちづけではない方法で、彼女の呼吸を奪えと、そう囁かれている。ほかでもないオルガの、あまく高い少女の声で。
 だがそうはしなかった。
 あまりにもばかげていた。いまふたりは、ともに食事をした。マリアとオルガは親密だった。
 どんなに食事が無作法で、下手くそだとしても、赤錆びの雨が降っていたとしてもだ。
 オルガは気ままだ。マリアをいいように利用している。マリアがそうされることを望んでいる、と彼女は言う。態度でそう示す。支配の性たるオルガの断定に、正しいも正しくないもなく、マリアはただ従うしかなかった。
 くちびるが慄えた。
「一緒に、いるのかな……」
 オルガが嗤った。
「いないよ。僕たち絶対、一緒になんていないよ。ひとりとひとりのままだよ」
 ああ、彼女はこれが言いたかっただけなのだ。
 理解が広がると同時に、マリアは従順に絶望した。どうしてオルガは、こうして喜劇じみたやり取りで、マリアを嬲るのだろう。
「僕、思ったの。どうして貴方が僕のところへ会いに来るのかって。でも、当たり前だよね。貴方は僕を愛しているもの」
「そう」
「でも、僕といたって満たされないんでしょう。うそつき」
「……そうだ」
「だから僕は貴方と一緒にいないよ。マリアはずっと孤独のままだよ」
「おまえは?」
「僕は……僕にはマリアがいる」
 雨足が強まった。
 赤い雨が黒い石を打ち、耳障りな音が間隔を失くして直線になる。
 マリアの胸に背を預けたまま、オルガはうしろへ手を伸ばす。喉に、彼女のちいさな手が触れる。なだめるように撫ぜられて、欲が疼いた。いつ彼女は、マリアの首を掴むだろう。締め付け、爪を立て、圧迫するだろう……?
(おまえに俺がいても、俺にはおまえがいないんだ、オルガ)
 不可解なことに。
 マリアがそれを望んだから、とオルガは言うだろう。そしてマリアは甘んじて、彼女のその支配を、受け入れるはずだ。
 赤い雨がふたりを濡らした。分かち合うにはふたりの熱はあまりにも静やかだった。じくりじくりと冒すように、奥深いところだけを這っているのだ。そうしていちばん弱いところを、炎は舐める。オルガが眠り、マリアはそのうちにすがたを消すことを許される。そのように「裏切れ」とオルガが言う。「棄てて」「去り」それでもなお「縋れ」「戻れ」と。
 母はマリアにすべてを与えた。
 それでは満たされなかった――。
 マリアがオルガを腕に抱く理由は、そんなことだった。
 ふたりで完ぺきではない存在であることが、常に危機にさらされ居ることが、より大きな快楽を得るための鍵だ。餓えと渇きの果てで与えられる水は、たとえ錆びておろうとも、どんなに豊かな水よりも、マリアを潤すだろう。そしていまそれを与えられるのは、ただこのオルガだけなのだ。
 もっと。
 もっと。
 もっと酷くして。
「ねえマリア、また一緒に食事をしてくれる?」
「ああ……、いいよ」
 おまえの望むままに、オルガ。
 


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サークル名:ヲンブルペコネ(URL
執筆者名:跳世ひつじ

一言アピール
ひとりサークル【ヲンブルペコネ】ファンタジー担当の跳世ひつじです。「欲望×日常」をテーマにした新刊『赤錆びと渇きの。』を頒布します。生と死と自と他、危い境界でふらつく子らのお話です。本作は番外編となっておりますので、単体でお楽しみください。

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塔と孤独たちの昼餐” に対して2件のコメントがあります。

  1. 浮草堂美奈 より:

    えろい。食事から退廃的な美を感じます。

  2. びびあん より:

    虚無の世界。前も後ろも無い、上も下も無い。今がある。

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