紙風船と万華鏡
夜の団地は、とても静かだった。
今、四階の階段はしんと静まり返っている。空はもう真っ暗。わたしたちがいる踊り場は、たよりない明かりがひとつ点いているだけだった。
遠くから、どこかの家の笑い声が聞こえてくる。テレビの音や、食器がかちゃかちゃ鳴る音も。なんだか、とても遠い町の音を聞いているような気がした。
「さきちゃん。もう帰ったほうがいいんじゃない? おうちの人に怒られちゃうよ」
みほちゃんが口を開いた。わたしと隣あって階段に座っているみほちゃんは、心配そうにわたしを見ている。
「大丈夫だよ」
「でも……」
「まだ、みほちゃんと遊びたいもん」
だって、みほちゃんは。
まだ、家に帰れないから。
だからわたしは、みほちゃんが帰れるまで、ここで一緒に遊ぶつもりだった。
「みほちゃん、ほら見て。紙風船」
わたしはスカートのポケットから紙風船を取り出した。夕方、一度家に帰ったときに持ってきたものだった。
「紙風船って?」
不思議そうに見ているみほちゃんの目の前で、わたしは紙風船をふくらませた。てっぺんに小さな穴が開いていて、ふうっと息を吹き込めば簡単にふくらむ。
「きれいだね」
みほちゃんがはにかむのを見て、わたしは少しほっとした。わたしが紙風船を渡すと、笑って受け取ってくれる。
「それ、みほちゃんにあげるね」
「ありがとう」
赤、青、黄、緑、ピンク、白。色鮮やかな紙風船を持って笑うみほちゃん。心から笑ってくれたら、と思ったけれど、やっぱり少しぎこちない。
「さきちゃん。これ、どこで買ったの? わたし、紙風船って初めて見た」
「日曜日に、文房具屋さんに行ったときに見つけたんだよ。きれいだよね」
「うん、とってもきれい」
みほちゃんは紙風船を両手で包み込んで、じっと見つめている。わたしはみほちゃんを見ていた。みほちゃんのまっすぐな目は、紙風船だけを見ている。
二人がだまりこむと、辺りはとても静かだった。こんなに静かで暗いのに、わたしはなぜかほっとする。きっと、みほちゃんが隣にいるからだ。
「ねえ、みほちゃん」
わたしが声をかけようとした、そのとき。
足音が聞こえてきた。大人が早足でこっちに来る。わたしは思わずびくっとして、振り返った。
「さき! まったく、いつまで遊んでいるの。早く帰って来なさい!」
「お、お母さん……」
「ほら、早く!」
お母さんはわたしの腕をつかんで立たせると、家の方へ引っ張っていこうとした。
「ごめんね、さきちゃん。わたしが引き止めちゃって」
「ううん、みほちゃんのせいじゃないよ。じゃあ、明日、また学校でね!」
「うん、また明日!」
お母さんに半分引きずられながら、わたしはみほちゃんに手を振る。みほちゃんも笑顔で手を振り返してくれた。でも、お母さんはみほちゃんを見て、一瞬変な顔をする。
「みほちゃんも、早くおうちに帰りなさいね」
「はい。おばさん、心配かけてごめんなさい」
みほちゃんは頭を下げて、階段を上っていった。みほちゃんの家は上の階にある。
みほちゃん、ともう一回呼ぼうかどうか迷っているうちに、彼女の姿は見えなくなってしまう。
お母さんに引っぱられて家に入ると、蛍光灯がとてもまぶしかった。
「さき。最近遅くまで遊びすぎよ。もう少し早く帰ってきなさいって、前にも言ったでしょう?」
わたしがご飯を食べている間、お母さんはこの前と同じことを言っていた。わたしはそれをほとんど聞き流して、ひらすらご飯を口に運ぶ。
テレビがつけっぱなしになっていて、なんだか難しそうな番組をやっている。世界平和とか、何かの会議とか。わたしには、そういう難しそうな話はよくわからない。それより、みほちゃんのことだ。みほちゃんのことが、わたしはとても気になっていた。
ご飯を食べ終わると、わたしはすぐに自分の部屋にこもった。部屋にあるクッションを抱えて考える。
みほちゃんは、今頃どうしているだろう。上の階の階段に座っているのだろうか。それとも、家に帰ったのだろうか。
家に帰ったら、こわいお父さんが待っているのに。
想像すると、思わず体がふるえた。
みほちゃんのお父さんは、とてもこわい人だ。いつもみほちゃんを怒鳴ったり叩いたりする。だから、みほちゃんは家に帰れない。学校が終わった後、いつも夜遅くまで階段に座っているらしい。夜遅くになれば、お母さんが仕事から帰ってくるから。そうすれば、みほちゃんは少しだけ安心して、家に帰れる。
少しだけ、だけど。みほちゃんはそう言った。お母さんがいても、やっぱり、叩かれることも怒鳴られることもあるらしい。
それを聞かされたわたしは、そうなんだ、大変だね、って。それしか言えなかった。何て言うのが正しかったのか、わたしにはわからない。
そのとき急に紙風船のことを思い出して、わたしは机の引き出しを開けた。白い紙袋に、紙風船があと四つ入っている。毎日一個ずつ、これをみほちゃんにあげよう。そう思って、引き出しを閉める。
でも、紙風船を全部あげたあとは、どうしよう。何をあげれば、みほちゃんは喜んでくれるかな。もう一度引き出しを開けて中を探る。入っているのは、ビー玉、おはじき、おもちゃの指輪、お手玉などなど。ひとつひとつ手にとって確かめるけれど、どれも紙風船みたいに喜んでくれるとは思えなかった。
引き出しの中身を取り出していくと、奥のほうに黄色い風船があった。ああ、でも、風船はだめ。いきなり、バン、って割れるから。みほちゃんは風船が好きじゃないって、前に言っていたんだった。
急に何かの音が聞こえて、わたしは思わず天井を見上げる。
上の階からだ。
どん、どん、と何かを叩く音のような気がして、なんだかこわくなった。みほちゃんは、大丈夫だろうか。でも、大丈夫じゃなかったとしても、わたしには何もできない。
しばらくすると音は聞こえなくなって、少しだけほっとした。夜の団地は、また静かになる。
わたしは引き出しの一番奥から、小さな筒を取り出した。わたしの大切な万華鏡。それを持って、ベランダに出る。
ベランダから見る夜空は真っ暗で、ふたつだけ星が光っている。あとは、遠くの町の明かりが点々と見えるだけ。
わたしは万華鏡をのぞいた。
この万華鏡は、中に石やビーズが入っているものではなくて、周りの景色を取り込むタイプのもの。こんな真っ暗な空を見ても、暗くてよく見えない。それでも、町の灯りが空と混ざって、真っ黒な中にオレンジや白の光が浮かび上がるのは、少しだけきれいだと思った。
階段にいるときは感じなかったのに、ベランダは空気がひんやりして、少し寒い。それでもわたしは万華鏡を見続けた。くるくる回す度に模様が変わって、同じ模様は何度も見られない。
お母さんに怒られたり、同じクラスの子とケンカしたり、何かいやなことがある度に、この万華鏡をのぞいた。くるくる変わるきれいな景色。見ているだけで、気持ちが明るくなった。
でも、今は。
万華鏡をのぞくたびに、みほちゃんのことを考える。
これをみほちゃんにあげたら、きっと喜んでくれるに違いない。わかっているけど、わたしはこれを誰にもあげたくなかった。わたしは……意地悪、なのかな。みほちゃんを喜ばせたいなら、真っ先にこれをあげるべきなのに……。
みほちゃんのことをお父さんやお母さん、先生たちに話しても、あまり取り合ってくれなかった。もっと、何か知恵を働かせれば、話を聞いてくれるのかもしれない。でもわたしは、そこまでできなかった。みほちゃんの役に立ちたいのに、本当は全然役に立ってないのかもしれない。
考えていると気持ちがもやもやして、そういうとき、わたしはいつも万華鏡をのぞく。万華鏡から見る景色は、いつでもきれいだった。
ねえ、どうしたら、みほちゃんは心から笑ってくれるのかな。
そんな風に話しかけてみても、万華鏡は何にも答えてくれないけれど。
くるくる回る、たくさんの小さな光。
この景色を見たとき、みほちゃんはどんな顔をするだろう。
みほちゃんは、笑ってくれるかな……?
明日、みほちゃんと一緒にこの万華鏡を見てみよう。
ふたりで万華鏡をのぞけば、きっと、何か新しい景色が見えるはず。
サークル名:海と空と夜(URL)
執筆者名:こうげつ しずり一言アピール
初めまして。ふと見上げた空の色や、風の音、木々や花のある風景。日常の中にある不思議な世界。ここではない、遠い世界の物語。そんな雰囲気のお話を書いています。本のほうは二次創作での参加となりますが、こちらも日常の風景や季節感を大切にしながら書いてみました。
主人公の優しさと、どうにもできない哀しさに切なくなりました。
文章が読みやすくて、きれい。
お返事が遅くなってしまいましたが、
コメントをお寄せいただき、ありがとうございます!
この作品は文章のリズム感や言葉の選び方にも気を付けて書いたつもりなので、
読みやすい、きれいと言っていただけると、とてもうれしいです。
ありがとうございました。
どうにもならない現実と、それでもみほちゃんを想うさきちゃんが良かったです。大人たちは全員みほちゃんのことを考えたりしないのも、リアリティがありました。
お返事が遅くなってしまいましたが、
コメントをお寄せいただき、ありがとうございます!
あまり重苦しい話にはならないように、
でもあまりにも軽い話にもならないように、と
バランスに悩みながら書いていました。
小さな世界で生きる二人の気持ちが伝わったら幸いです。
ありがとうございました。