薔薇の和名

「君の名前は薔薇の和名なんだね」
 昼休みに私の席を勝手に占領して、優雅に本を読んでいた彼女が小さくそう声を零した。
 私は仕方がなく空いていた前の席の椅子を拝借して、彼女の方へ身をやや乗り出した。
 彼女が読んでいたのは植物図鑑、それも薔薇専門の薔薇図鑑だった。
「……なんでそんなもの読んでいるのよ」
 薔薇だなんて、眉目秀麗を絵に描いたような、それこそ周囲に薔薇の香りを振りまいていそうな彼女にこそ相応しい花の一つのように思えるが、それでも彼女が学校で小説以外の書物を読んでいるのもめずらしかった。
 彼女は律儀に質問に答えた。
「ちょっとした調べ物さ。私のおじいさんが薔薇の栽培をしていてね、先日見せてもらったら、ちょっと興味が出てきてしまった」
「薔薇の栽培は難しいってよく聞くけれど」
「そうらしいね。まるで『星の王子さま』のはなしだね。おじいさんはそれはとてもよく薔薇を愛でているようだったよ」
 そこで彼女はようやく図鑑から目を離し、私へと顔を向けた。薄い水膜の張った彼女の大きな瞳に、私が映り込む。そのはっとするような整った顔は、すぐに淡く微笑まれた。
「難しいけれども、愛をきちんと向ければ応えてくれる花のようだ。私にぴったりだと思わないかい」
「あなたが育てたんじゃ、蕾のまま、ずっと咲かないんじゃないかしら」
 薔薇の方が萎縮してしまう気がする。彼女はたしかに薔薇が似合うが、彼女の気高いほどの美しさには、結局薔薇も装飾花としてしか機能しないような気がしたのだ。
 私は心内でそういうことを思っていたのだが、少し気恥ずかしかったので嫌味の口調を多分にして言ったのだった。
 しかし彼女はむしろおかしそうに声を上げて笑った。
「それは困るな。花を愛でているのに、花が咲いてくれなければ困る。……実を結ぶものならばともかくね」
 薔薇はそうもいかないだろうからなあ、と、彼女は淡く微笑んだ顔のまま、目を伏せた。
 彼女の長い睫毛が、濃い色の瞳を陰らせた。
 窓辺から風がやわらかく吹き込んで、彼女の髪をさらりとなびかせる。
 開かれたままの図鑑には、たくさんの写真の薔薇が、こちらを向いていた。
「あなたがそんなに興味を示すなんて、めずらしいわね」
 彼女は普段からとても涼しい顔をして、何にも興味を示さないような、そんなきらいがある。私や周りの女生徒たちが、諸事にどれだけ騒いでいても、彼女だけはいつだってどこ吹く風だ。
 風というより、まるで淡水だ。ひやりとつめたい。それでいて、さらさらと流れていく。
 そこに不純物など存在しない。
 彼女は私の言葉を受けて、ただ「そうかな」と小首を傾げた。
 そして一拍置いて、
「そうでもないさ」
 と、付け足した。
「そうかしら? あなたが興味あることと言ったら、駅前の喫茶店のパフェくらいしかないと記憶しているわ」
「君だって好きだろう。あそこのパフェは絶品だ」
「その絶品パフェと同じくらいの興味を、あなたが他に示しているのがめずらしいって言っているの」
 少し呆れ顔でそう言うと、彼女は「そうだろうか……」とまた繰り返すように呟いて静かになった。
 しばらくして、彼女は思い出したように疑問を口にした。
「切り花じゃない薔薇というのは、花屋で手に入るのだろうか」
 彼女はどうやら本気で薔薇の栽培に手を出したいらしい。
 私はちょっと溜息をついて答えた。
「この町の小さな花屋にはあまり売っていなさそうね。取り寄せになるんじゃないかしら。……そんなに欲しいの?」
「ああ、欲しいな。……でもそうか、ここでは手に入れるにも手間がかかるんだな。おじいさんに頼んでみようか」
「それが一番良いんじゃないかしら。いろいろ教えてくれるかもしれないわよ」
「そうだね。たしかに知識も大切だ。せっかくの薔薇を枯らしてしまっては、悲しいからね」
 彼女は途端に嬉しそうな、うきうきとした気持ちが見て取れるような顔になった。
 一体何が、彼女の心にそんなに響いたのだろう。普段の彼女からはなかなか想像できない事例だった。
 ……絵画のように美しい彼女には、たしかに『薔薇の栽培』など、似合うと言ったら似合い過ぎてはいるのだが。
 初めて耳にした時は驚いた彼女の男のような喋り方だって、どこか彼女の品位を上げている要因にしか思えなくなった。
 薔薇の栽培の趣味など、彼女はすぐに、自身の気品の内に纏い込んでしまうのだろう。
 私は、見事に咲き誇った薔薇の花に微笑む彼女を想像した。
 彼女をそんな風に幸せそうにできる薔薇の花が、少し羨ましく思った。
 またカーテンがふわりと舞ったときに、ちょうど予鈴の鐘が鳴った。
 生徒たちが各々の席に戻り始め、彼女も広げていた薔薇図鑑をぱたんと閉じて椅子から立ち上がった。私の席が空く。
 去り際に、彼女は図鑑を大事そうに胸に抱きながら、私に向かった。
「君、今日の放課後は時間あるかい? 良かったら一緒におじいさんの家に行かないか」
 彼女の祖父宅には、私も何回かお邪魔させてもらったことがあった。手入れの行き届いた広いイングリッシュガーデンがある、素敵な屋敷だ。
 私はそのときのことを思い出しながら、彼女の誘い乗ったのだった。

***

 彼女の祖父宅は、いつ見ても大きい。
 西洋造りで色とりどりの薔薇が咲いていて、まるでおとぎの国の世界のようだ。
 彼女の祖父は、私たちを快く迎え入れてくれて、前のように庭へと通してくれた。
 侍女らしき女性がお茶とお菓子を運んできてくれたのを合図に、テーブルに座った彼女が「おじいさん」と切り出した。
「おじいさん、あのね、今日は少しお願いがあって来たんだ」
 彼女の祖父はゆるやかに「何かな」と聞き返した。
 彼女は一拍置いて、自らの祖父へと申し出た。
「薔薇を一つ私に譲ってほしいんだ」
 庭いっぱいに咲き誇る薔薇の香りが、私の鼻腔を刺激していた。
 彼女が慎重に切り出したのも、きっとこの彼女の祖父が、それほどまでに薔薇を大切にしていると知っているからだろう。
 彼女の祖父は手にしていたティーカップを静かに置いた。
「先日薔薇の話を聞かせたときから、そう言うと思っていたよ。……どの薔薇が欲しいのかな」
 優しく微笑んで、彼女の祖父はそう返した。
 それを聞いた彼女はみるみる目を輝かせて、すぐさま窓際の方を見て指差した。
「あの薔薇」
 そこには鉢植えに植えられていて、まだ蕾の、一輪の薔薇の花があった。
「あの薔薇の苗木が欲しいんだ。あの蕾の薔薇。私にも育てられるかな」
 彼女の祖父は示された薔薇を見、そしてなぜか私の方を見てから、彼女へ視線を戻して「そうか、あの薔薇か」とまた微笑んだ。
「譲っても良いが、あの薔薇はつる薔薇だ。最近手に入れたから、まだ苗木なんだ。育てられる場所はあるのかな?」
 彼女は祖父の言葉を聞いて、声を詰まらせた。彼女自身の生家はマンションの一室にある。決して狭くはないのだが、つる性の薔薇の栽培ができるほど、バルコニーは広くなかったと思う。
「他の薔薇じゃだめなの?」
 私が思わず彼女に聞くと、
「あの薔薇じゃなきゃ嫌なんだ」
 と、彼女はまるで子供のように言って、悔しそうに目線を落としてしまった。
 このように拗ねた顔をする彼女もめずらしかった。はたして彼女の中に何かこだわりでもあるのだろうかと私が不思議に思っていると、彼女の祖父が「お嬢さん」とテーブルの向こうから優しげに声を掛けてきた。
「お嬢さんの名前は、たしか千早さんだったね?」
「はい、いつもお孫さんと仲良くさせていただいてます」
 私が答えると、彼女の祖父はそこで何度か頷いて、嬉しそうに笑った。私には彼女の祖父がなぜ頷いたのかよくわからなかった。
 途端彼女が、らしくもなく一層俯いてしまったのも少し気になった。
 彼女の祖父は、肩を落としているらしい彼女へ、「提案なのだが」と、静かに切り出した。
「あの薔薇の世話を、この庭でするというのはどうかな? この庭の一角を貸そう。私も、孫が頻繁に遊びにきてくれるようになるのは、嬉しいからね」
 彼女は祖父の台詞を聞いて、顔を上げた。輝いた目で「いいの?」と念を押し、彼女の祖父が頷くのを見て、彼女はようやく「ありがとう!」と満足そうに喜んだのだった。
「どうしてそんなにあの薔薇がよかったの?」
 私がついに疑問に思っていたことを口にする。すると彼女は何かを言おうとして、しかしどこか仕方がないような、そんな微笑みをもって言うのを止した。
 私が首を傾げていると、彼女はぽつりと独り言のように言った。
「あの薔薇には、和名があるんだ」
 ああ、そういえばそんなことを、……薔薇には和名があるとか、さきほど彼女が学校で言っていたようなことを思い出す。
 ささいな言葉だったような気がして、流してしまった。……彼女は何を、言っていただろうか。
「……もしかして、その薔薇の和名が好きな人の名前と一緒とか?」
 私が少しだけからかうような気持ちで言ったら、しかし彼女は、
「そうだよ」
 と、一言、とても真剣な、静かな声で、肯定したのだった。
 それは静かながらも、とても愛しさの溢れているような、そんな声色だった。
 ……私はそれを聞いてから、以降、彼女の思い人の名を気安く知ってはいけないと、その薔薇の和名を自ら調べることをしなかった。
 彼女に大切にされた薔薇が見事に大輪を咲かせたのは、そう遠くの未来ではなかったのだけど。
 その薔薇の和名を私が知るのは、その薔薇が何度も何度も花咲くのを繰り返すくらい、随分と時間が……かかってしまったのだった。


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サークル名:パヴォニア前派(URL
執筆者名:香澄或乃

一言アピール
トレーディングカードゲーム『ラストクロニクル』の小説本を中心に出展いたします。最近女の子を書くのが好きで、今回のアンソロジー作品も女の子たちのお話にしました。『ラストクロニクル』の方も女の子二人が中心です。原作を知らなくても楽しめるよう努めて執筆しましたので、よろしければお立ち寄りください。

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薔薇の和名” に対して1件のコメントがあります。

  1. 浮草堂美奈 より:

    耽美……。女の子たちの薔薇の園の美しさ……。

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